2007年8月1日水曜日

昨日のご供養当番

 美奈子さんからメールをもらった。美奈子さんは、7月1日の入信以来、ずっとずっと朝参詣を続けておられる。この夏期参詣も開門参詣を続けている。しかも、いっつもニコニコしてくれていて、朝本堂でお顔を見る度に、本当に有難いと思う。ありがとうございます。
 その美奈子さんのメールは、昨日の教務部のご供養当番の写真。携帯電話で撮ってくれた写真を送ってくれたのだ。エプロン姿の御講師方、おもしろーい(笑)。(いや、実は私もいたのでした)
 実際、このようなご奉公を始めたきっかけは、これも恥ずかしい内容だ。妙深寺には様々なご奉公があり、教務さんもご信者さんもみんなで手分けしてご奉公をさせていただいている。当たり前のことだが、教務がさせていただくご奉公とご信者さんがされるご奉公、お寺の事務局の幹部さんがするご奉公と、教区や部、組や班でのご奉公には違いがある。しっかりと、分担を責任を持ってさせていただくからこそ、ご法さまのお家である法城の護持が出来るし、ご弘通のご奉公が出来るというもの。
 しかし、私が住職に就任した頃、とても気になることがあった。お寺も年を取る。マンネリ化もする。役割分担をずっとしてきて、いつしか本来の意味が薄れて、変な意識、役職の上に驕るというか、お役によって知らん顔をするというか、他人事のようなカタチでご奉公が進んでしまっているように感じたのだ。
 勿論、それは杞憂だったかもしれない。でも、会議の席でも長年ご奉公されているご信者さんから「お寺さんはどう考えているのですか?」というような、教務とご信者さんの壁を感じて、「これはいけない」と思ったのだった。僧俗一体が本門佛立宗の核心であり、命だと思うのに、そこが崩れていては、仏教徒として何の学習もないことになるのではないか。上座部仏教と大衆部仏教、顕教と密教、既成仏教と新興宗教、、、と。佛立宗は仏教史の中で最後の最後に答えを出したはずなのだから。
 いくら「マンネリ化してはいけない」と口で言っても、なかなかフレッシュにはなれないし、実際のご奉公に対する考え方ややり方が変わるものではない。そう思った時、いつも私は実際に「行動」してしまった方が良いと考える。つまり、この「御供養当番」も「教務さんが一同でやります」ということで、ご奉公への考え方や取り組み方を一新して考えていただきたいと思ったのだった。
 みんなでさせていただくのがご奉公。誰もが、精一杯、出来る範囲でさせていただくのがご奉公である。楽しいし、嬉しいし、やり甲斐がある。教務さんは清和会(御講師方の奥さまの会)の方々と共に前日から下準備をして、朝は5:00過ぎにお釜のスイッチを入れて調理場に入ってくれる。私は6:30に本堂でお看経を始めさせていただき、7:00の御法門で調理場に下りる。昨日の場合、その後は淳慧師が御法門をしてくださり、7:20から8:00までは淳慧師一人でお看経の導師をしていただく。
 本堂から下りてきて、調理場を見たお参詣者から「うわー、今日は本堂に教務さんがいないから、びっくりしたー。教務さんみんながボイコットしちゃったのかと思った~(笑)」と言われたりした。そりゃ、そうだ、その気持ちも分かる。住職の私を含めて、教務さんは御宝前のお給仕、お看経の導師をするものなのだ。調理場に下りてご奉公することが本来のご奉公ではない。病気の方の御祈願もある、苦しみ悩んでいる方の御祈願だって、そうした方のお参詣もある。そこが私たち教務の主戦場であり、責務。しかし、かといって、それだけではないはず。ご奉公の手本を身を以て示すのも教務だと思う。どのように功徳を積み、どのように罪障を消滅し、どのように御利益をいただくかということを、御法門で説き、自らも手本を示すのが教務であると教えていただいている。
 そう考えれば、年にたった2回のご供養当番だって、良い。有難い。調理場に下りて、元気な声で「ありがとーございまーす」とお参詣者に声を掛け、仕事がある方が慌ただしくご供養を召し上がる姿も見ることが出来るし、一人一人とほんの少しでも会話ができるから有難い。教務さん全員、調理場に入っていて、お味噌汁を注ぐ係や運ぶ係、お出しする係、食堂のごはんやお新香の量をチェックして足す係、そして食器を洗う係。みんな、さすがに手際が良い。最高のチームワーク、う~ん、すごい。しかも楽しそう。ありがたい。立派なお手本です。「これぞ本門佛立宗!」と叫びたくなるくらい、有難いなぁと思う。
 ps:しかし、残念ながら、目論見が外れて、最後の最後にお味噌汁とごはんが足りなくなってしまった。悔しいなぁ。最高のお汁を作ったのに、召し上がっていただけない方がいたのは残念。「お参詣者が多いんだもんなー」と言い訳をしていた人もいたが、これは来年は何とかしないとなぁ。最後の方々、お汁の注ぎ方が少なめになってしまって、すいませんでした。

7 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

ありがとうございます。
質問させていただいてよろしいでしょうか?
本来、信者さんが積むはずであった功徳を無くすことにはならないのでしょうか?

匿名 さんのコメント...

素敵ですね~本当に楽しそうでした♪
それに美味しかった~トン汁!

こういう風景って、御住職や御教務さんも
御法様の前では信者の一人、私と一緒という
気持ちにさせていただけます。

私、そこが妙深寺の素晴らしいところだと思うんです。みんな、一緒に頑張ろう!って。

そういう気持ちが伝わって、お寺の内外で
役職や世代や人の気持ちの壁も取っ払って
LOVE&PEACEな人間関係が生まれると…

功徳って、場所や役職でこうあるべきと限定されることではないですよね~(生意気いってすみません!)

自分から率先して功徳を積む。
出来ることをする、
簡単にできそうなことでも一緒にと…

目の前に落ちてるゴミを拾うことすら躊躇する私たちですからね~

実は誰でも出来ることをみんなしないから
こんな世の中になってるわけで…環境問題もしかり…

だから、きっと今まで御供養場に興味のなかった方も御住職たちの楽しそうな仕事っぷりに今度は参加しようと思ってくれるのではないでしょうか♪

またそれがその方々の功徳に繋がる。

有難いことをすると、有難いがグルグル廻って感謝感謝です☆

次回の皆様の御供養当番も楽しみにしておりま~す!

Seijun Nagamatsu さんのコメント...

ありがとうございます。そうですね、その通りです。
本来、ご信者さんが積む功徳を教務部で横取りしていることになると思います。実際、そういう意味でこのご奉公は妙深寺の恥ずかしい部分だと思います。
あるいは、「横取り」「功徳を無くす」という以前に、厳しい言い方をすればお折伏に当たります。教務部が長く続けるご奉公ではなく、妙深寺に出来てしまった教講の壁を取り払い、ご信者さん皆さんの意識改革が出来れば有難い。ご奉公はみんなで率先してさせていただくということを。
開講当時、ご奉公は全てしてみせて、言って聞かせて、させてみる、ということを繰り返して、新しい方々を教導されたということを思い返して、「功徳を無くしてしまう」ということよりも、「ここまでしても育成するぞ」という面を考えています。
長松清潤拝、

Seijun Nagamatsu さんのコメント...

Yaccoさん、
ありがた~い。
本当に、嬉しいです。
感謝の輪、有難うの和が、どんどん広がりますね。
次は一緒にご奉公しようね。
ありがとう、Yaccoさん。

匿名 さんのコメント...

ありがとうございます。
山本五十六の「やってみせ 言って聞かせて させてみて 誉めてやらねば 人は動かじ」ですね。了解しました。

Seijun Nagamatsu さんのコメント...

コメント、ありがとうございます。

ご信者さんの少ない地方のお寺の御住職にお聞きすると、細かい点まで全てご自身でされていると仰るのです。私たちのように都会で、ちょっとご信者さんやご奉公者がいるお寺は幸せだ、幸せすぎる、と。

確かにそうした側面もあります。先代からの教えは勿論、できあがったシステム、やり方、制度の上に乗らせていただいて、ご奉公させていただいているのですから。それをそのままにして一線を画したままでは、法灯相続にしても新しい方に対する育成もなかなか出来ないという実状がありました。

ですから、開講当時の、何もなかった時代を思い返して、開導聖人でさえ数十年かけてご奉公体制をお作りになったのですから、そこに戻ろう、戻ったつもりで率先してご奉公させていただこうと考えています。

なかなか良い話ではありませんが、とにかくご信心は有難い、ご奉公は有難いという意味で、みんなで喜んでさせていただいています。

匿名 さんのコメント...

いろいろ、工夫を凝らしていらっしゃるのが伝わってきます。信者さん一同で「生きた御信心」をされていると感じました。

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