2007年8月10日金曜日

佐野富雄氏のブラジルでのスピーチ

~佐野富雄氏の著述 「私のあゆみ」から抜粋~

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 小田原・法正寺の佐野氏は、当時御住職をされていた日博上人の強信者として、法正寺創立以来ご奉公された方である。

 横浜・妙深寺、小田原・法正寺、相模原・妙現寺の御住職をされていた日博上人は、体調を壊しておられたにもかかわらず、生涯もう一度ブラジルのご奉公をさせていただたいと決定(けつじょう:決意されること)された。日博上人の御師匠でもある当時の御講有・15世日晨上人に、遠いブラジルでご奉公している佛立教講をご覧いただくことと、臨終を前にご自身が現地のご信者に生涯の御礼を申し上げるためにブラジル行きを決断されたのだった。その際、強信者であった佐野氏も、身命財を投じて御導師に随行すると申し出た。

 佐野氏は、鈴木製餡所という神奈川県では大手の製餡業を営まれており、その社長を勤めつつ神奈川県製餡協同組合の理事長も歴任した。しかし、このご奉公のために家業を休み、ブラジル行きを決断したのである。

 案の定、日博上人は生涯最後のご奉公となり、時を経ずして帰寂された。しかし、こうしたご奉公によって、15世に同行した18世日地上人とブラジルのご縁がはじまり、ブラジルの今日までに至る礎を築くことが出来たとお喜びになっていると確信する。日博上人は常々、18世にブラジル弘通への支援について期待を寄せておられたということが文中にも明記されている。

 ここに掲載された文章は、佐野氏自身が出版した自分史「私のあゆみ」の中に所収されていたものである。文中にもあるが、当時のブラジルは大変なインフレであった。講有巡教であるというのに予定も決まらず、御有志も集まっていなかったという。日博上人の思いとは裏腹に、ブラジルの教講はインフレの前にご信心を鼓舞できていなかった。第二回目となる講有巡教そのものの計画経緯も理由の一つだったと思われるが、それにしてもご信心が立っておらず、ある意味ではブラジル第一回巡教前後の「勝ち組、負け組」の問題よりも重大な局面であった。

 そのような状況の中、佐野氏が日本の信徒を代表して、ブラジル信徒に呼びかけている姿は、涙無しでは読めない。ご自身が御導師を思う気持ちと、ご信者として御導師を外護しようとする気持ちが、全て表れている。ここまでご信者がお話くださるということに、後世の私たち佛立信者は驚きすら感じるし、日博上人門下に続く私たち教講としては恥ずかしくすら思う。海外へのご弘通ご奉公に随行し、ここまで現地の方々のご信心を鼓舞し、ご奉公される御導師を立て、護れるご信者が現在何人いるだろうか。観光旅行などではないのだ。

 ブラジル開教100年の記念すべき時に当たり、ブラジル弘通の歴史を語る貴重な資料として、ブラジル教講に紹介したいと思う。
                                     長松清潤拝、
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「海外ご弘通(ブラジル行き)」

 昭和三十九年八月、私は日博上人の御供をして遠くブラジルの地まで行くことになった。

 目的は御講有のブラジルご巡教の先き触れとして、御講有一行より一走先にブラジルへのりこみ、御講有ご巡教に手落ちが無いよう、準備に当たることと、遠い異国で、仏立宗ご弘通に邁進されている現地の方にお礼を申し上げることの二つであった。

 当時、日博上人は、ご奉公の過労から身体をこわされていたが、御講有に、折角下種が成就、法灯がともり続けているブラジルを親しく偵察していただきたい。お願いする以上、ご巡教が首尾よく成果をあげるように、万が一にも手落ちがないようにとの一念から、病躯に鞭うたれて渡伯されることになり、局長の私がお願いしてお供をすることになったものである。

 八月十七日夜羽田を出発、十九日ブラジルに到着した。

 二十一日サンパウロ市の日教寺へ着き、旅の疲れをいやすひまなく、四時十五分よりブラジル全信徒の歓迎会にのぞみ、そこで上人がブラジル到着第一声として「南無妙法蓮華経。信仰」という講演をされ、全信徒に多大の感銘を与えられた。
 次いで二十五日の御総講で、妙講一座の御講話のあと、挨拶がてら私がお話しさせていただいた。
 以下に記すものが、その時の話の全内容である。

『 妙法蓮華経に南無して 』

 ブラジルのみなさんありがとうございます。

 お導師のお伴をして無事にここに着きまして、皆さんに親しくお目にかかる事が出来、一緒に唱題し、お話を伺い、且つお話をすることの出来たのを、私は一生の光栄、一代の思い出とさせて頂くことが出来ます。

 ところで私も少しばかり皆さんにお話を申しあげたいと思います。と云うのは、「南無妙法蓮華経。信仰」この講話をお伺いいたしまして、私は痛切に感じるものがございますので、一言お話を申しあげたくなったのであります。

 皆さん、私達のお導師日博上人はご承知のお方もいらっしゃるでしょうが、本当に少年時代に、すでに大病で医者から死の宣告を受けられた身の上でございます。

 それをお母さんが命がけで、信仰に励まれる。「他の子供は束になって死んでも、この子だけは助けなければ」とお百度を踏み、夜中お詣りをなされたのだそうであります。そのお母さんの慈愛と、このご法の尊さで、遂に不治と言われた大病を克服し、全快をさせられたのであります。それで得度をするようにと言われたのだそうでございます。

 ところがお導師はお寺とお坊さんが大嫌いであったそうでした。というのは、叔父さん二人が禅宗の方の相当のお寺のご住職をしていらっしゃるので、時々お客に行く。そしてご馳走になる。それは好きなのです。けれども、お寺と、坊さんの姿が根から嫌いであったと言うのであります。それで何んとしても承知しなかったのを、強烈なお折伏を頂きましたところ、このご法で命を助けて頂いたので、「ではこのご法のため佛立の教務ならば」と、言うので遂に大正十五年得度をせられ、以来命がけで行学に励み、ご弘通に気張られたご導師でございます。

 東京の乗泉寺でも最弱年の青年教務として、ご奉公に励みながら、或は薫化子供会、或は婦人会に、又は青年会の参与として、大いに成果を挙げ、ご奉公経歴を積まれるばかりか、殆ど全東京にわたって責任講師としてのご奉公を遊ばされました。そして昭和三年には早くも会津の若松を開発し、昭和七年熱海では寺院建立を創立の御奉公にあたり、後に房州で御奉公をし、昭和十五年には宗門から選ばれて、内南洋のサイパン・テニヤン・パラオの方面のご弘通に出かけて、対外的にも講演会等で大いに気を吐き、官庁に交渉して、寺院設立の認可と土地の払下げも受け、一寺建立の基礎を築いて来られる等、早くから内外ともに活動して来られた方でございます。

 昭和十二年、日住上人のお弟子顕事師のあとを受け法正寺を受け持ち、昭和十九年横浜妙深寺担任、後、相模原の妙現寺も兼務して、三ヶ寺共々今日の隆盛の基礎をきづく一方、早くも昭和二十五年には、一実新聞を発行し、又国立箱根療養所の精神指導や社会福祉法人「ゆりかご園」の設立に努力して理事となり公益事業に尽くす等々、八面六臂のご奉公に日夜命がけで、昼寝、夜寝ず、時を定めないご奉公をなさいまして、一宗尊敬の的、全国教講の憧憬するところとなっておられたお方でございます。

 ところが、昭和三十年には梶本猊下の随伴をして、ブラジルへおいでになりましたが、その時の事は皆さんの方がよくご承知でございます。その渡伯の、実は三年程前に、余りのご無理がたたりまして、左の方の眼が眼底出血で殆ど見えなくなってしまいました。その時にドクターから休養するよう、療養するようにと喧しく言われたのであります。「眼と言うものは元が一つである。ほっておくと今度は右に来る。

 右に来ればもう盲目になるから」と言われたのが、片方の眼が見えるために、若さに任せて、そのまま無理を続けて来たのであります。それが三十七年の春、突然右の方の眼が出血いたしまして、左は前に見えなくなっております。右の方は今度の出血で新聞も読めないと言う状態になってしまいました。この時即死か、ヨイヨイの半身不随になるところ竹の中の紙の一重の薄さで不思議と助かったものの、到頭昭和三十七年横浜中央病院に入院をしたのでございます。で昭和三十七年四月十六日から六月の三十日の二ヶ月半にわたって入院をし、一応退院をなされ、医者の言う通りの療養をして来られたのですが、一寸動いて又出血、仕方がないので又安静、一寸動いても又駄目、再三度の出血悪化のために、「これはどうしても再起は不能である。医者の言う通りやって来て、尚且つこの程度というのではもうすでに寿命が尽きたのである。今日まで自分の身に過ぎたご奉公を成就させて頂いて、思い残すことは何もない。これはもう臨終の、寂光へ還える支度をしておかなければならんであろう」とこう思われまして、秘かにお葬式の支度までなさったのでございます。

 そうしてご自分が亡くなった時に着る特別のご法衣、お弟子さん達のまごつかないようにと言うので、その時に着るお弟子さんの法衣からお数珠等まで秘かに注文していたとききます。

 そのような状況を見まして、驚きもし、困ったのは我々であり、もっと困ったのがお弟子さん方であります。それで野口正糺師が皆を代表いたしまして、「お導師は満足してお遷化になってもよいかも知れませんが、後に残った信者が困ります。弟子が困るではありませんか。お導師が作られたお寺でありますから、寝ておられても目さえ黒ければ誰もどうも出来ませんが、ご遷化になれば我々は四分五裂しなければなりません。」こう言って強くお願いをしたのでございます。

 するとお導師は「私は自分の事ばかり考えて、これだけの身に過ぎたご奉公をさせて貰えて、本当にありがたい、何も思い残すことはない。寂光に還らせて貰おうと思っておったところが、成程言われて見れば私が死んでも、後が路頭に迷わないだけの体制の出来るまでは…、成程そうか、そういうことになるのか、私が間違っていた。」と御宝前に懺悔をなされ、そうして我々にもそうおっしゃって、改めて増益寿命を、もう一遍命をのばして頂きたいと、必死のご祈願を遊ばされたのでございます。が、如何せん入院をし医師の言う通りにして、尚且つ限度が来ているので、どうにもならないのですから、そこで又例の負けん気で医学書とか生理学書とか心理学の本までも実にご不自由な眼で一心に漁りまして、勉強なさいました。そして他人には出来ないような或は食養生、或は治療を、世間の人が一つか二つやるのを十以上もやると言うようになさいまして、目方はあの太ったお導師が現在のような六貫目もやせるというような、身体の全体的作り替えまでなされたのであります。医者も心配をすれば驚くと言うような状況でございました。漸くこれならと言うところまで来られたのでございます。

 すると、三十九年二月ブラジルから辻本さんが梶本猊下のご遷化に対して、あのブラジルの「勲章」をお持ち下さいました。その時ご講有にお目にかかり色々とブラジルのお話をなさいました。初めてご講有も宗門要路の方にも最近のブラジルの仏立宗門の詳しい事情を知られました。うちのお導師も「これは大変だ。梶本猊下のいらっしゃらない今日、ブラジルに通暁してるのは宗門でも私一人になってしまった。又ブラジルの人が頼ってるのは、現在私一人である。それが私はこのような重病である。このまま死んでも死にきれない。」とこうおっしゃって、一心に辻本さんと努力なさいまして、遂に宗門が賛成をし、ご講有が決意を固められ、突然に渡伯することになったのでございます。

 梶本猊下以来初めての、否佛立宗門にとり、ブラジルにとり、現職のご講有の初めての渡伯が決まりました。

「ご講有程のお方に現地を親しく偵察して頂いて、胸に納めて頂き、又大阪清風寺のお導師程のお方に現地で引継ぎが出来れば、私はこの生命が死んでも信仰生命を生かすことが出来る、信仰生命を生かす為に我が命を懸けて願わなければならぬ」

と、こうおっしゃってその準備にあたられ、そして又ブラジルの皆さんがご努力をしておられますのに、お礼を申しあげる意味と且つ手落ちがないようにと、一足先にこうして飛行機で飛んでおいでになったのでございます。

 これは「途中でたおれても止むを得ない。先方へついてこのまま寝込んでも仕方がない。若し死んでも本望である。」とこうおっしゃって、誰の止めるのもお聞き入にならず出かけて来られたのでございます。これは全く妙法蓮華経に南無しての実践でございます。給仕第一、信心第一、師孝のお手本でございます。

 ですから、唯今の講演は従来もそうでございますが、皆さんが目の前にしておられる日博上人の身をもっての実践の口演でございます。又私がそれを何よりもよく知っているのでございます。そして達者な身体で行くのではないから、ご奉公で行くのであるからと言うので、私がこうやってついてまいりましても、

「実に気の毒だ。世界を一周することになり、欧州を廻って行くのであるから、もっと日程をとって見物し乍らいってもいいのであるし、又行きたいのであるけれども、私はご法のご加護を頂かなければ一寸も動けない身体、ご利益で今度のこのご奉公をさせて頂くのであるから、見物とか我が身の楽しみとか言うものを一寸でも考えたならば、忽ちご守護がなくなり、命がなくなり、ご奉公は出来なくなると思うのでそれは出来ない。どうか飛石のように飛行機で飛んで行くのであるけれども我慢をしてもらいたい。」

とこのようにおっしゃいまして、それで八月一七日の夜羽田を発ちまして、そのまま一挙にアラスカへ飛びました。それから北極を縦断いたしまして、オランダへでました。そしてバリーに着いて、初めてバリーに一泊でございます。それから次の日はローマに出てホテルに泊りました。このブラジルまで来ますのにホテルに泊ったのはたった二泊でございます。途中或はミラノで休憩をし、西アフリカのダカールで給水給油のため休憩はいたしましたが、夜の大西洋を一飛びして、こうしてブラジルはリオデジャネ―ロに着いて、サンパウロで皆さんに迎えられ、この日教寺に着いたのでございます。

 実に一七日に立ちまして、途中日付の変更がございますから、十七・十八・十九日の三日間でこのブラジルへ来てしまった事になるのでございます。

 皆さん、こんなもったいない旅があるでしょうか?

 又こんなにする人があるでしょうか?

 これが我が「一身」の事を思わず一重に法のため、宗のため、恩師ご講有を思い、そしてブラジルの皆さんのために、「させて貰わなければならない」 と、「妙法蓮華経」に我が身を「南無」しての「実践」とその「信仰」のあらわれでございまして、「私のお伴するあなたは気の毒だ。申しわけがない。」と、このように私にまで言われておられます。

 どうか皆さんには今日色々な立場の相違もおありでございましょう。又感情の対立もおありでしょう。腹の立つこともあり、嫌いな人、好きな人、且つ色々な問題もあるでしょう。けれども是非ご法の精神に添い、この実践の講演の前に、一切を、法華経の御宝前に奉ってください。妙法蓮華経に南無して唯今より白紙になって下さい。ここまでのお話は私達も日本におりましても未だ一度も伺ったことがありません。私はここへ来て初めて南無。妙法蓮華経。信仰の講演を伺って感銘したのでございます。私はこの講演をお聞きする事が出来ただけで、もう今度ブラジルへ来た一番の御利益を頂いた幸せを受けたと喜んでおるのであります。

 皆さんどうか腹の立つこと、立場の相違、色んなこともありましょう。けれども、我が命を法華経に奉る、妙法蓮華経、本仏に奉ると言うことになるとしたならば、もう何物もないのではありませんか。信仰に、ご本尊に南無させて頂いて、そうして日博上人のその行いに皆、見習って頂くとしたならば、出来ないことは何もないじゃありませんか。どうかまたご巡教日程も確定しておらないそうでありますけれども、そんな意味において現職のご講有の日程と言うものはこれ以上はとれないのでございますから、この前の梶本ご講尊の時とは違いますので、どうかゆずりあって、お互に他の人の立場を立てあって、全ブラジルのために協力して急いで日程をお作りになりますよう、又その費用の点がまだまとまっていないそうでございますけれども、どうか「我が命を奉る」と言うことになったとしたならば何で出来ないことがあるでしょうか。

 私も旅先でございますけれども、二〇〇ドルお手伝いをさせて頂きたいと、お導師にご相談いたしましたところ、「それは結構じゃ。私も二〇〇ドルだけさせて頂こう。」と旅先の、然かも受ける立場のお導師も二〇〇ドルだすと言ってくれておられます。どうか皆さんもそういう信仰、それほどのお方がいらっしゃったのに、後になってあれをすればよかった、こうすればよかったと言うことのないように、真の信仰、真の南無、妙法蓮華経。信仰になって、心からご信仰を成就したい、又ご功徳を積むご奉公成就をさせて頂こうと言うご信心前にならさして頂いて、よろこびと「志」とをもってする、お互いに気張らさせて頂きましてやることにいたしましょう。

 お導師のお話に、
「真の信仰弘通の精神で日程を作り、内外教化の方針でご巡教をして頂き、一宗の管長として絶対対外的方面からも笑われない、内の中からもご信者に罪障を作らせない、恥ずかしい思いを残さないように『かくあるべきだ』と言う点に力をおきまして、それで或時には最高のホテルにお泊まりになって頂き、或時にはご信者のお家にお泊まりになって頂く、もっとも奥地の辺鄙なところも経験して頂き、ブラジル全般と寺と信者のいいところも見て頂くと言うような日程を組みたい」
と、こうおっしゃっておりますから、そういう立場をご理解の上で、どうか皆さんよろしくご協力して下さい。

 足らないところはお導師が、
「横浜、小田原、相模原がついているので何等心配はいらない。財政の事は足りても足りなくても引き受ける。」
「然し、ご講有猊下のお徳をもってすれば自然に風になびく草の如くに出来るから心配はない、見ていてごらんなさい。」
と申されていられるのであります。

 皆さんよしや万が一、足らん事がありましても皆さんがありったけの志をだして頂けば、いくら足りなくてもかまわない、全部お導師が引き受ける。そして横浜・小田原・相模原で引き受ける。こう言ってくださっておられるのですから、皆さん安心じゃありませんか。是非一つ気張ることにいたしましょう。それでは後悔のないように一緒に皆で立上がりましょう。失礼を申し上げました。

 ありがとうございました。

 右のような私の折伏の結果、その場で、日博上人の二百ドル、私の二百ドルを合わせ、四百ドルができたので、遂にはご巡教の日程を組むこともでき、我も我もと申込者が出て上人ともども感涙に咽んだ。

 こうして、ご巡教にこと欠かないようになったばかりか、一人でご巡教の飛行機代を持たしていただきたいという人もでてきたり、ご信者でないタワバテのある市会議員は牛を二頭も引っ張ってきて、これで歓迎会を開いて下さいと牛二頭を提供、牛肉料理で盛大な歓迎会を開催して下さった。かくて、御巡教も多大の成果をあげることができたのである。

 これを思い、あれを思うと、今さらに、ご法の尊さ、ありがたさが身にしみいるのであった。

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 長文になったが、以上のような佐野氏のスピーチを掲載させていただき、来年お迎えするブラジル本門佛立宗開教100年の盛儀に当たり、ご弘通の歴史をご披露して報恩ご奉公の一助となれば幸いと考える。

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