2009年3月3日火曜日

岡山へのお見舞い

 3月1日の誕生日の前後、深く、強い「サイン」を感じた。お祝いの言葉、声をいただいたことも大切に心に刻み、特に誕生日の前後に過ごした時間、ご奉公にも、意味を見出している。
 2日、岡山の友人のお見舞いに行った。突然のことだったが、「危篤」という報だった。彼は、一緒にミシシッピーに連れて行き、ミシシッピー川の源流、ミネソタ州のベミディジ湖からニューオリンズを越えてメキシコ湾まで、6000キロ以上を一緒に旅した。ロケの最中、みんな頑張ったけど、彼もスタッフの一員として、そして強烈な個性が集まったチームの後輩として、朝一番から深夜まで走り回っていた。要領のいい男ではなかったけど、多くの人間に愛された。そして、それは良い番組になった。正月の特番だった。今でもみんなの心に残るアメリカ縦断だった。
 そして、昨日は友人と岡山に行った。病室で、涙ながらに彼の手を握り、話しかけた。意識が混濁していて、彼がはっきりと返事をすることはなかったが、私たちの呼びかけに、何度か「はい」「うん」と応えてくれていた。お母さんから聞くと、ずっと、ヒロミさんをはじめ、私たちが来ることを楽しみに待っていてくれたのだという。それが最期の、希望だったのだという。ヒロミさんに声を掛けられ、ヒロミさんと一緒にやってきた男。最期まで、お兄に会いたかったんだな(涙)。
 12月1日に風邪が続くということで病院に行き、風邪薬を飲んでいた。一週間過ぎても症状が治らず、また病院に行ってみると、なんと肺と肝臓に癌が発見された。もう全身にまわっており、脳にも転移しているということだった。あまりにも早かった。短い期間だったが治療も続けた。しかし、あっという間にこんな状態に。私たちも、その話が本当のことなのか、なかなか信じられなかった。いや、本人こそ、どれだけ自分の状況を理解できていたか。
 ベッドの脇で、みんな涙を流した。ヒロミさんが、ミシシッピーのロケ終了後、参加したスタッフ全員に作ってくれた記念のペンダントを、泣きながら、意識を失った彼の首に結んであげた。これも、彼がデザインしたんだ。ヒロミさんは、自分の名前の刻まれたプレートを、彼にかけてあげた。その姿を見て、また涙が。ヒロミさんが名前を呼ぶと、「はい、すいません」と2回答えた。いつも、アイツの返事がそうだった。「はい、すいません」と。私は、迷うなよ、すぐ戻ってこいよ、と伝えて、病室を後にした。手を握り。
 岡山駅で友人たちと別れ、ヒロミさんと正ちゃん、大原かおりさん、私の4人は新幹線で帰ってきた。そして、いま、知らせがあり、彼が逝ったという。若すぎる。39才。後輩の死。誕生日の前後には意味あることが起こる。意味を感じられる。彼のお母さんも言っておられたが、彼の分まで生きなければ。先日来、こんな哀しい別れが続く。
 彼の名前は藤原慎吾。みんな「ビンゴ」と呼んでいた。

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