2009年12月17日木曜日

京都の風情

 海外の話が多くなって申し訳ない気持ちもしますが、こちらは「ザ・日本」です。「日本を知らずして海外を語るな」とよく言われますが、そのとおり。日本の文化を知らないで海外に行くだけでは仕方ないし、海外でも尊敬されません。日本には、他国にない文化があり、他国に類を見ない素晴らしい自然や建築物、人間性があります。まず、それを知らなければなりませんよね。

 京都に生まれて、横浜に育ったことで、伝統的で保守的な側面と、開明的でリベラルな側面の両方を学ばせてもらったように思います。どちらにも、プラスとマイナスがあり、双方に学ぶべきことがあり、その都市にも文化にも人間性にも、そのバランスが必要だと思います。

 しかし、長い年月をかけて培われてきた文化や、守られ、続けられてきたものというものは、簡単に立ち上げられた「イベント」や「建物」とは違って、本当に深い趣を持つものです。続けることが大切で、守ることが大切という意味ですね。この麩屋町の長松寺も同じです。

 16日夜、年末の御総講を勤めさせていただきました。一年の締め括りということで、開導聖人の御宝前に大勢の方がご挨拶のお参詣をくださいました。毎年毎年、伏見からも松本御導師をはじめ、大勢のお参詣をくださいます。守ってくださっています。守り続けてくださっているのですね。ありがとうございます。

 年末の京都の風情。その中に、開導聖人がお住まいになった頃から125年目を迎え、そのままに守らせていただいている場所、麩屋町の長松寺、年末の御総講。責任重大です。昨日の夜も、緊張しながらご奉公させていただきました。役不足で申し訳ないのですが。

 この麩屋町のご法宅は、これから200年、300年と年月を重ねてもお守りしていかなければなりません。1000年後も、この麩屋町の法宅が、そのままの当時の御姿で残されているようにと願います。便利な世の中になり、街のたたずまいも変わっていくと思いますが、ここだけは変わらずに、お守りしなければならないと思います。駐車場もなく、不便をお掛けするかもしれませんが、それでもいいではありませんか。

 イスラエルのガリラヤ湖の湖畔に行った際、古い古い教会を観ました。当然、イエスの足跡を称えた教会で、本当に小さな小さな建物でした。無駄なものは一切無く、風や雨が吹けばホールの中もずぶ濡れになるのではないかと思われる建物でしたが、それでも千年以上そのままそこに存在している何ともいえない空気がありました。

 無論、地震の多い日本ですから、出雲大社のように建て替えることを命題としている場所もあれば、一千年以上そのままの建造物もあります。とにかく、大切に守っていきたい、できれば麩屋町の長松寺は、この京都の町屋のたたずまい、開導聖人がお住まいになった家の骨格をそのままに残して後世に伝えたいと思います。

 開導聖人は、「因循」を嫌われました。「因循」とは、辞書を引くと「古くからの習慣・方法を守っているだけで、積極的に改めようとしない様子」とあります。京都と横浜、日本と海外、その双方で学びつつ、プラスとマイナスがあることを知り、何が代え難いもので、何を改めるべきか、ここを押さえなければならないのだと思います。海外でご奉公させていただくことと、横浜でご奉公させていただいていること、京都の麩屋町を守らせていただいていることの意義を、しっかりと噛みしめたいと思います。

 少しだけ麩屋町の庭に出て、草木を眺めさせていただきました。歴史、空気、気持ちいい。重たい気持ち、愚かな気持ち、情けない気持ちも、圧倒的な時間の流れを知ると、どれほど小さなことが分かります。

 今日は横浜。夜、大切なご奉公を控えて、準備をさせていただきます。ありがとうございます。

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