2010年10月30日土曜日

長岡謙吉がいない

 NHK大河ドラマの「龍馬伝」が人気ですが、前回から残念な気持ちで見ています。
 ドラマは、いよいよ坂本龍馬や海援隊が、これまでの全てを集約し、最も輝く時期に入りました。しかし、そこに最も大切な人がいません。
 ドラマでは、船中八策を龍馬一人で書いていると描きました。そこに少し陸奥が入ってきましたが。実は、NHKの「龍馬伝」では長岡謙吉がキャスティングもされていません。本当に、これは哀れです。
 「もっと綺麗な字で書き直さないと大殿様に見せられんき」と後藤のセリフ。清書のみの役割を誰かに設定していたことを示唆したのでしょうが、哀しい。綺麗な字を書いているアップが映りますが、誰が書いているのかは分からない。何たることでしょう。

 また、藤吉を中岡の紹介のように描きましたが、これも間違い。どんどん、間違いというか、残念なシーンやシナリオが増えていきます。
 龍馬や慎太郎と共に絶命した藤吉を龍馬の従僕にしたもの長岡謙吉で中岡ではありません。謙吉が行きつけだった先斗町の魚卯で出前持ちをしていた元相撲取りの雲井龍藤吉を可愛がって取り上げたのです。
 当時の土佐の重役たちは先斗町の近喜、瓢亭、大駒、木屋町の松力、伊勢竹、祗園の万亭、下河原の噲々堂などを利用していました。また、龍馬だけが危険な下宿住まいをしていたのではありません。ほとんどの上級武士は藩邸には住まず、その近くの民家や商家に止宿していました。
 陸援隊の本部は土佐藩白川屋敷にありましたが、後藤象二郎は壺屋、福岡藤次は大和屋、真辺栄三郎は越後屋、神山佐多衛は木屋町二条。海援隊関係でも、当時は陸奥陽之助は沢屋、海援隊本部が置かれた酢屋には白峰駿馬がいました。
 いずれにしても、長岡謙吉が描かれていないのは大欠陥です。
 現在は、重要文化財となって京都国立博物館に置かれている「梅椿図」は、近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された際に飛んだ血の痕が残っている掛軸です。この上部に書かれているのは急を聞いて駆けつけた長岡謙吉が涙ながらに書いた追悼の詞です。よく見ると、左側に「懐山樵史 長岡恂 謹誌」とあります。この「長岡 恂」こそ長岡謙吉です。その文章を書き出してみます。
「自然堂直柔先生、石川清之助と燈火炉を擁して閑談す。寂として人無きが若(ごと)し。忽ち三暴客有り、暗中より躍りて之を斬る。予の僕、雲井龍藤吉亦之に死す。予時に浪華に在り。変を聞きて到れば則ち満座狼藉、逬血壁幅に及ぶ。当時の状、想う可き也。実に慶応丁卯十一月十五日也 懐山樵史 長岡恂 謹誌」
 龍馬歴史館などにある船中八策を描く絵や人形の並びも、左から龍馬、長岡謙吉、後藤象二郎、土佐藩士四名を描くというのが通常なのに、これは残念でした。

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