2011年5月25日水曜日

宗教の無い世界

インドがどこに行ったのか。もう、記憶が遠くなっています。

ご信心をしていて御利益のいただき方を知らないことほど恥ずかしいことはありません。懺悔なし、お給仕なし、口唱なし、では信心ではない。

仏陀に自分を模して、自分教の教祖さまを目指して、結果として迷っている人が多い。

宗教的センスのある人、その生い立ちや境遇から類い稀な慈悲心を持つ人、世の人を魅了する才能を開花させる人。そんな素晴らしい人がたくさんいます。

しかし、み仏もお祖師さまも、「一切衆生」の救済を目指されたのです。もともと免疫力の強い人や免疫力を獲得した人、高いお薬を買える人だけではなく、どんな人をも救い、どんな人とも一つになれる教えを残されたのです。まず、本当の仏教・法華経の教えとは、それを目標に説かれているのです。

「すべての人」への教え、お薬。簡単なことではありません。お金持ちも貧しい人も、知識のある人も無い人も、人脈がある、無い、才能の有無など、関係ない。

下手が名人の真似をすることは、むしろ害悪となる場合があります。迷いを深めたり、真実を見失ったり。

「ブディズモ・プリモーディアル」とは、私たちの教えの別称です。「根本の仏教」「根本に立ち返る仏教」という意味です。これは「原始仏教」とは意味合いが違います。本当の意味は「久遠の仏教」「本化の仏教」という意味です。インドのラージギル、法華経の法座、本門の御法門で説かれた、バラバラの人類が一つになる、帰る、誰もが持っている、誰もが救われる、普遍的な教えです。

だって、みんな違います。それぞれ、果報も罪障も、状況も、レベルも。それを、そっくりそのまま救うことって、出来ません。「この人にはこの薬」「あの人にはこれで」と、趣味や趣向が違うのと同じように、違う。

しかし、み仏とお祖師さまが教え導いてくださったのは、誰もが救われる、誰にでも効くお薬のご信心です。ここに帰れず、これが分からないことは、結果として、人がバラバラになっていくことを助長してしまう。

個性はいいと思います。多様化した社会でいいと思うのです。それは尊重されるべきことであり、宇宙の背負った運命でもあると思います。

ビックバン以来、宇宙は広がり続けています。言い方を変えれば分化し続けているのだから。くっついたり、離れたり、離れたり、くっついたりをし続けて、あるものは太陽となり、あるものは地球になり、あるものは銀河系に集まり、あるものはアンドロメダ星雲かどこかの星になっています。

法華経の御法門は、まるでビックバンにまで遡り、「あの時、みんな一つだったよね」と教えてくれているようなものなのです。その時以来、みんなの心の中にあるもの、細胞の中の中、DNAよりもっと奥、素粒子かクォークか、いや、魂の奥底に残っている、人間だけじゃなくて、草木にも、石ころにも、この星にも、あの星にも残っているものは何?と尋ねてみるのです。それが、「ナムミョウホウレンゲキョウ」。あの時以来、ずっと流れ続けてる。誰でも持ってる。何にでも残ってる。

御教歌
「南無妙と唱ふる声が本門の
本尊なりと知るが成仏」

だから、文化も、人種も、言葉も、才能も、果報も、罪障も、病状も、すべて、全く異なる私たちでも、この御題目に立ち返ることによって、気づく。何かが動き出す。何かのスイッチが入る。宇宙誕生以来の、魂に刻まれている何かが、反応し出すのです。

そうして、救われる。「救われる」とは、数十年で命を終える僕らがイメージするものとは違うかもしれないけれど、想像を絶する長い時間の中に浮遊する「自分」というものが、はじめて「永遠」の存在になり、大きな役割を遂げる、ここから、宇宙と一体になるための作業が始まる、ということになります。

宇宙誕生と久遠を重ねるとすれば、138億年±2億年の時間の中で重ねてきた分裂と合体と、破壊と創造と、対立と融合が生み出した数々の因縁、考えてみればプラスの要因よりもマイナスの要因の方が多い末の世の私たちでさえ、原点に帰ることによって宇宙の生命やその本体と再び一つになれる。138億年分の罪障は、降り積もった雪が朝日に照らされて消えてゆくように静かに姿を消し、心地よい功徳の雨が砂漠のような場所を歩む旅人の頬を濡らす。御題目をお唱えし、真摯にご信心をする者だけが得られるもの。

実際、このように考えてゆくと、私たちのいただく法華経本門の御法門、真実の仏教とは、「宗教」という言葉や概念を超えていると思います。もっと、普遍的なものです。

大好きなジョン・レノンがイマジンの中で「宗教のない世界を想像してごらん」と歌っていますが、私の中でこの歌詞は自分の信仰と全く矛盾しません。既存の概念でいう「宗教」は、分裂の原因となり、特定の民族の優越性を支持する土台となり、戦争や差別の原因となっている。何をやっても、こうした「宗教」があれば、人々が幸せになれない、人々は自由に生きられない、と思うのも当然です。私も、そう思っています。

何度も書いているように、あらゆる人種、文化、言語を超えて、カーストから選民思想を超えて、真に普遍的で、不変で、不偏である教えが、法華経本門の御法門であり、私たちのいただくご信心です。

ですから、私は、宗教という概念すら超えた本当の仏教を、見つめ直していただきたいと思っています。

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