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2014年8月29日金曜日

打ちのめされても

次男坊が勉強から逃げ出して泣いていた。

抱き上げる。

まだ泣いている。

抱っこしながら話をする。

イヤでも頑張るといいことあるよ。

楽したら、あとで大変。

練習は苦しいけれど、止めないで続けるとパワーアップする。

レベルアップ。

バージョンアップ。

つらい、くるしい、めんどくさい。

だからって、止めたら、何も得られない。

代わってあげられない。

自分がするしかない。

きっと、いいことある。

やってゆけば、きっと楽しくもなる。

そうしたら、もっと、いいことある。

泣き止んで、勉強机に座った。

そして、思う。

報われないこともあるんだ。

つらいのに、面倒なのに、がんばったのに、いいことなかった。

そういうこともあるんだ。

勝てなかった。

いい成績じゃなかった。

やっぱりダメだった。

そんなこともある。

もしかすると、そっちの方が多かったりする。

それでも、折れないで欲しい。

そこで、あきらめないで欲しい。

こらえて、続けたら、きっと、本当に、いい結果に至る。

アクションしか、ないのだから。

父がいつも言っていた。

功徳を積め。

果報を通り越すな。

果報を使い果たすな。

身命財を使い、功徳を積め。

甘んじていたら果報を通り越す。

果報が尽きたら恐ろしい。

父の教え、ありがたい。

勉強、僕も嫌いだったから、ダダをこねるのも分かる(涙)。

でも、やらないと。

勉強机に向かう次男坊を見ながら、思っていました。

ガンバレー。

あんなに嫌がっていたのに、勉強机に向かってくれて、うれしい。

あきらめてもらいたくないなー。

報われなくても、簡単にあきらめないでほしい。

誰も、代われない。

敵は自分。

見守ります。

ガンバレ。

負けるなー。

2014年8月28日木曜日

妙深寺の桜とブッダガヤの菩提樹

本当に、神秘的なことです。

生命の不思議、自然を愛する、自然と対話する、黒崎とし子さんの不思議ー。

深い深いところで、御題目の、御法さまのお力、お導きを感じます。

南無妙法蓮華経ー。

妙深寺には、本当に立派な桜の木があります。

先住のお怪我は、その桜が満開の時に起こりました。

私の記憶の中では、歴史に残る一大事件、現証の御利益は、桜の木の下、花びらの中で起こった出来事として刻まれています。

ですから、あれ以来、妙深寺の桜を「本化桜」と呼び、自分の名前も「日桜」としました。

ある時、陸前高田の福田さんが、妙深寺の桜が欲しいと、ポツリと言われたんです。

その後、何度か同じことを言っておられるのを聞いて、挿し木で、妙深寺の桜の苗を育てることは出来ないだろうかと、話し合っていたのです。

でも、簡単なことではありません。

あの桜は、木の寿命が短いと言われているソメイヨシノですし、挿し木の技術もありません。

そして、そして、そうこうしている間に、時間が過ぎて、春になりました。

そうしたら、妙深寺の境内を生命に満ちた場所にしてくれている黒崎とし子さんが、何と、サクランボから、いくつもの苗を、育ててくれていたのですー!

まず、私たちは、この苗をインド親会場へと移送させていただきました。

次には、必ず陸前高田の福田さんにお届けしたいと思います。かさ上げで、どうなるか分かりませんから、これからですが、お願いしようと思います。

そして、私がインドに妙深寺の桜を届けた同じタイミングで、私たちはブッダガヤに行きました。

その場所は、言わずと知れた、仏教の創始者、ゴータマ・ブッダが、悟りを開かれた場所です。

その悟りは、ある菩提樹の根元で得ました。

ある説では、菩提樹は24時間酸素を出すと言われています。

大きな幹と葉の下で、強烈な陽光を避けることが出来ます。

不思議な、美しい、何故か哲学的な葉の形をしているように見えます。

そのブッダガヤの菩提樹は、聖樹の中の聖樹としてブッダそのもののように敬われ、信仰を集めてきました。

しかし、5世紀のイスラムの侵攻と仏教弾圧の当時、切り倒されてしまったのです。

仏教徒にとって、仏陀が悟りを開かれたオリジナルの菩提樹は、永遠に失われたように思われました。

ところが、そうではありませんでした。

オリジナルの菩提樹は、スリランカの仏教徒によって蘇り、受け継がれています。

紀元前5世紀から、スリランカには古代王朝が栄えていました。

そのシンハラ王朝は、紀元前380年頃、今や世界遺産となった「アヌラーダプラ」を首都としました。

紀元前247年、インドのアショカ王の王子マヒンダが、スリランカに仏教を伝え、アショカ王の娘サンガミッター尼がオリジナルの菩提樹の枝をスリランカに持ってきたと言い伝えられています。

以来、彼らは仏教を奉じ、首都アヌラーダプラに寺院や大塔を建立し、菩提樹もブッダを敬うように大切に守り、スリランカは世界最古の仏教国として現在に至っています。

私も何度かアヌラーダプラを訪れました。

そして、オリジナルの菩提樹を護持するマハー・ヴィハーラ寺院やルワンウェリ・サーヤ大塔に案内していただいたことがあります。

そして、そこで、オリジナルの菩提樹、「スリー・マハー菩提樹」の根元まで行かせていただき、間近に見上げ、感動したのを覚えています。

インドのオリジナルの菩提樹が失われたことから、このスリランカのスリー・マハー菩提樹の挿し木から育てて移植されたのが、現在のブッダガヤの菩提樹なのでした。

5月、このブッダガヤの菩提樹の下で御題目をお唱えさせていただきました。

そして、その際、膝の間に落ちているいくつかの菩提樹の種を拾ったのでした。

サクランボから、妙深寺の桜を育ててくれたとし子さんならば、このブッダガヤの菩提樹も、種から育ててくれるのではないかと思って。

そして、帰国後、とし子さんに預けました。

あれから、数ヶ月。

見事に、見事に、オリジナルの菩提樹は、芽を吹きましたー。

インドからスリランカ、スリランカからインド、そして日本。

いろいろな場所で挿し木が行われ、育てられているようですが、こうした経緯が、何とも有難く思います。

仏教の、歴史ですー。

寒さに弱いインドボダイジュですから越冬できるか心配ですが、大切にしたいと思います。

2014年8月27日水曜日

京都佛立ミュージアムプレゼンツ「賀川浩氏×セルジオ越後氏 ブラジルと日本の サッカー」

京都佛立ミュージアムプレゼンツ 賀川浩氏×セルジオ越後氏による「ブラジルと日本のサッカー」。

テラコヤスコラvol.15として開催させていただくのは、ブラジルと日本のサッカーを見つめ続けてこられたお二人をお招きする「ブラジルと仏教展 開催記念スペシャルトークライブ」です。

『ブラジルと日本のサッカー』

ゲストは、知る人ぞ知る賀川浩氏と、サッカー解説者として日本サッカー界を励まし続けるセルジオ越後氏。
 
開催日:2014年9月21日(日) 受付14:30 開演15:00
主催:京都佛立ミュージアム
協力:(株)シックス

ブラジル・サンパウロで生まれた日系二世であり、日本サッカーのご意見番、セルジオ越後氏。そして、89歳現役最年長記者にして日本サッカーの生き字引、賀川浩氏。

このお二方によるスペシャルトークライブを京都佛立ミュージアムで開催してしまうのです!こんなすごいこと、ありません!

9月は青年教務の方々が約40名もブラジルに研修に行ったりしますから、まさにこれからが「ブラジルと仏教展」の本番ですー。

引き続き、コレイア御導師の講演や、山崎先生の講演が続きます。ホームページのバナーも新しくなりました。今後のスケジュールなどをチェックしていただければと思います。

とにかく、9月21日は京都佛立ミュージアムへ。私も大阪のご奉公から駆けつける予定です。

テレビでは絶対に聞けない辛口トーク!来館者からのご質問も受け付けます。是非ともご来館くださいー。

【セルジオ越後】
サッカー解説者。ブラジル・サンパウロ生まれの元プロサッカー選手。「コリンチャンス」とプロ契約しブラジル代表候補にも選出。1972年に来日し藤和不動産サッカー部にて活躍。エラシコというフェイントの創始者と言われ、魔術師のようなテクニックと戦術眼で日本のサッカーファンを魅了した。 少年サッカーの指導にも熱心にあたり、現在までに1000回以上の教室で延べ60万人以上の人々にサッカーの魅力を伝えている。2006年に文部科学省生涯スポーツ功労者、2013年には外務大臣表彰受賞。
 
【賀川浩】
スポーツライター。1924年神戸市生まれ。サッカー選手として全国大会優勝、天皇杯準優勝などの経験をもつ。1952年からスポーツ記者、1975年から10年間のサンケイスポーツ編集局長(大阪)などを経て現在フリーランスとして、現役最年長記者。2014年、89歳で自身10度目となるW杯取材でブラジルを訪れた。著者に『釜本邦茂ストライカーの戦術と技術』、『サッカー日本代表 世界への挑戦』(新紀元社・2002年)などがある。

栄村

長野教区の御講から、栄村へ。

ずっと行きたかった場所に行くことができて、よかったです。

東日本大震災の直後、わずか13時間後、平成23年3月12日午前3時59分に発生した、マグニチュード6.7、震度6強の大地震。

長野県北部地震。

別名、栄村大震災。

その名を何度も耳にしてきたので、遠い場所でありながら、なぜか身近に感じていました。

しかし、行く機会、時間はなかった。

そして、行くことができました。

人里離れた、美しい自然、厳しい自然の中に暮らす方々。

本当に、強いです。

特に、秋山郷は、携帯電話の電波も届かない深い渓谷が続いています。

渓谷に下りて、賽の河原のような場所、切り立った断崖を、一人で歩きました。

熊よけの鈴の音を、カラン、カラン、と響かせながら。

渓谷には、いたるところに落石や崖崩れの後があり、自然というものの時間軸で、自然というものの営みを、考えさせられます。

それでも山間の国道や林道はよく整備されていて、驚くほどでした。

自然と人間。

人間と自然。

栄村大震災から3年と5ヶ月が過ぎ、あらためて自分の中に刻み込めて、よかったです。

関係ないと思っていることが、実は関係あるということ。

他人事は自分事で、傍観し、同情していた自分が、実は加害者の一人であること。

シリアスに感じて生きていたら息が詰まると言われそうだけど、目を逸らさずに生きてゆくことは、本当に生きることへの近道だと思う。

今朝は京都に帰ります。

下記、気になった記事です。

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Yahoo!知恵袋で「弱者を抹殺する。」という強烈な質問に対しての回答が秀逸だと話題に。
http://fundo.jp/5661

参加者同士で質問、回答するサービス“Yahoo!知恵袋”で、質問者からの「弱者が生き残れない自然界に対して、弱者を税金などで保護する人間社会は理にかなっていないのでは?」というインパクトのある質問に対して、ある回答者の回答がとても興味深いとネットで話題になっていまいしたので紹介します。


※原文そのままを引用

質問
弱者を抹殺する。 不謹慎な質問ですが、疑問に思ったのでお答え頂ければと思い…

〈弱者を抹殺する。〉

不謹慎な質問ですが、疑問に思ったのでお答え頂ければと思います。
自然界では弱肉強食という単語通り、弱い者が強い者に捕食される。

でも人間の社会では何故それが行
われないのでしょうか?
文明が開かれた頃は、種族同士の争いが行われ、弱い者は殺されて行きました。

ですが、今日の社会では弱者を税金だのなんだので、生かしてます。
優れた遺伝子が生き残るのが自然の摂理ではないのですか。
今の人間社会は理に適ってないのではないでしょうか。

人権などの話を出すのは今回はお控え頂ければと思います。


〈ベストアンサーに選ばれた回答〉

え~っと、、、よくある勘違いなんですが、自然界は「弱肉強食」ではありません

弱いからといって喰われるとは限らないし、強いからといって食えるとも限りません

虎は兎より掛け値なしに強いですが、兎は世界中で繁栄し、虎は絶滅の危機に瀕しています

自然界の掟は、個体レベルでは「全肉全食」で、種レベルでは「適者生存」です

個体レベルでは、最終的に全ての個体が「喰われ」ます
全ての個体は、多少の寿命の差こそあれ、必ず死にます
個体間の寿命の違いは、自然界全体で観れば意味はありません
ある犬が2年生き、別の犬が10年生きたとしても、それはほとんど大した違いは無く、どっちでもいいことです

種レベルでは「適者生存」です
この言葉は誤解されて広まってますが、決して「弱肉強食」の意味ではありません
「強い者」が残るのではなく、「適した者」が残るんです
(「残る」という意味が、「個体が生き延びる」という意味で無く「遺伝子が次世代に受け継がれる」の意味であることに注意)

そして自然というものの特徴は、「無限と言っていいほどの環境適応のやり方がある」ということです

必ずしも活発なものが残るとは限らず、ナマケモノや深海生物のように極端に代謝を落とした生存戦略もあります
多産なもの少産なもの、速いもの遅いもの、強いもの弱いもの、大きいもの小さいもの、、、、
あらゆる形態の生物が存在することは御存じの通り

「適応」してさえいれば、強かろうが弱かろうが関係無いんです

そして「適者生存」の意味が、「個体が生き延びる」という意味で無く「遺伝子が次世代に受け継がれる」の意味である以上、ある特定の個体が外敵に喰われようがどうしようが関係ないんです

10年生き延びて子を1匹しか生まなかった個体と、1年しか生きられなかったが子を10匹生んだ個体とでは、後者の方がより「適者」として「生存」したことになります

「生存」が「子孫を残すこと」であり、「適応」の仕方が無数に可能性のあるものである以上、どのように「適応」するかはその生物の生存戦略次第ということになります

人間の生存戦略は、、、、「社会性」

高度に機能的な社会を作り、その互助作用でもって個体を保護する
個別的には長期の生存が不可能な個体(=つまり、質問主さんがおっしゃる”弱者”です)も生き延びさせることで、子孫の繁栄の可能性を最大化する、、、、という戦略です

どれだけの個体が生き延びられるか、どの程度の”弱者”を生かすことが出来るかは、その社会の持つ力に比例します
人類は文明を発展させることで、前時代では生かすことが出来なかった個体も生かすことができるようになりました

生物の生存戦略としては大成功でしょう
(生物が子孫を増やすのは本源的なものであり、そのこと自体の価値を問うてもそれは無意味です。「こんなに数を増やす必要があるのか?」という疑問は、自然界に立脚して論ずる限り意味を成しません)

「優秀な遺伝子」ってものは無いんですよ
あるのは「ある特定の環境において、有効であるかもしれない遺伝子」です

遺伝子によって発現されるどういう”形質”が、どういう環境で生存に有利に働くかは計算不可能です
例えば、現代社会の人類にとって「障害」としかみなされない形質も、将来は「有効な形質」になってるかもしれません
だから、可能であるならばできる限り多くのパターンの「障害(=つまるところ形質的イレギュラーですが)」を抱えておく方が、生存戦略上の「保険」となるんです

(「生まれつき目が見えないことが、どういう状況で有利になるのか?」という質問をしないでくださいね。それこそ誰にも読めないことなんです。自然とは、無数の可能性の塊であって、全てを計算しきるのは神ならぬ人間には不可能ですから)

アマゾンのジャングルに一人で放置されて生き延びられる現代人はいませんね
ということは、「社会」というものが無い生の自然状態に置かれるなら、人間は全員「弱者」だということです

その「弱者」たちが集まって、出来るだけ多くの「弱者」を生かすようにしたのが人間の生存戦略なんです

だから社会科学では、「闘争」も「協働」も人間社会の構成要素だが、どちらがより「人間社会」の本質かといえば「協働」である、と答えるんです
「闘争」がどれほど活発化しようが、最後は「協働」しないと人間は生き延びられないからです

我々全員が「弱者」であり、「弱者」を生かすのがホモ・サピエンスの生存戦略だということです。

/-/-/-/-/-/-/-/-

この回答を見たユーザーからは、「とても勉強になった」「“適者生存”かなるほど・・・」「分かりやすく納得がいきました!」など賞賛の声があがっていました。この質問、回答自体は2011年のものですが、数年たっても話題になるとはスゴいですね。

出典:Yahoo!知恵袋

2014年8月23日土曜日

嘘偽り無く

昨日、そして今日と、本年の特別御講を奉修いただきました。本当に、尊く、有難く、随喜の極みとはこのことです。

今日は私が代行させていただきましたが、相模原妙現寺の鈴江ご住職のブログに、前夜、遅くまで、御導師が御法門帳を開かれ、一行一行丁寧に読み返されていたこと、ご住職がその傍らでお給仕くださっていたことを、お参詣の皆さまの前で読ませていただき、心から随喜して、御法門を聴聞させていただきました。

最高でした。

ご信心に、嘘偽りがあってはならないということ。

ご信心とは、まごころであること。

励み励めば必ず御利益があり、怠り間違えば必ずお叱りがあること。

誤魔化してはならないこと。

厳しいお折伏です。

本当に、有難かったです。

今日はそのままオープンデーで、午前、午後も、数組の方々と面談させていただきました。

このご面談も、四半世紀の、無くてはならない面談で、すべてが繋がっているということを、つくづく確信するものでした。

17時から法華経講座、18時からボーズバー。私は明日の準備があり、先に失礼しました。

ありがたいです。

2014年8月21日木曜日

明日は特別御講です

明日は、年に一度の特別御講。鈴江御導師にお出ましをいただきます。

当たり前のことは、何一つありません。

この14年間、毎年御導師にご教導いただいて参りました。

奥さまのご帰寂の時にも、この妙深寺の特別御講を選んで、お出ましくださったこと。

14年。

御導師も、お年を重ねてこられました。

先日、海の先輩が言っていました。

あと何回、夏があるかな

15回か。

10回か。

では、そのうち、何回、あの海に行けるかな。

本当に、そこでジェットを走らせて、あの頃みたいに夕陽が見れるかな。

何回、元気に走り回れるかな。

毎年は行けないもんな。

3回行けたらいい方かもな。

いや、そんなにはいけないか。

やっぱり、今年しかないや、そんな風に思って、真剣に過ごさないと、あっという間に人生が終わる。

もう行けない。

もう見れない。

もう会えない。

そんなことばっかりなんだ。

だよな。

そういうお話を聞いていました。

海に行くとか、ジェットをするとか、夕陽を見るとか、人それぞれ別のことがあると思いますが、今の僕にとっては、海に行くよりも、鈴江御導師の特別御講のことを、思います。

そういう意味で、当たり前はない。

毎日、毎回が、永遠に流れてゆく時間の中で、かけがえのない、取り戻すことのできない、一瞬であり、一日であり、チャンスなのだから。

今日、前助行のご奉公をさせていただき、夕方からは神奈川布教区の参与会でした。

いよいよ来年の夏に迎える、愛と平和のテラコヤステイに向けて始動です。

明日の朝、鈴江御導師をお迎えに上がり、13時より、平成26年度の特別御講を奉修させていただきます。

2014年8月20日水曜日

広島と長崎

朝、ニュースを見て身震いしました。

真っ暗闇の、土砂崩れ、土石流。

想定内は、すぐに想定外になる。

何が起こるが分からない。

何があってもおかしくない。

前例など当てにならない。

恐るべき今回の災害についても専門家が「原因」を語ります、

しかし、もう、そういう「原因」が本当の「原因」ではないことに気づかないといけない。

因果も、枝葉をつたって、根っこまで至らないと、本当のことは分からないものです。

だから、私たちは「本因」「本果」ということを言う。

本当の原因にフォーカスしなければ、永遠に悪循環は続く。

専門家に任せても、学者に任せていても、ダメ。きっと分からない、見えてこない。

本当の、原因。

人間の、内側にある原因。

あらゆる災害に共通していることを、見つけ出したい。

また、救援活動に従事している方々、特に自衛隊の方々を見ると、手を合わせたくなります。

本当に、無事に任務が遂行されますようにー

一人でも多くの方が、助かりますようにー

雨量を示す棒グラフを見ると、広島と長崎に豪雨が集中しています。

ヒロシマとナガサキ。

偶然の符合とは思えません。

僕たちは、感じなければならないし、学ばなければならないし、変わらなければならないと思う。

とにかく、福知山でも、広島でも、長崎やその他の地域でも、被災された方々の救援、支援、ご健康と早期の復興を願うばかりです。

南無妙法蓮華経。

2014年8月18日月曜日

カ行の行感師!おめでとうございますー!

ブラジルから、最高にうれしいメール。

今年の4月、ブラジルに行ってご奉公させていただいていた際、教務見習いとしてご奉公していたピザくん。

昨日、無事に、晴れて、得度なさったとのことー。

朝一番に起きて、一所懸命にご宝前のお給仕に励み、それでもコレイア御導師や先輩の御講師方から厳しくお折伏をいただいていたピザくん。

忘れもしない、「コパカバーナ!」という厳しいご指導(笑)!

ほんと、いつ逃げ出しても、投げ出しても、おかしくないくらい、厳しかったー。

それでも、練られて、鍛えられて、真っ直ぐにご宝前に向かうピザくんは立派でした。

得度されて「行感師」になられました!

「行感師」って、カ行に行ったんやなー、コレイア師、すごー(笑)

行あん師、行いん師、行うん師、行えん師、行おん師、って、あ・い・う・え・お。

「次はカ行かー」と冗談で言っていたのだけど、本当にカ行に行かはった(笑)。

コレイア師、すごいっ!

それにしても、これでお弟子も10名になられたとのこと。

教務の充実、教務の改良、教務の懸命さから、ご弘通を進めてゆくというブラジル、その心算が、いよいよ整っています

ありがたい。

ピザくん、行感師、おめでとうございます。

今後とも、よろしくお願いいたしますー。

陸前高田での記念写真

まだ今日は暑さを感じますが、それでも秋の足音は確かに聞こえてきました。

不思議です。

今日は良潤師の誕生日。

あー、今日だったのかー、と朝参詣の時に気づきました。

日本にいる間、妙深寺にいる時、ケネカちゃんと一緒にいる時で、よかったねー。

25才になったそうです。

立派になりましたー。

でも、まだまだ、彼の本領発揮はこれからでしょう。

期待しています。

この夏、妙深寺が下した決断は、一生忘れません。

良潤師はじめ、スリランカのみんなは、この純粋な志に応え、今まで以上にご奉公に精進してくれるでしょう。

少し早いかもしれまえんが、を感じる中、香菜子さんの写真を見返して、この夏を振り返り、感動を噛み締めています。

陸前高田での記念写真。

法要の準備ご奉公に出ていた清顕師が記念写真に間に合いました。

三枚の連続写真。

みんなの、素の笑顔が出ていて、とっても素敵です。

津波で流された長砂の法被(はっぴ)

瓦礫の中から探し出し、所々が切れている法被。

是非スリランカの人たちに着てもらいたいと、福田さんが持ってきてくださいました。

ありがたいです。

スリランカのみんな、その尊い、有難い気持ちを受け止めて、法被をつけていました。

もう一度、渡辺謙さんのスピーチ

東日本大震災から僅か4日後、『雨ニモマケズ』を朗読し(渡辺謙「雨ニモマケズ」朗読 http://youtu.be/hvFEffacY5g)、その心を届けようとした渡辺謙さん。

波風立てず、批判を恐れ、保身ばかり、評論ばかりの傍観者が増える中、世界的に活躍されている方の発言してゆく姿勢は、本当に素晴らしいです。

全く無名の人でさえ匿名で書き込みする無責任なネット時代に、勝負している。

会議の後でヒソヒソと声をかけてきて、「裏の事情を知ってるでしょう。あんなことは言わない方がいいよ」と語る人がいるが、本当に世の中や組織をダメにする人や風潮だと思う。

一人ひとりの覚悟、責任、大切。

【渡辺謙さん、ダボス会議スピーチ全文】東京新聞 TOKYO Web

「渡辺謙さん、ダボス会議でスピーチ 原子力からの転換訴える」
http://www.tokyo-np.co.jp/hold/2012/davos/

 スイスで25日に開会した世界経済フォーラム年次総会「ダボス会議」で、俳優の渡辺謙さんがスピーチに立ち、各国から寄せられた東日本大震災の被災地支援への深い感謝と立ち上がる決意を語るとともに、原子力から再生エネルギーへの転換を訴えた。

 渡辺さんは、震災発生直後から、インターネットにメッセージなどで被災者を応援するサイト「kizuna311」を立ち上げ、現地を幾度も訪れるなど、支援活動を積極的に続けている。

 スピーチは現地時間25日午前(日本時間同日午後)に行われた。渡辺さんは「私たちの決意として、世界に届いてほしいと思います」と話している。

 スピーチ全文は次の通り。

「初めまして、俳優をしております渡辺謙と申します。

 まず、昨年の大震災の折に、多くのサポート、メッセージをいただいたこと、本当にありがとうございます。皆さんからの力を私たちの勇気に変えて前に進んで行こうと思っています。

 私はさまざまな作品の「役」を通して、これまでいろんな時代を生きて来ました。日本の1000年前の貴族、500年前の武将、そして数々の侍たち。さらには近代の軍人や一般の町人たちも。その時代にはその時代の価値観があり、人々の生き方も変化してきました。役を作るために日本の歴史を学ぶことで、さまざまなことを知りました。ただ、時にはインカ帝国の最後の皇帝アタワルパと言う役もありましたが…。

 その中で、私がもっとも好きな時代が明治です。19世紀末の日本。そう、映画「ラストサムライ」の時代です。260年という長きにわたって国を閉じ、外国との接触を避けて来た日本が、国を開いたころの話です。

 そのころの日本は貧しかった。封建主義が人々を支配し、民主主義などというものは皆目存在しませんでした。人々は圧政や貧困に苦しみ生きていた。私は教科書でそう教わりました。

 しかし、当時日本を訪れた外国の宣教師たちが書いた文章にはこう書いてあります。

 人々はすべからく貧しく、汚れた着物を着、家もみすぼらしい。しかし皆笑顔が絶えず、子供は楽しく走り回り、老人は皆に見守られながら暮らしている。世界中でこんなに幸福に満ちあふれた国は見たことがないと。

 それから日本にはさまざまなことが起こりました。長い戦争の果てに、荒れ果てた焦土から新しい日本を築く時代に移りました。

 私は「戦後はもう終わった」と叫ばれていたころ、1959年に農村で、教師の次男坊として産まれました。まだ蒸気機関車が走り、学校の後は山や川で遊ぶ暮らしでした。冬は雪に閉じ込められ、決して豊かな暮らしではなかった気がします。

 しかし私が俳優と言う仕事を始めたころから、今までの三十年あまり、社会は激変しました。携帯電話、インターネット、本当に子供のころのSF小説のような暮らしが当たり前のようにできるようになりました。物質的な豊かさは飽和状態になって来ました。文明は僕たちの想像をも超えてしまったのです。そして映画は飛び出すようにもなってしまったのです。

 そんな時代に、私たちは大地震を経験したのです。

 それまで美しく多くの幸を恵んでくれた海は、多くの命を飲み込み、生活のすべてを流し去ってしまいました。電気は途絶え、携帯電話やインターネットもつながらず、人は行き場を失いました。

 そこに何が残っていたか。何も持たない人間でした。

 しかし人が人を救い、支え、寄り添う行為がありました。それはどんな世代や職業や地位の違いも必要なかったのです。それは私たちが持っていた「絆」という文化だったのです。

 「絆」、漢字では半分の糸と書きます。半分の糸がどこかの誰かとつながっているという意味です。

 困っている人がいれば助ける。おなかがすいている人がいれば分け合う。人として当たり前の行為です。そこにはそれまでの歴史や国境すら存在しませんでした。多くの外国から支援者がやって来てくれました。絆は世界ともつながっていたのです。人と人が運命的で強く、でもさりげなくつながって行く「絆」は、すべてが流されてしまった荒野に残された光だったのです。

 いま日本は、少しずつ震災や津波の傷を癒やし、その「絆」を頼りに前進しようともがいています。

 国は栄えて行くべきだ、経済や文明は発展していくべきだ、人は進化して行くべきだ。私たちはそうして前へ前へ進み、上を見上げて来ました。しかし度を超えた成長は無理を呼びます。

 日本には「足るを知る」という言葉があります。自分に必要な物を知っていると言う意味です。

 人間が一人生きて行く為の物質はそんなに多くないはずです。こんなに電気に頼らなくても人間は生きて行けるはずです。「原子力」という、人間が最後までコントロールできない物質に頼って生きて行く恐怖を味わった今、再生エネルギーに大きく舵を取らなければ、子供たちに未来を手渡すことはかなわないと感じています。

 私たちはもっとシンプルでつつましい、新しい「幸福」というものを創造する力があると信じています。

 がれきの荒野を見た私たちだからこそ、今までと違う「新しい日本」を作りたいと切に願っているのです。

 今あるものを捨て、今までやって来たことを変えるのは大きな痛みと勇気が必要です。しかし、今やらなければ未来は見えて来ません。

 心から笑いながら、支え合いながら生きて行く日本を、皆さまにお見せできるよう努力しようと思っています。そしてこの「絆」を世界の皆さまともつないで行きたいと思っています。

【渡辺謙さん、ダボス会議スピーチ全文】東京新聞 TOKYO Web
http://www.tokyo-np.co.jp/hold/2012/davos/

渡辺謙「雨ニモマケズ」朗読(kizuna311 #01)
http://youtu.be/hvFEffacY5g

kizuna311
http://kizuna311.com

2014年8月17日日曜日

気宇壮大

ちょっと全国的に天候が不順で、極端から極端で、激しい。都市部では共同溝などを作って対策をしてきたはずなのですが、それも軽く超えてしまうくらい、短時間に、猛烈な雨が降ったりしています。

とにかく、前例も当てにならない。

想定内もすぐに想定外になる。

厳しい、険しい時代。

先日、妙深寺の薫化会が防災を学びに行ってきました。

どう生き延びるか、本当に考えて、備えておかなければならない時代なのですね。

特に、72時間が勝負のようです。

仕事も、とにかく厳しい時代。

人生も、すべて、防災の考え方に通じます。

日頃から、どんな風に人と接しているか。

友を大切にして、アンテナを張り巡らせて、自力に偏らず、他力本願でも他人任せでもなく、努力を惜しまず、変化に備え、怠らず、生きてゆく。

それが、生きてゆくということ。

そうでなければ、生きてゆけない。

今日は、神奈川布教区壮年会の平成26年度の錬成会でした。

私は午前中に講演をさせていただきました。

「ブラジルと仏教 ブラジル本門佛立宗に学ぶ」というテーマで、歴史的な写真を見ていただきながら、佛立男子信徒としての気概、ご信心の誇りと喜びを感じていただこうと思ってお話いたしました。

言ってみればブラジルへの移民を創始した「気宇壮大」の水野龍さんも本門佛立宗の男子信徒、壮年会の大先輩です。

まかぬ種ははえぬ。

まいた種ならはえる。

茨木日水上人のご奉公のすごさ、水野さんの気宇の壮大さ、その後のブラジルのご奉公、現在のブラジル本門佛立宗から、佛立教務の、佛立信徒の、誇り、喜びを感じていただければ有難い。

もっと、もっと、燃えて、ご奉公に向かってゆけるはずです。

最近、つくづく、ご弘通の第一の方策は、まず教務が先陣に立つこと、ご弘通で競い合い、教務同士でお折伏をし合うこと、そういう空気を、暗くではなく、明るく育むことだと思います。

午後は、指田御導師からご講話をいただきました。

ここでいただいたお話も、佛立の素晴らしさ、佛立信心の尊さを噛みしめるものでした。

本当に、ありがたいです。

2014年8月15日金曜日

平和の鐘

永代過去帳の中に刻まれている、黙ったままの法号、戒名。

そこに、一人ひとりの、かけがえのない人生があり、家族があったことを思います。

特に、終戦直前の数年間には、心が、ヒリヒリと灼けて痛むような、その生と死が、強い熱線を放っているような方々がおられます。

南海院、比島院、北満院、武羅湾院、護国院、報国院、殉国院。

義忠、忠烈、武勇、勇猛。

院号や道号にこうした語句がある方々は、あの戦争で戦死された方々。

毎朝、教務員の霊簿を拝見して、どれだけ多くの佛立教務が戦地で亡くなられたか、痛感するのです。

一般の人も、ご信者さんも、佛立教務の方々も関係なく、徴兵され、あるいは志願して、出征し、従軍し、戦死されました。

心がヒリヒリします。

国のために、つまり自分の周りに住む人々のために、家族のために、戦ったということ。

それしか、なかった。

ヒリヒリします。

一般市民に銃口や砲弾を向けた無差別攻撃が始まると、自分の命を犠牲にしても、人びとを、家族を護りたいと、一心に思い、戦われたのだと思います。

護国、殉国、義忠、勇猛、と法号を授与いただいた意味。

ただ、佛立教務の御霊が靖国神社に帰ることはありません。そこに眠ることもないでしょう。このことは、ぜひ心に刻んでいただきたい。

レトリックが多く、論点がすり替えられることがあります。

「国のために命を捧げた人びと」=「靖国神社に眠る人びと」ではありません。

靖国に参拝した方々が、

「国のために命を捧げた方々に手を合わせている」

と言われるのは分かりますが、そこにいない、おびただしい数の方々のことも知っていただきたい。

他国が靖国へ参拝することを批判するのは、多くの方々が祀られているからといっても、特定の宗教、多くの人にとっては一つの宗教に過ぎない場所だからです。

それを、

「国のために命を捧げた方々に手を合わせることが何故悪いのか。」

「他国にそんなことを言われる筋合いはない。」

となるのは、違うと思います。

おびただしい方々の、ほんとうの、それぞれの想いを、生と死を、本当に見て、感じていただきたい。

とにかく、明治維新の勝ち組が創始した靖国神社とは全く別のところに、この国のために生命を捧げた方々がいることを知っていただきたい。

明治維新まで遡って、廃仏毀釈、国家神道、神道国教化の道のりを見てもらいたい。

まっすぐに、透きとおって、この国の歩んできた道のり、あの戦争について、そのとんでもない、災禍から、地獄から、導き出され得た、人類の、日本人の、日本人だけの叡智から、戦争と平和について語りたいものです。

『仏教徒 坂本龍馬』に書き切った思いがあったのですが、やっぱり、ダメです。

あんな、小難しい本、誰にも届きません。

結局、人間というものを追求しない限り、「あの戦争とこれまでの平和」「これからの戦争と平和」について、語れません。

みんな、「平和」を求め、「平和」を語りながら、「戦争」してきたのです。

『永遠の0』という作品は、全く心に入ってこない作品でした。これを素晴らしい映画だと評価しているのが不思議で、むしろ怖いです。

今でも忘れられない、素晴らしいドラマが心に焼き付いているから、『永遠の0』の中に違和感を覚えるのかもしれません。

『英霊たちの応援歌 最後の早慶戦』は、私が10才の時に観た映画です。1979年、東京12チャンネルが、開局15周年記念作品として、製作・放映したものです。

全くの子どもだったのですが、学徒出陣の、その切ない姿に、戦争の恐ろしさや、そこに巻き込まれてゆく若者たちの姿に、泣きに泣き、今でも忘れられないでいます。

まとまりません。

いま、京都、麩屋町・長松寺のお総講が終わりました。

来年の今日を中心に、京都佛立ミュージアムでは一年間にわたり、戦争と平和について仏教的に考えてゆきたいと思っています。

平和の鐘。

このタイミングで、ブラジルに、広島市のご許可をいただいて、平和の鐘が建立される意義。

まだ、誰にも理解されていないように思います。

会議で何度もご披露しているはずですが、受け止められていないでしょう。

しっかりと、受け止めてゆきたいです。

2014年8月14日木曜日

スリランカのみんな、ありがとうー!

こちらの方が、感謝しています。

良潤師とケネカちゃんを除いたスリランカのメンバーが、今朝、無事に日本を離れ、帰国の途に就きました。

本当に、よく頑張ってくれました。

本当に、数ヶ月いなければ出来ないであろうご奉公を、休む間も惜しんで、やり切ってくれました。

きっと、感じてくれたと思います。

行く、仏教を。

待つのでも、考えるのでも、ない。

スリランカでも、義はつよく、親切に、丁寧に、謙虚に、柔軟に、へこたれず、あきらめず、投げ出さず、幅広くご奉公してもらいたい。

今、不軽菩薩がおられたら、どこに出かけて、どんな風になさるか。

きっと、あそこにも出かけて行って、こんな風になさるだろう。

きっと、あの人たちにも声をかけて、こんな風にお話されるだろう。

周囲には、どこにもお手本がないくらいに思って、生きた仏教を発現してもらいたい。

今回の来日ご奉公が、そんなイズムに目覚める機会になったなら嬉しい。

無事に帰国してくれること、そして、帰国後の彼らが、10年後、20年後、30年後に至るまで、スリランカのご弘通を担う人になってもらえたら、こんなに有難いことはない。

横浜、東京、京都、陸前高田、鎌倉、千葉で、たくさん生まれた思い出を、ずっと忘れないで欲しい。

ありがとうございました。

道端に座っている写真は、香菜子さんが撮ってくださいました。素晴らしい瞬間で、感激しました。

広島の平和記念資料館にあった、原爆投下直後を描いた壁画が、東日本大震災の直後に見た被災地の光景と酷似していて、背筋が凍りました。

本当に、恐ろしさを感じました。人間の恐ろしさを。

知ってもらいたい。

こぼれ出してしまったら、もう追いつかない。

スリランカのみんな、本当にありがとうー。