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2007年5月23日水曜日

信心は人柄に表れなければならない

 信心は人柄に表れなければならない。

 お祖師さまは
「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ。穴賢穴賢。賢きを人と云ひ、はかなきを畜といふ。」
とお諭しになられている。この御文を軽率に拝見してはならない。

 先日の妙現寺での川口御導師の御法門は、そのことを教えてくださっていた。

「舌根、斧を生ず」
と言う。

 口は、功徳も積めるが罪障も積む。「口は災いの元」というが、まさにそうである。功徳を積むのも口。罪障を積むのも口。
「舌根」の「根」とは、仏教では「働き」という意味である。舌の働きは、まさに「斧」となって、人を切り、功徳を断ち切る。人を助けるのも口、ダメにするのも口である。
 そして、「信心は人柄に表れる」である。信心をしているのであれば、所作振舞が、言葉が、態度が、御仏の教えに沿って正されなくてはならぬ。

 私は、信心をしているからといって功徳を断ち切っている者は恥ずべきだと思う。住職だろうと、凶夢だろうと、お役中だろうと、佛立宗では「一人の信者」であるから、改良すべき点は山のようにある。私も不完全な人間である。しかし、御法に傷を付けぬように、何とか所作振舞に気をつけようと思う。

 最近、つくづく思う。手本となるべき教務の御法門聴聞の姿勢が悪い。御導師が御法門を説かれていても、御導師の方を向かず、信者席を眺めるだけの者がいる。信心がないのだ。
 私は「師匠がいない人」を生涯で最も可哀想な人だと思っているのだが、教務であっても師匠がいない人が多い。形は出来るが、しばらく眺めていると、たとえば御法門聴聞の姿勢などで師匠として敬っていないことが多い。ちなみに、私ですら、弟子が御法門を説いている時は、お説きになっておられる方が「師匠」なのである。雪山童子の教えのとおりである。
 
 御法門は「聴聞」という。「聞く」だけであれば、「門」に「耳」である。しかし、「聴く」となれば、「耳」を使い、「目」をこらし、「心」を使わねばならぬ。その姿が御法門聴聞にあるか。その姿の手本を、まず教務が示さねばならぬ。

 ご信者とて同じ。役中たる者は心して所作振舞の改良に心がけなければならない。信心をしているから偉いのではない。信心が所作振舞に表れているから尊いのである。
 口で罪障を積む者。言動・行動で御法に傷を付けているのは、誰あらぬ私たち一人一人であることを肝に銘じなければならない。

 御仏の教えを現代に生きて伝えてくださったのは、お祖師さまである。それは文章で教えてくださったのではない、お祖師さまの生涯を貫かれた「行動」「所作振舞」である。それを体現してくださったのが門祖日隆聖人であり開導聖人であった。開導聖人の後を継いでご奉公させていただいているのが私たちではないか。それは行動、所作振舞で表さなければならない。

 住職の心を教務が受け継ぎ、教えを役中が体現して人々に伝えていく。人々は、その人の背後に教えを見、御仏を見て、お祖師さまを見て、開導聖人や住職を見る。所作振舞が自分勝手で、「舌根斧を生じ」て功徳を断ち切るようなことがあってはならぬ。

 そう教えていただいたと心得ている。

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