上座部仏教は、ある意味で変容を遂げようとしているし、遂げなければならないと思っているようである。
近年、上座部仏教の中に、ある大きな流れを生み出しているのが、「社会行動仏教」と呼ばれる潮流であり、「開発僧」の存在である。私たち日本人が知っているように、「大乗仏教(大きな乗り物を意味し、大勢の人が救われるという意味で使われてきた)」に対して「小乗仏教(「大乗」に対して小さな乗り物を意味し、その教義が示すように特定の修行をしなければ救われることはないとする仏教の総称。特に南伝仏教にこれを当てていた)」と呼んできた「上座部仏教(仏教が「根本分裂」した原因とも言える僧侶への教えを信奉する集団に伝えられた仏教」は、その本来的な活動から脱皮しようとしているのであった。
長い間、日本の私たちも含めて、上座部仏教はタイなどで見られる托鉢の僧侶をイメージして語られてきた。彼らの根本的な教えを紐解けば、出家剃髪した僧侶と在家信徒の間には大きな壁が横たわっており、在家信徒は僧侶に対して布施をし、外護することを修行とし、僧侶は自ら成仏の果報を得るために修行を重ねる、というものである。実際、根本的な教義として、僧侶は成仏の果報を得られるが、在家信徒はそこまでの果報は得られない、と規定する。僧侶の得る「利益(ベネフィット)」と在家信徒の得られる「利益」には完全な隔たりがあった。悪い言い方をすれば、僧侶は救われるべき存在であり、在家は俗世にまみれており僧侶に布施する「しか」功徳の積めない存在とされているのである。
一方、ご存じの通り大乗仏教はその「壁」を本来的に持たない。「本来的に」とあえて使うのは、大乗仏教とて、功徳を積む修行として全人生を「御法」や「ブッダ」に捧げるという意味で「僧侶」となって修行することは大変に尊いことと説く。しかし、成仏の果報、ブッダの教えの下に得られる根本的な「利益」としてはその「差別」はなく、「同じ」とするのである。故に、本門佛立宗の佛立開導日扇聖人は私たち僧侶の出家得度を「便宜剃髪」とお示しになった。これは、はっきり言えば、「便宜上、髪を剃って教導職に就く。ただし、成仏の果報は同じである。うぬぼれるな」とお諭しになっているのである。
このように、本来的な意味に於いては大きな隔たりのあった上座部と大衆部、小乗と大乗であったが、近年になってアジア各国で小乗仏教(上座部仏教)の僧侶らが、村に下り、街に入って救済活動を行うようになった。そうした社会的運動のことを「社会行動仏教」と呼ぶようになり、それらを総称して「仏教ルネサンス」と呼ぶようになった。ナショナル・ジオ・グラフィック社でも「仏教ルネサンス」と表紙に題して特集を組んだほど、近年これらはアジア発として全世界で盛り上がりを見せているのであった。
今回、私はその中心に入って、これほど詳細に「社会行動仏教」を取材できるとは思っていなかった。スリランカでは貧窮する農村を救済するため、先駆的な「開発僧(社会行動仏教を支える僧侶ら)」が「サルボタナ運動」を始めたのだが、現在はスリランカを離れて日本やタイ、このシンガポールでも活動を活発に行っている。
彼らには彼らなりの使命感があって、仏教復興と世界の平和、人々の救済を目的としている。それは、私たちがイメージする「上座部仏教」のそれとは大きく異なる。
今日、スリランカ僧がシンガポールに開設した寺院を訪れた。しかし、そこは寺院というよりも普通の民家であり、住宅街の真ん中に位置しているレンタル・ハウスであった。中に入ると、スリランカ僧が小さな手作りの部屋の中で経を唱えていた。いわゆる、「チャンティング(口唱・詠唱)」である。その前に信徒と家族がオレンジ色の糸を持ちながらひれ伏している。その外側にも僧侶が座っており、同じように口唱していた。
しばらくの間、私たちは近くの部屋でお茶をご馳走になっていたのだが、ゆっくりとした詠唱になるのを見て、ホールの近くからその模様を見させて頂いた。通常、詠唱がゆっくりになるというのは、セッションが終わることを意味しているからである。
詠唱が終わった後、本人と家族に僧侶から説法があった。つまり、いま行われていたことは、あの病気の人を救うためのセッションであるというのである。その説法の内容は(驚くべきことに)、「朝と夜に三宝に帰依すると唱えなさい。しっかりと5戒を守りなさい。21日間、肉食を止めなさい。すでに、呪いは取れました。呪いを行った者に全て呪いは戻るのである。今までのことは、全て忘れなさい。そして、今日から生まれ変わりなさい」というものだった。
続いて、家族は、それぞれが肩に手を乗せて、家族一体となった形で水を容器の中に注ぐ。その間、僧侶らは詠唱を再開する。その後、特別な水(まるでお供水)を僧侶から授ける。厳かに本人がコップを受け取り、僧侶の前で飲み干す。さらにその後、僧侶が水をひたした払子(塵を払うために使われるような仏具)を信徒の頭に向かって降り、彼女の頭に水をまく。まるでキリスト教のエクソシスト(悪魔祓い)が「聖水」を振りかけるように。
続いて、日本の若者にもお馴染みの「ミサンガ」のような細い色つきの糸の束を手首に巻いてあげていた(これには驚いた。「ミサンガ」はヒンドゥーのお守りというイメージが定着していたのだが、ブッダ以来の伝統的仏事を継承するとされるスリランカ僧らがそれを使用していたとは)。また、詠唱の際に使っていた毛糸のようなものを切って輪を作り、それを本人の首にかけてあげていた。
それらのセレモニーを受けた本人と家族は、最後に僧侶らに三宝に帰依することを意味する詠唱を行った。それで一座の法要が終わったのであった。
さて、これらの一部始終を私たちは見ていた。ビデオにも収めさせてもらった。
もちろん、単純に「勉強になった」などと言うつもりはない。しかし、スリランカ仏教は、あの国に残されている生態系と同じように、2500年の間、仏教を冷蔵庫に入れていたように守り続けていた国であり、仏教集団である。その彼らが守り続け、現在行うようになった衆生救済の方法(手法)の中に、私たち本門佛立宗の行う病者への「祈願」、苦悩する人のための「お助行」、「お供水(本法開眼功徳水)」をいただく、いただかせる、という意義など、さらに深く理解することが出来るようにも思う。北伝仏教の果ての日本。そこで仏教を信仰する私たちが、誰かの思いつきで始めた修行などではないことを、当然ながら知ることが出来る。
同時に、本門佛立宗は「Primordial Buddhism(根本的な仏教)」と言われる。視点を変えれば、私たちの根本的な仏教と修行を、形を変えて上座部仏教が行わざるを得なくなったとも見て取れる。上座部仏教は模索しつつ社会の中で活動している。彼らが変わったのである。変わらざるを得なくなった。それは、上行菩薩が本仏釈尊から直取りに最も尊いマントラを拝領し、私たちに授け、具体的な行動に移せる形態として受け継がれている「Primordial Buddishm」の「修行(Practice)」の中に生きているということを知らないがために、別の経典を詠唱し、水を使っているがヒンドゥーの秘術のようになったり、「研究開発」しながら、新しい法要儀式を作り上げながら、村や町に入っていかなければならないと考えられる。
その法要の後、私たちはスリランカの長老や僧らに囲まれて、また交流を行った。図らずも今日このような法要を見ることになったが、それを通じて新たな「お折伏」の糧を得たことになるし、彼らにも私たちのいただく修行と衆生救済の実践を知っていただかなければならないのだから。
そして、明日は私たちが法華経の教えに基づく御題目口唱の実践と、その意義について詳しく紹介する。そして、彼ら自身に上行所伝の御題目を唱えていただく。全ての仏教は、Primordial Buddishmに統合され、御題目口唱という修行の一点に戻ることが大切である。しかし、それを実現するためには、まだまだ時間がかかるし、ある意味で「社会行動仏教」の在り方を、さらに深く洞察すべきであろうとも思う。いずれにしても、一方的で、独善的なスタンスでは、何も生み出さないのだから。
彼らが、日本にまで来て活動し、そして多くの日本人が上座部仏教の彼らに期待を寄せている原因の一つには、日本の仏教団体や僧侶らが、葬式仏教となって衆生を救済することを忘れ、帰依を失っているからである。衆生と向き合うことを忘れた僧侶、儀式尊重型の仏教教団と僧侶、伝統しか残されていない仏教団体、観光寺院と化した寺院とそれを管理する者たちは、アジア各地で立ち上がっている上座部の僧侶らの脱皮から刺激を受けなければならないという側面もある。
かといって、私たちの教えでいえば、「随他意(人々のニーズばかりを見て、ブッダの御本意や教えを曲げること)」になってしまったら、単なるパフォーマンスになってしまうのだから意味はない。 教・行・証の三つを、正しく継承し、歴史的にも現在でも、教義の上でも実践の面でも、全ての意味に於いてブッダの御本意と合致しなければならないのだから。それこそ、本化上行菩薩よりいただいた本仏釈尊の建立せられた本門佛立宗の使命、「お折伏」であろう。それ以外は、やはり迷っており、苦しみを深めることになると考えられる。
やはり、上行所伝の御題目のご信心に、全ては極まっているのだという感慨を強く持つ。「社会行動仏教」の担い手は私たちでなければならず、「仏教ルネサンス」の中心には本門佛立宗があると確信している。
ブログでのご紹介、まことにありがとうございます。上座部仏教、英語のTheravada Buddhismですよね。私が指導するスリランカの院生が熱心なTheravada Buddhismの信徒さんで、むこうの様子を教えてもらってますが、僧侶と信徒の隔たりは小さいといつも言ってます。末端の信徒がそう感じるまで、上座部仏教が変化しつつあるのか、不明でしたが、御住職の説明をよんで、事情がよくわかりました。でも彼女はお寺によっては駄目だとも言ってました。社会行動仏教、仏教ルネッサンスを最先端で実践されている僧侶がおられる一方で、そこまで覚醒していない僧侶やお寺も、スリランカにあるのでしょうか。いずれにせよ、フロンティア部分が重要なのでしょうね。社会行動仏教の、そのフロンティア部分の現場を現地取材されたというのは、うらやましい限りです。すごいですね。私も参加させていただけばよかったと、やや後悔しつつ。山崎圭一(大学教員、開発経済学)
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