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2007年11月7日水曜日

生命が担保されると欲望が多様化する

 どこで聞いたか忘れてしまったが、「生命が担保されると欲望が多様化する」という。スリランカの方の来日の時に、この言葉を思い出していた。
 日本は経済大国となり、豊かで安定した時代を迎えた。確かに、政治や社会に不安要素はあるものの、世界各国に照らしてみれば明らかに平和を享受している。
 発展途上国と呼ばれる国々、特にスリランカなどでは貧困やテロが身近にあり、生命の安全保障(人間の安全保障)が日本とは大きく異なっているというのに。だから、上記の言葉を思い出していた。
 生命が担保されているか、いないか、自分の生命の維持が出来るか、出来ないかという、もっとも基本的な、身近な、切迫した問題が、自分自身にとってどのくらいの距離にあるか。複雑な言い方で申し訳ないが、日本とは「生命(人間)の安全保障」の点で大きく異なっていることは、人間の在り方に決定的な違いを生み出すのは勿論、一般的に言うところの信仰や、私たちのご信心やご弘通の面に於いても明らかな違いを生み出していると思うのである。
 考えてみれば当たり前のことなのだが、「生命が担保されると欲望が多様化する」のだ。命が維持できることを、無防備に当然のことと思えている人間は、その欲望が「生命の維持」に向かない分だけ多様化していくのである。であるから、欲望があまりにも多様化した日本と、生命が担保されていないスリランカの人たちの人間性とその感性に、人間本来の心、信仰の在り方、受け止め方を見つけることが出来たのだった。
 なぜ、こんなことを書くのかと言えば、今朝の長松寺での出来事がある。来年20才になる弘宣くんの目覚まし時計がけたたましく鳴っていたのだ。鳴り続けて、鳴り続けて、鳴り続けて、そしていい加減に起こさないといけないということで起こした。
 しかし、まぁ、その鳴り方は半端な音ではなくて、よくもまぁ耳元でこんなものが鳴っていて眠れるものだと感心した。驚くべき音量レベルなのである。「眠い」というだけであれば、一度目覚まし時計を止めてから寝れば良い。しかし、全くあれだけ大変な音量の目覚ましを放っておけるというのはどういうことだろう。
 生命が担保されているということは、すごいなぁ。つまり、猛獣の住むジャングルで寝ていたとしたら、人間は少しの葉音や足音でも目を覚ますではないか。そこを、住居を構え、心休まる場所が与えられているからこそ、こんなにも無防備にもなれるのだ。目覚ましがけたたましくなっていても眠れるのである。あぁ、こういうことが生命の担保なのだなぁ、と思ってしまったわけである。学生時代の私とて、弘宣くんと変わりはなかったのだが、でも一度目覚ましを止めてから寝ていたなぁ。
 生命が担保されていると欲望は多様化する。生命が保障される環境に身を置いていると、生きる上で欠かせないこと、人間にとって原則的に大切なことに対して、鈍感になるのかもしれない、と思った。生命の担保によって与えられた「余裕」の中で、あまりに好きなこと、欲しいもの、したいことを考えられるし、出来る。100%これが悪いとは思わないが、人間として大事なことを忘れてはいけないということを思ったのだった。
 京都、長松寺で、そう感じた。今日は暑いくらい、晴れています。

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