ページ
2007年12月31日月曜日
腫瘍が小さくなった!!
お題目ストリート
2007年12月27日木曜日
妙深寺報 平成20年1月号 出稿
今朝9時、少々永田さんをお待たせしたが、印刷所に全原稿が回った。29日の夕方には出来上がってくる。その後、妙深寺内での配布と御縁の深い全国各地の寺院へ発送を行う。
また、韓国、ブラジル、ドイツ、イタリアにも寺報を送付させていただいている。少々配送費などお値段は高いが、海外弘通の一助になるという思いでさせていただいている。スリランカには日本語の分かる人が皆無であるため、送っていない。しかし、半年に一度くらいの割合で持って行くことにしている。写真だけでも楽しめるだろうと思って。
今月も20ページのボリュームとなった。これでも取り上げられない記事で溢れている。妙深寺報は余り統一感がなく、企画記事というものは極めて少ない。ただただ、ご信者さんの生の声をお伝えしようとしている。何かを考える時期かも知れないが、一ヶ月間で起きるドキュメントの記録。こんな会話、こういうお話が出ている「お寺」ということを知っていただくだけでも良い。劇的なドラマが毎日のようにあるということ。
とにかく、今朝は満足した。これから初総講の御法門を作らせていただかなければならない。また、明日は妙深寺の大掃除だ。明後日は9時から大鏡餅つき。
ありがたい。
2007年12月26日水曜日
明日、寺報の出稿
写真は横浜の繁華街。教講納会の夜に撮影したらしい。
年の瀬の横浜。
それにしても、今日もたくさんのことをブログに書きたかったのだが、こうして時間だけが過ぎていく。
10大ニュース
2007年12月23日日曜日
明けの鐘の音
・倉敷の4歳児虐待死:暴行容疑で母親送検 二男の死因は七味吸入。岡山1月3日配信 毎日新聞
2007年12月19日水曜日
12月19日 京都
2007年12月14日金曜日
改めまして 『Moment』
『Moment』
行弘くんからのメール
冬の京都は冷え込む。身体の芯まで冷えるような寒さがある。まだ、冬は本番を迎えてはいない。今日などは温かい方だろう。お正月を迎えて、1月から2月になると、信じられないほど寒くなる。そんな京都の冬は、つくづく春が待ち遠しくなる。
京都から田口くんについて第二回目のブログをアップした。今朝、メールをチェックしたら本人からメールが来ていた。ありがたい。それを紹介したいと思う。
=============================
清潤御導師、
ありがとうございます。
日本では短期間の帰国にも関わらず、長松寺を参詣させて頂き、御導師に再会できた事をありがたく思います。
先日の御導師のブログ、拝見させて頂きました。たくさんお褒めのお言葉を頂きありがとうございます。少々、照れくさいです(笑)。
しかしながら、今回の受賞は、当然のことながら、決して僕一人の力で頂いたものではありません。それは、もちろん、母、父、家族、友人の支えがあり、いろんな人から頂いた力(知恵)の一つの結果だと確信しております。
毎月、妙深寺様から送ってくださる寺報には、御導師をはじめとする、御信者様などが書かれた言葉に知恵が多く詰まっております。それも御導師がおっしゃる、「サイン」だと思っています。
僕はそれを美術の世界で実行、行動に移したまでに過ぎません。ちなみに、御導師がイタリアで色々と話してくださった中で「負を取れ」という話が分かりやすく非常に印象深く、それを実行させて頂く為に、御宝前にお願いさせて頂いております。
その他、もちろん、様々な方々の助言や出会いで、今の僕に至ると考えております。
そういう思いから、今回、受賞で頂いた賞金を僕を育ててくれている縁のあるお寺(本成寺、遠妙寺、妙深寺)に御有志させて頂きました。
こんな時しか、まともに御有志させて頂けないということがまだまだ未熟ではありますが・・・
また、今回の受賞は勿論、ありがたい事ですが、一つのステップだと思っております。跳び箱で言うならば、踏み台のようなものだと思います。
これから、もっとデカイ跳び箱を跳ぶために、御信心を絶やさず、精進させますので今後もよろしく御願いいたします。
妙深寺の御教務様、毎月かかさず寺報を送ってくださる事務の方、御信者様によろしくと御伝えください。
ありがとうございます。
合掌、
行弘拝、
=============================
う~ん、立派なメールを書くようになった(涙)。ありがたい(涙)。
そして、続いて彼から追伸メールが来た。田口くんがインタビューを受けた内容が掲載されている。彼の制作スタンスが分かると思うので、是非読んでいただきたい。すごい。
東京アートビートに紹介された「関係の発生」を、ここに紹介する。
2007年12月13日木曜日
アッシジでの水彩画
アッシジや聖フランチェスコを知らない人でも、アメリカの「サンフランシスコ」という都市の名前は知っているだろう。名曲「慕情」の舞台にもなっているアメリカ西海岸の「サンフランシスコ」もブラジルの「サンフランシスコ川」も、彼の名前にちなんでいる。マザー・テレサも彼の生涯を知って修道女になることを決めたといわれるし、それほどキリスト教世界、カトリックでは有名なのが、このアッシジ出身の聖フランチェスコだ。
キリスト者ではない仏教徒の私から「フランチェスコ」を見ると、彼は所謂それまでの「カトリック」を否定し、カトリックの教義に大転換を迫った存在であったと思う。厳格な教義の解釈よりも霊的な啓示によって多くを感じ指導する「密教的」な側面を強く持ち、人々の生活から乖離した教会とキリスト教を復興させようとした。当時のカトリック教会は保守的で、多くの信仰復活運動を弾圧したが、ローマは当時からアッシジのフランチェスコ派を利用して再生を目指していくことになった。
それにしても、キリスト教の教会、特にアッシジはおっそろしい教会だった。もう、その教会の内部は表現しかねるほど重たい空気だった。フランチェスコの遺体は今でも教会の下部に埋葬された棺の中にある。その棺は階段を下りて来た者は見ることが出来る。私たちの団体では数人の女性の気分が悪くなり、教会内部に入ることは出来なかった。本当に恐ろしいほど重たい空気だった。
聖堂の内部にはジョットによるフランチェスコの生涯を描いたフレスコ画がある。1997年9月26日に発生したウンブリア・マルケ地震でフレスコ画と丸天井が崩落して大事故となり、数名が死亡した。それだけでも恐ろしい。「世界の衝撃映像」などのテレビ番組で、この丸天井崩落の衝撃的な映像を見た方もいると思う。現在は、極めて精力的な修復工事によってほぼ元通りになった。
重たい空気の教会内部とは裏腹に、6月のアッシジの空は澄み渡っていた。教会の中を柔らかい光が包んでいて、鳩が日だまりの中を歩いていた。田口くんは、この場所でもたくさんのデッサンを描いてくれていた。
全く上手に描いてくれている。穏やかな田園地帯の空気まで表現してくれているように思う。ありがたい。天才や。
実は、私だけこのアッシジに庭を見て、一人だけ思うところがあった。2002年1月24日、バチカンのヨハネ・パウロ二世の呼びかけで「世界宗教者による平和の祈りの集い」が、このアッシジで開催された。聖堂前の庭にはその時の植樹が残されていた。
私は、この「世界宗教者による平和の祈りの集い」のニュース映像を見て、一人イスラエルに行くことを決意した。平和に対する願いがあるのは分かる。人類の希求するところだ。誰もが平和を望み、戦争や紛争を嫌う。しかし、戦争や紛争は後を絶たない。だから、異なる宗教が対話を重ねていくことは大切だと思う。しかし、あの時、ニューヨークでの同時多発テロ、アフガン侵攻、イラク戦争の流れの中で、アッシジに集う聖職者たちを見ていて、何故か強い嫌悪を覚えたのだ。「呑気なもんだ」と思えて仕方がなかった。
同じ聖書をルーツとしているユダヤ教、キリスト教、イスラム教と全く異なる視点を「仏教」が提示しなければならない。単純に、「手を取り合いましょう」ではなく、真実の仏教・本門佛立宗の私たちは、それを提示する使命がある、そう思っていた。そして、聖書を手にエルサレムに行き、ユダヤ・キリスト・イスラムの聖地を訪ねながら、仏教の使命に思いを馳せた。
アッシジのフランチェスコが評価されるのは、「キリスト教」という枠を飛び越えた普遍性を持っていたからだと言われている。つまり、そこが「キリスト教を越えた」「キリスト教を変革させた」と言われる所以である。そう考えれば考えるほど、仏教の「普遍性」を彼らに提示したいと思う。彼らが飛び越えたくて飛び越えられなかった壁を、キリスト教というドグマを外すことによって得られる法華経の普遍的な世界を提示したいと思ったのだった。
2009年、海外弘通は新たな局面を迎えるだろう。
ダ・ヴィンチのデッサン
この田口くんの快挙を妙深寺のご信者さんにご披露したところ、大変な反応があった。イタリアに行った人たちは彼のことをずっと覚えていたらしい。
そう、前回は書いていないが、ローマのカンツォーネ・ディナーの時、オランダから来た他のテーブルの観光客の方々がダンスをしはじめて、私たちも川上さんご夫妻を筆頭にダンスを披露してくれた。
その時、田口くんも一肌脱いで「剣舞」のような独演をみんなに披露してくれたのだった。拍手喝采だった。それにしても、この時の田口くんがとても「貧しそう(笑)」だったので、ダンスの後に田口くんの被っていた「麦わら帽子」を回して、みんなが帽子の中に「チップ」を入れてくれた。このエピソードを私は忘れていたのだが、12月の御講で田口くんの話を聞き、瓜生さんが感激して教えてくれた。「彼の踊りが素晴らしくて、そのチップを集めて彼に渡したんですよねー」って。そんなことまでしてたんだなぁ。彼は幸せ者。そんな彼がグランプリを獲ったなんて、みんなにとっても大変な喜びであり、驚きなのだ。
今回、このブログで大切にしていた田口くんのデッサンを載せちゃおうと思う。本当に素敵だ。彼がTシャツに短パン、麦わら帽子にリュックサックという姿で現れた時は「なんじゃー?」と思ったが、食事代として書かせた絵を見てうなった。本当に素晴らしい。ぜひ、見てもらいたい。ダウンロードして壁に掛けていただいても良い。いや~、価値があると思うなぁ~。
最初の絵はフィレンツェの中心、アルノ川に掛かるポンテ・ヴェッキオ(ヴェッキオ橋)である。水彩画で色をつけてくれた。本当に素敵な画。僕はこの画が大好きだ。右側の絵は、まさに鉛筆によるデッサン。フィレンツェの街角から見えるサンタ・マリア・デル・フィオーレ寺院である。この大聖堂は140年をかけて建設された。フィレンツェの代表的な建築物であり、中世のキリスト教勢力の強大さを痛感させられる。天井画の地獄図は「恋人たちのドゥオモ」には似つかわない恐ろしいものだが、それでもフィレンツェに君臨する中心的存在になっている。フィレンツェでは、どの街角からもこの大きな円屋根が見える。
それにしても、140年かけて寺院を造るというのは素晴らしいことではないか。東大寺の大仏の鋳造と大仏殿の建設の期間は、大仏造立の詔が発せられた743年から竣工の758年までなので約15年。スケールが違う。もう、ある意味で君主制や強固な封建制でもない時代には、そんな大寺院建立という大事業は不可能だと思うが、こういう長い時間をかけるという考え方は勉強になるなぁ。
いつも考えているのだが、私の住職の代では、どんなに老朽化が進んでも、出来る限り昭和47年に建立された現在の妙深寺本堂でご弘通させていただきたい。手狭になっても、それも喜んで使わせていただけるだけ使わせていただきたい。新本堂の建立という大事業は、私が住職をしている時ではなく、次のご住職にしていただきたいと思う。それまでは、とにかく一人でも多くの人にご信心をお伝えし、支え、ご信心の喜びを感得していただきたい。
そして、次のご住職とその時代のご信者さんには「千年本堂」を建立してもらいたいなぁ。私は一人でイスラエルを旅したが、彼の地にも1000年以上の歴史を経て、なお人々の尊崇する寺院がある。ローマやフィレンツェでもそうだ。多機能な建造物であると無理かも知れないが、せっかく建立したのに数10年で立て直しを迫られるようでは哀しい。シンプルでも、1000年以上護持させていただけるような本堂を三ツ沢の丘に建立してはどうかと思う。最初に御有志される方々は、結局完成した本堂を見ることは出来ないのだが、100年かけて建設しても1000年以上信仰の中心地になると考えれば本望ではないか。
彼が書いてくれたデッサンの総数は、10点にも上る。私は鉛筆の濃淡だけで書いてくれたデッサン画を本当に気に入っている。フィレンツェの街は非常に入り組んだ路地が張り巡らされている。石畳、そして両側の家々、路地の上に見える空、、、、。それを鉛筆の濃淡で表現してくれている。
凡庸な私たちからすると突拍子もないパフォーマンスをする彼だが、さすがは芸術家としての基本を習得しているということだ。これほどセンスがよく、綺麗に、デッサンが描けるのだから。
今年の2月、フィレンツェのご奉公にひろし君が合流した。親会場でご奉公させていただいた次の日の朝、2人でジョギングをした。フィレンツェの町中を抜けてパラッツォ・ヴェッキオ、ウフィツィ美術館の中央をダ・ヴィンチやラファエロ、ミケランジェロの銅像に見下ろされながらアルノ川沿いに出てポンテ・ヴェッキオへ。橋を渡ったら少しだけ左に折れて坂を上った。坂の両側は大きなお屋敷が続く。高い塀に囲まれた坂道を駆け上がると、トスカーナの丘の上に出る。旧市街の塀を見ることも出来る。気持ちの良い風に吹かれて、気持ちの良い朝だった。
ここに挙げたデッサンを見ていただいても、彼の素晴らしいセンスが分かるのではないだろうか。このオリジナルを持っているのだから、将来がたのしみ~。もし彼がピカソやダ・ヴィンチのような偉大な芸術家の卵だとしたら、このデッサンの価値は大変なものだ。それこそ、「千年本堂」の資金になるなぁ(笑)。
次には、フィレンツェを南下して、彼がアッシジで描いたデッサン、水彩画を紹介しようと思う。アッシジは聖フランチェスコが生まれ育った街であり、サン・フランチェスコ聖堂がある。私たちはこの街によって、昼食を取り、この聖堂を訪れた。
この街を訪れるに当たっては、その前後で私からアッシジやカトリックというキリスト教、聖フランチェスコについて説明した。その上で、私たちがこれを見て、どのようにキリスト教を捉え、ご弘通を考えていくかをお話しさせていただいた。
2007年12月11日火曜日
世紀のダ・ビンチを探せ!
満を持して書かせてもらおう。
12月4日18時。何が嬉しかったって、田口行弘くんがベルリンからわざわざ京都・麩屋町の長松寺までお参詣してくれた。しかも、完全なる凱旋帰国!もう、嬉しくて嬉しくて、感激した。
もはや、世界的な芸術家となった田口くんのことを書くのは少々気が引ける。しかし、書かずにはいられないので、一気に書いてしまおうと思う。彼と出会ったのは何年前だっただろう、3年近く前だろうか。お母さんからのご紹介で連絡を取り、お会いしたのが最初だった。
私は毎月2度ほど京都・長松寺でご奉公させていただく。通常は4日と16日、7月の祇園祭と8月の大文字の時だけが混雑するために15日になっているが、ほとんど欠かさずに京都に帰って18時からの御総講のご奉公に当たる。
この3年間ほど、大阪から足繁くお参詣してくださるご婦人。優しい笑顔の田口さん。毎月二回、大阪から京都までお参詣に通い続けてくださっている。並大抵のことではない。本当に有難い。
その田口さんから息子さんを紹介していただいた。いや、「いただいた」というよりも、ご苦労を重ねてきた田口さんが東京で芸術を志して生活している息子さんに、何とか立派になってもらいたい、ご信心も相続してもらいたい、という思いだったと思う。たぶん、長松寺だと思ったが、私は初めて彼に出逢った。行弘くん、東京芸大に通う芸術家の卵だ。
私は、ご苦労を重ねて行弘君を育ててきたお母さまを見ていたので、芸術家を志すといっても、さぞお母さんにとってはその生き方が不安であろうと感じていた。いつになったらお母さんを支えられるか。そういう息子になれるか。芸術家を目指す者などごまんといる。いくら感性が豊かで、アートやクリエイティブなことが好きでも、そんな若者は数え切れないほどいる。そして、女手一つで行弘君を育ててきたお母さん。うーん、と考えていた。
だから、最初に会った日、私は彼にお話しした。とにかく、左側の脳で芸術なんてできないのが良く知っているだろう、もっともっと根っこの、右の脳、もっと言ったら心の奥の奥から湧いてくるインスピレーションの世界だ。だからこそ、信心をしっかりして、御題目をお唱えしてくれ、その部分を磨いてくれ、と言った。それが最初の出会いだったと思う。
それから、メールを交換したりするようになって、彼はベルリンに旅立った。またまたお母さんを不安にするように、彼はドイツのベルリンで生活することにしたのだ。私は、とにかく彼を送り出すことが心配で、朝夕のお看経の時に、「弘通の器となさしめ給え」と言上し、ご祈願するように勧めた。自己満足の芸術家になるのではなく、何とか「人を救えるような芸術家」になってもらいたい、と。そういう思いを持ってくれたら、御法さまがもっともっと行弘君を応援してくれるのではないか、と思ったのだ。
彼がベルリンに住むようになって、吏絵ちゃんの白血病のご祈願も始まった。私は彼にご祈願してくれるようにお願いをし、彼もベルリンでご祈願してくださるようになった。彼はしっかりとベルリンからご祈願してくれていたと思う。懐中御本尊の御不敬、そして新しい懐中御本尊の拝受など、いろいろなこともあった。大学時代に所属し、ご指導をいただいていた遠妙寺の御導師にお願いして御染筆いただいた懐中御本尊をベルリンで護持して、お看経してくれていたと思う。
しかし、うだつの上がらない貧乏芸術家。サラエボなどの紛争地域に出掛けて、先鋭的な芸術家の仲間たちと何か活動していることを彼のブログで見たり、ベルリンの街中をビニール袋をかぶって歩いたり。こっちの感覚ではよく分からない「芸術(?)」に戸惑ったりしていたが、それでも彼からのメールに喜んだりしていた。ヨーロッパで活動している間にいただいた御利益などを報告してくれたり。
2005年6月、フィレンツェに行った際には、ベルリンから駆けつけた。「駆けつけた」と言っても泊まる場所も決めていないし、どうやって行動するかも決めておらず、ただ「合流」。団参の行く先々に彼を連れて行くことにした。もちろん、食事も1セット追加。
フィレンツェからローマまで連れて行って、最後はカンツォーネのディナーまで一緒にした。裸足でサンダル、麦わら帽子というスタイル。まぁ、変わった奴だったから、妙深寺のご信者さんもビックリしてた。でも、愛されるキャラで、みんなの人気者になっていた。(左の写真は、カンツォーネを歌ってくれるレストランだが、右側でピンク色のTシャツを着ているのが行弘君である)
その「うだつのあがらない」「貧乏」芸術家の行弘君。お金が無くて日本に帰ってくれないはずだったが、11月末から凱旋帰国。そして、12月4日に長松寺にお参詣してくれた。それは、何と「世紀のダ・ビンチを探せ!国際アートトリエンナーレ2007」というコンクールがあって、その授賞式に出席するとのことだった。しかも、渡航費は主催者が出してくれたって。な、な、なんと、行弘君は、この「世紀のダ・ビンチを探せ!」というコンクールの最高賞であるグランプリを受賞したのであった!
どんだけー!である。もう、信じられなかった。感激した。これまでのことを思い出したし、何よりお母さんの顔、嬉しそうな顔、もう最高だった。
このコンクール、大阪芸術大学が主催しているのだが、名前がスゴイ。「ダ・ヴィンチを探せ!」って。レオナルド・ダ・ヴィンチは知っての通りルネッサンスの巨匠で、絵画から彫刻、建築や自然科学、音楽にまで通じた大天才。 「万能の人」「普遍人」とも呼ばれている。(私としては、ダ・ヴィンチが1年だけ仕えたチェザーレ・ボルジア、その父の法王アレッサンドロ6世、彼らと交渉したフィレンツェの役人・マキアヴェッリ、アレッサンドロ6世と対峙した説教師サボナローラ等々、『ダ・ヴィンチ』を聞いただけで興奮してしまう)
その題名の通り、この「世紀のダ・ヴィンチを探せ!」という企画は、世界規模で作品を公募し、「世紀のダ・ヴィンチを探そう」とする国際アートトリエンナーレとのこと。志が大きい。すごい。ホームページを見てみると、『表現とメディアが急激に変化し、 様々な表現領域が複雑に交差する中で、今世紀の芸術はどこへいくのでしょうか。伝統と革新の対立と融合、地域間の葛藤と共生、そうした問題をあたらしい表現活動はどのように解決し、再生していくのでしょうか。この公募展を契機に、この会場、大阪から新しい世紀の「ルネッサンス」が期待されます。 「世紀のダ・ヴィンチ」、 それはあなたです』と書いてある。
おいおい、その『ダ・ヴィンチ』のグランプリに行弘君が選ばれたなんて。いや、選んでくださったなんて。すっごーい。すっごーい。すっごーい。
もうね、感激で泣けますわ。しかも、長松寺で行弘君、僕に封筒を出した。「なんやこれ?」とお預かりすると、「海外弘通御有志 行弘」って。もう、どんだけー!や。余りにもひもじそうでお小遣いを渡したこともあったし、フィレンツェではあれだけ食わして、「こりゃ、永遠に返ってこんな」と思っていたのに、まさかこんなに早く(涙)。しかも、この封筒、分厚い。「おう、おい、これ500円札か?」って思わず冗談でまぎらわした。ありがたい。ありがたいではないか。
人は成長する。どんな時でも、御法さまを信じて、自分の道を歩んで努力すれば、「冬は必ず春となる」だ。いつも目先のことばっかりを見て、それで人を判断していると何も得られない。受け入れて、信じて、待って、祈って、願っていると、こういう日が来るんだなぁと思って。嬉しい、嬉しいなぁ。
もう、「世界のタグチ」になっちゃった。NHKにも取材されて、お昼前にテレビに出てた。新聞にも紹介されていたし、これからが勝負ではあるけれど、彼のキャリアの一つとして輝くだろう。
世界的に活躍しているYukihiro Taguchiの公式ブログサイト「dirmission」は英語のみになっているが、日本語のブログ「spazieren」もあるので紹介しておく。応援してあげてもらいたい。
最後に、今回受賞した作品がYou Tubeに出ているので、ここに貼り付けようと思う。私は、最高に、素晴らしい作品だと思う。今まで彼の作品は、何をどう見てもさっぱりわからなかったが、今回の作品は本当に見れば見るほど色々なことを考えさせられた。「時間」と「空間」、「人」「場」「縁」「刹那」、、、、、。
それと、もう一つ。ウッシッシということを。(ちょっと今、上の作品が見れないようだ。12秒くらいで映像が止まってしまう。残念)
実は、イタリアで一緒に過ごしていた時、「おい、お前さ、タダでご飯とか食べてるんだから、フィレンツェの街とかをデッサンしてよ。それをもらって帰るから」と言った。彼は真面目だから、フィレンツェの街並を「さすが東京芸大!」と思わずうなるくらい素敵な鉛筆によるデッサンを何枚か描いてくれたのだ。
僕は、それを持っているのである。ヘヘヘ。彼がこのままホンマに「ダ・ヴィンチ」になってくれたら、このデッサンは高く売れるやろ~な~(笑)。これで本堂建てられるかな(笑)。ピカソでも、駆け出しの頃の作品でも高く売れるもんなぁ~(笑)。
いやいや、まだまだ。これからが芸術家としての本番。このコンクールなんて、本人も言っているし、彼のブログにもあるが、一つの通過点にしか過ぎない。彼の中では、本当に大した意味を持っていないのかもしれない。もっと大きなものを見ている。
そう、それでいい。「弘通の器」になることが大事。最高に大きな「夢」を持って、それに向かって頑張ってもらいたい。お母さん孝行も忘れずに。ベルリンに行っている間は、月に二回、僕がお母さんに会って元気づけようと思う。心配するな。
だから、頑張れよ。Keep chanting!!
2007年12月10日月曜日
はやて君、和長さん、
お寺を出て約3時間で長野駅のホーム。早い!今日は平成19年度を締めくくる御講席。石田さんのお宅にはたくさんのご信者さんがお参詣くださっていた。そのお参詣者の中に、この数ヶ月、ずっと御祈願させていただいてきたご家族がいた。
生後11ヶ月の岡田はやて君。はやて君は長野でご奉公してくださっている岡田さんの三番目のお孫さん。以前から息子さんやお嫁さん、2人のお孫さんたちとお会いしていた。幸せそうなご家族、立派な息子さん、素直で綺麗なお嫁さん、そして活発な二人のお孫さん。そして、今年の1月、はやて君が誕生。私は7月にはじめてはやて君に会った。
今年の秋、深恭師からの報告で、そのはやて君が数日間の高熱にうなされ、非常に危険な状態であると知った。入院、検査。そして、御祈願がはじまった。40度の高熱が続き、両手のひら、両足の裏側まで皮膚がめくれてしまったという。原因不明の病気、ただ血管の病気であると言われた。同時に肝臓にもダメージを受けていて、その数値次第とのこと。
いつも書いていることだが、私たちは医者でも何でもないし、まして家族でもない。ただ、こうした出来事があった際に、同じご信心をしている者同士で「ご祈願」をさせていただく。祈りの力を信じ、御題目の御力を信じ、必ず、はやて君や看病しているご家族に届き、支えられる、と。
教区の方々をはじめ、妙深寺の朝のお参詣とお助行でも、すぐさま「はやて君」への御祈願が始まった。これが「菩薩の誓い」をしている妙深寺の連係プレーで、お助行の輪、心のネットワークが困っているご家族をサポートしようと動き出してくれる。
私も毎朝はやて君の「当病平癒、検査結果良好」の御祈願を続けさせていただいた。本当にご家族の献身的な看病と、もちろん岡田さんのお祖父さんはじめ、みんなのお助行と御祈願によって、お医者さまが言っておられたことよりも早く退院、そして元気に御講席にお参詣してくれた。ありがたい。
そして、何よりも有難いことは、この「はやて君」の突然の病気を通じて、家族がもっともっと一つになり、二人の兄弟もお母さんをサポートしようと賢くなり、もっと言えば、ご信心にも御法さまにもご両親の心が向いたということだ。そう考えれば、「はやて君」は、ご家族にとっての「菩薩」なのである。見方を変えれば、ご家族のために身を挺して何かを教えてくれたことになる。私たちはそう受け取るのである。
だから、「病は成仏の仲人」という教えがある。「菩薩の病は大悲より起こる」とも「衆生病む故に菩薩また病む」と教えていただくのである。
それにしても、苦しかったのは「はやて君」だ。小さな身体で治療や検査によく耐えた。お注射や点滴をする時に、どうしてもお医者さんたちがはやて君を押さえる。赤ちゃんにとっては身体を抑え込まれるなんて、大変な苦痛だ。それ以来、ちょっと対人恐怖症のようになってしまったと奥さんが言っておられた。
しかし、この日は素晴らしい笑顔でだっこさせてくれた。元気も元気、何でも食べる。原因不明といわれた病気は、おそらく「川崎病」であるとのころ。確かに川崎病の原因は特定されていない。感染性の病とも言われている。しかし、いずれにしても、川崎病であったら、妙深寺の執事長の次女、私の幼なじみでもあるはるのちゃんも川崎病と言われた。はるのちゃんは、川崎病であったことなど微塵も分からない。完治して、現在は元気はつらつの2人の子どものお母さんになっている。全く問題ない。当然だが、はやて君も必ず御利益をいただける。ありがたい。御講席の最後には、「お父さんは女の子が欲しいでしょうね。じゃぁ、4人目に挑戦だー」と笑って話をしていたほど。有難いことだ。本当に、ご信心を教えてくださるための出来事であったようにも思える。
そして、私はそのまま長野から深恭師の車で40分ほど走り、和長さんのお宅にお助行に行かせていただいた。和長さんは、8月~9月にかけて検査を受け、末期の食道癌と診断された。私は、和長さんの体調の変化を春頃から感じていて、だからその状態を聞いた時には本当に悔しかった。
駅までお迎えに来てくれた和長さんに、何度も病院に行くことを勧めた。どうしても「咳」が気になっていたのだ。次の時に、御講席後のご供養の際に、むせるようにして立ち上がられた。その時には、本当に病院に精密検査に行ってくれるようにお願いした。和長さんのお仕事は「船乗り」だったのだ。海の男、病院は大嫌いなのだろう。それでも、行ってくれて、そして、病名が分かった。
本人もよく知っておられるので、ここに書かせていただくが、診断されたステージは「Ⅰ」でも「Ⅱ」でも「Ⅲ」でも「Ⅳ」でもなく、「Ⅳ」の上の「b」であった。ご本人も奥さまの音美さんも愕然としたと思うが、私たちも本当に愕然とした。しかし、その後で、「いや、そんなことでへこたれていても仕方がない」と思い直し、深恭師のお助行もあって、ご家族は全員が前向きに、特に根性の座った和長さんが一番前向きだった。
9月19日、私は最初の治療を行うために入院していた和長さんをお見舞いした。病院の玄関に音美さんが迎えてくださった。病室のベッドの上に和長さんが座っておられた。病状を説明した紙がベッドの上のテーブルに置かれていて、進行性の癌であることと、ステージについても読ませていただいた。
「やるしかない」。和長さんは、淡々としておられた。首には放射線治療用のサインがマジックで書かれていた。そう、そこから治療がスタートしたのだ。帰り際、抱き合って、少しだけ泣いた。
そして、11月。和長さんは元気に御講席にお参詣、そして体験談の発表。てっきり、お助行していた全員がげっそりと痩せて元気のない和長さんを想像していたのだが、元気に、それは見事に、治療の経過報告と、お助行してくださる皆さんへの感謝の言葉、そしてこれからのことを話してくださった。隣で岡田さんが泣いていた。
その御講席の後でも、和長さんのお宅にお助行に寄せていただいた。また、新しい治療が始まるということだったし、何としてもお宅で御題目をお唱えさせていただきたいと思って。1本のお線香、お看経させていただいて、記念写真をパチリ。何か、一番私が緊張しているようだ。顔がこわばってる。
12月の御講には和長さんはお参詣出来なかったのだが、日曜日だったのでサプライズお助行。突如現れた僕たちにビックリ。ごめんなさい、和長さん。元気な和長さんは玄関先で灯油を移し替えていたのだが、「ビックリしてこぼしちゃった」と言っておられた。ごめーん、灯油高くなってるのに~(笑)。
でも、本当に元気そうで有難かった。「髪の毛が薬で抜けてきたー」って言っておられたけど、元気元気。一緒に1本のお看経、元気に出来たもんね。ありがたい。
そう、この時、お看経を終えて携帯電話を見ると京都からメール。「自分で命を絶ちたいと予告メールが入ったので、大至急連絡下さい」と。なんのことだが分からなかったのだが、和長さんとお話しする間もなく、そのまま電話させていただいた。いま、命を絶とうとしている人の方を優先。もしかすると、一刻一秒を争うかも知れないし。それにしても、癌という恐ろしい病気と闘う人を応援するご奉公もあれば、自分から命を絶ちたいという人を押し止めるご奉公もある。それが同時にあるというのは何とも複雑だ。
そのお電話が終わると、もう新幹線の時間。全く和長さんとお話しできなかった。この自殺の予告メールの件については淳慧師にご奉公していただいて、完全対応。すぐに、その方の家まで飛んでくれた。ありがたい。すごい、地球防衛軍は。
そして、玄関先で写真を撮るのを忘れていたので、素敵な和長さんと音美さんご夫婦をパチリと写した。元気そう。帽子、似合うよ、和長さん。
慌ただしいご奉公で申し訳ない。ブログの更新もままならぬ。
でも、本当に有難かった。これからもご祈願を続けます。頑張ろうね、和長さん、音美さん。
2007年12月8日土曜日
John Winston Ono Lennon
実は、最近毎年オノ・ヨーコさんが提唱してライブが開催されている。今年は12月8日の命日に開催されることになった。この「Dream Power ジョン・レノンスーパー・ライヴ」は、ジョンが歌った音楽を中心に、ジョンが残したメッセージ、愛と平和のスピリットを受け継ぎ、それを次の世代に伝えていこうとするイベント。コンサートの売上は、アジア、アフリカの子どもたちの学校建設資金になるという。
そう、このブログでも何度か書いてきたが、私はジョンが大好きだ。といっても、私からするとジョンは何世代も前の人。だから、実は最初彼の音楽に惹かれたというよりも、最初から違う角度から彼に惹かれていったのだった。
ラジオやテレビで彼の曲を何度か耳にしていて、どこか心に残っていた。先輩に教えてもらって聞いたこともあった。しかし、それはそれで、そのままに終わっていた。幼かった自分にとって、ビートルズもイーグルスも、いやモンキーズも、大した違いがあるように思えなかった。しかも、英語力が全くなかったのだから、歌詞の意味も分からなくて、日本の歌の方が親しめた。そういう音楽センスしか持ち合わせていなかったのだ。
ところが、ある時「どんな人だったのだろう」と、ふと彼について調べたくなったことがあった。そして、自分なりに色々な本を読み、彼のメッセージや生き様、彼が目指した平和、宗教に向き合う姿勢、宗教(宗教のもたらす弊害)への批判と希望について知るようになって、「何てスゴイ人だったのだろう」と感銘したのだ。
今日は、その彼の祥月命日。Yaccoさんはジョンの映画のチケットを2枚もプレゼントしてくれた。ありがやい。Yaccoさんもジョンを心から敬愛している。明日はヨーコさんが舞台挨拶するステージにも行くそうである。
その映画は、「PEACE BED ~アメリカ vs ジョン・レノン~ 」というもので、彼の端的なメッセージ「もし変えようと思うなら。本当に変えようと思うなら。世界は変えられる。」とチケットに寄せられている。もう、今なお語り継がれる彼の表現者としての強いメッセージは、羨ましい気持ちすらする。是非、横浜か京都で時間をつくって観に行きたい。
2005年、私はロスからアメリカを横断してニューヨークにたどり着いた。そして、真っ先にセントラルパークの西側にあるダゴダハウスを訪れた。1980年12月8日に、ジョンが凶弾に倒れた場所である。私たちは、このアメリカ横断の途中で、キング牧師の暗殺されたロレイン・モーテルを訪れ、JFKの暗殺されたダラスを訪れ、ワシントンではJFKの墓地にも寄った。暗殺という恐ろしい凶行が、何ものにも代え難い命を奪い、人類がより良く変革を遂げてゆく可能性まで奪ってしまうことを思い知った。
ガンジーは、悪しき者は必ず負けると語った。真実は負けたことがないと言うのだ。彼の身近にいる者が反論した。「何を言うんです。歴史を振り返れば、邪な人間や勢力が勝っているではないですか」と。すると、ガンジーは答えたという。「そのようにお前たちが言っていることを聞いても、悪が負けているという証明だ。悪は、必ず悪であることを世に知られ、真実は必ず真実であること知られる」
時間軸をもっと永くすれば、真実は勝ち、悪は負けるということだろうか。そう、ガンジーの言葉というよりも、ブッダが示した世の見方、生き方である。
愚かな人間の恐ろしい凶行によって、人類の可能性を引き出せるような、尊い「存在」が失われても、それで尊い存在が悪しき存在や力に負けたということではない。それで全てが終わりということでは決してないものだ。
結局、真実の道を歩もうと、他の者を思いやり、平和を希求し、恐れもせずに努力して生きてゆくという「生き様」があれば、その「生き様」は永遠に「生き続ける」ということだろう。本当の命は死なない、いや実はさらに輝きを増すのだ。
開導聖人は、「辛抱せよ まことはつひに あらはれん しれずにしまふ 悪はなき世に」と御教歌にお示しくださっている。真実は真実。必ず顕れる、との姿勢が大切。ブレていては仕方がない。
ジョンのことを語っていると朝が来る。明日は朝から新線に乗って移動しなければならない。ジョンの祥月命日に、一言だけのつもりが、少し書きすぎた。
2007年12月7日金曜日
心の中の大掃除
今日から12月の教区御講がスタートした。平成19年の締めくくり。ここから全教区の席主のお宅にお伺いし、御講を奉修する。お看経と御法門。今日は天気も良かったが、お参詣者の顔が明るい。有難いことだ。
実は、妙深寺は寺内だけの変更を行った。通常、宗門の弘通年度は11月で締められ、12月に新弘通年度がスタートする。しかし、これもレベルの高いご信者や役中陣が揃っていれば頭の切り替えも出来るのだろうが、今の妙深寺でそれを理解できる人は少ない。12月が「新弘通年度」、1月が「新年」、4月が「新年度」と。指導がままならず、非常に複雑に受け取られてしまった。そう考えに考えて、12月で締め、1月の元旦をスタートとした。
だから、正真正銘の締めくくりが12月。大いに1年を振り返り、ご信心・ご奉公の面、家庭や社会生活の面に於いても振り返ってお懺悔をさせていただく。「心の中の大掃除」をして、越年迎春を期していただきたい。
写真は12月2日の朝の横浜。本当に朝焼けが綺麗だ。
2007年12月3日月曜日
堀田さんのご信心
2007年12月2日日曜日
トルンに感激! 小栗久美子さんの演奏会
『本当の宝物』 高祖会の御法門
百本祈願のススメ
この『流れ』は『カルマ』『業』と呼ばれるものである。それは、『動き』の積み重ねから生まれる。『動き』は降り続ける雨の一滴のようなものだ。人間は一日だけで八億四千万回以上もの『動き』を為すと考えられるが、それが降り続いて、上流で小さな川となり、河口では大河となって流れ出る。
過去世からこの一生に至るまで、連綿と積み重ねてきた『動き』が自分の『カルマ』『流れ』となる。いま悪いことが続くのもサインの一つ。病気もサインの一つ。その奥に根本的な何かがあると考える。そこが最も大切な部分なのである。
好ましくないサインが出たら、『流れ』を変える努力をすべきだ。簡単な工事で川の流れは変えられない。より上流に立ち返ったり、もっと大規模に、もっと本格的に取り組んだりしなければ『流れ』は変わらない。
大きな動き、尊い動きによって、『流れ』はより良く変わる。その『動き』が『御題目を唱える』ということであり、それは私たちの『動き』に『御題目を添える』ということであろう。無為に過ごす一瞬一瞬の動きを、最も尊い動き、『カルマ』の因である『御題目』にしてしまうことによって、悪い流れは大きく変わってゆく。
十一月の冒頭、妙深寺の本堂で百本祈願が始まった。「百本祈願」とは、一本四〇分~一時間も点るお線香を百本あげさせていただき、その間、御題目をお唱えし続けること。その百本祈願は、小泉氏が始めたのだった。
小泉氏は、ご信心をするようになって今年で七年目。といっても、本当にご信心の有難さを実感したのは二年ほど前。以来、開門参詣を通じて御利益を実感し、多くの方々にご信心の素晴らしさを伝え、お教化は二十戸以上にもなった。
その彼が十一月初頭、仕事上のトラブルにぶつかった。ここでは内容を記せないが、会社の経営が頓挫するような事態だった。当然、出来得る手を全て打ち尽くして、その上で彼は私に言った。
「今回、これまで引きずっていた自分の悪い面を教えていただいた。だから、これで会社が倒産しても仕方ないと思っています。ただ、自分の失敗で御法さまやご信心に傷が付いたら申し訳が立たない。それだけが苦しい。仕事の上では出来ることを全てしたので、後は御法さまにお任せする。ついては、今まで聞いていた『百本祈願』をさせていただきたい」
深夜の電話。翌日の朝六時過ぎ、小泉氏は妙深寺にお参詣していた。私は、百本と御礼の一本のお線香、合計百一本のお線香を彼に渡した。彼はその朝から百本祈願を始めた。究極の『百本祈願』は三日四晩でするという。私も百本祈願は一度しかしたことがない。
今回の百本祈願は、十四日間を期限として始められた。その日は朝参詣に引き続いて高祖会の会議があった。小泉の様子を見ようと会議の途中で本堂に行ってみると、彼が私の顔を見つけて小躍りして来てくれた。何とアメリカ側からメールが入り、問題が解決したという。わずか四本目にして現証の御利益をいただいたというのだ。
私の方が驚いていたのだが、
「こんなに早く現証をいただいて申し訳ない。御法さまとのお約束ですから、百本祈願を続けさせていただきます」
と申し出て、そのまま終日お看経を続けた。以来、出勤前にお寺で三本、会社からお寺にお参詣して七本、仕事が立て込んでいる日は三本しかできないこともあったが、最大で一日二十二本ものお看経をあげさせていただいてカバーをし、十二日間で百本祈願を成就した。これには本当に頭の下がる思いがした。並大抵の覚悟ではない。
小泉氏の百本祈願中、私も少しお助行させていただいた。深夜の三時過ぎ、本堂内は壮絶だった。眠気と戦い、身体を叩きながらのお看経。ここまで御題目をお唱えした者にしか分からない妙味を、じっくりと味わっていた。この間、彼は三戸のお教化を成就していた。
開導聖人の御教歌に、
『だいもくは千遍よりは万遍と 唱へかさねて妙をしる也』
とある。御題目は唱え重ねてこそその妙不可思議な味わいを知る。ご信者といえども名前ばかりで、御宝前にはご挨拶しかしていない、御題目をお唱えしても数分だけ、ということでは「妙を知らない」ということになる。勿体ない。
御指南に、
『口唱の秘訣。百遍は百遍の信心、千遍は千遍の信心也。口唱怠れば罪滅の道ふさがりなん。高祖曰く、声も惜しまず南無妙法蓮華経』
とあることを思えば、ご信心とは結局どれだけ御題目を唱え重ねているかということであると分かる。
信心を『急』にすれば、大きな願いも『急』に成就する。下記の御指南を吟味していただきたい。
『此の御経に云く、法師品、須臾聞之(しゅゆもんし)即得究竟(そくとくくきょう)とあれば、須臾(しばらく)もこれを聞けば、即ち菩提を成ずる、此れ御経の力なれば、一遍、二遍、乃至五遍、十遍と唱ふるに従ひ、もし病者を祈らば、祈りはじむるより其の病者の罪障消滅して、一遍二遍と漸々(ぜんぜん)に唱ふるに従い、苦悩をやすめて安楽に趣(おもむ)く道理顕然也。
もし唱ふるに、よくもならず、悪しくもならぬならば、御経むなしきに似たり。さることわり(理)あることなし。玉をみがくにいまだ光見えずとも漸々(ぜんぜん)とすれば終に光を発するに至る。井を掘るに、はじめ水なけれども、泥土(でいど)にいたりて水の近きを知るがごとし。水迄の土の厚さには、高原あれば平地あり。罪障の厚薄なり。
されば、祈りてしるしなきは、受くる者の疑心の隔(へだ)つるなり。沓(くつ)をへだてて、かゆきを掻くが如し。病者かくの如し。我が身の罪障を祈らんにも一遍の題目もむなしからぬは、須臾聞之(しゅゆもんし)即得究竟(そくとくくきょう)の御文にて知られたり。
かくのごとく思い定めて、行住坐臥に自他をえらまず口唱すべし。大いなる願はおそくなるべし。されど、信行もし急なれば急に成就すべし。
ただし、弘通を忘れたる願ひは経の御意(みこころ)にあらず。されば、弘通の志(こころざし)だにあらば、口唱するに利益を受けむこと決定(けつじょう)なり。顕に利益を見んと思はん人も、罪障の滅するいとまを待つべし。中途にして怠ることなかれ』
(以下、ブログにのみ口語訳を掲載する。『法師功徳品には、須臾もこれを聞かば、即ち究竟を得ると説かれている。これはほんの少しの間でも法華経を聞くならば、その功徳は成仏に当たるほどのものだと経力の偉大なることを言われた御文である。して見れば、聞くだけでなく信じて唱える功徳はどれほどのものだろう。一遍、二遍、、、、五遍十遍と唱え重ねるところに、病者を祈れば、唱える数に従って漸々に苦しみや辛さを鎮め、安楽に赴く道理である。
唱え重ねて少しの変化もないということは断じてない。たとえば、玉を磨くに、はじめは光沢は見えずとも、度重ねるに従って終に燦然と輝くに到る。井戸を掘るのでも、始めは水は出なくても、泥土を見るに到って、水は近いと知るようなものである。高原と低地では大地の厚みが違うが、地下水は必ず流れているのである。罪障の厚薄はあっても、いつか必ず御利益に達するのである。
この故に、いくら祈っても験(しるし)のない時は、靴の上から掻くように受ける者の疑心が障壁を為していると断ずる他はない。これは病気の方の例を挙げたまでである。
すべて我が身の罪障消滅を祈って諸願を成ずる場合、一遍の御題目口唱の功徳も、虚しくないということは、先ほどの須臾聞之の経文で明らかであろう。
このように思い定めて、如何なる時でも口唱するのが良いのである。大きな御祈願であれば遅くなるけれども、信行がもし急ならば、この常識を破って大きな願も速やかに成就するだろう。
ただし、ご弘通の思いを忘れた人の願いというのは御経の御意に適わない。だから、ご弘通の思いがある人の、ご弘通のための願いであれば、口唱するに願いが叶い、御利益を受けることは決まり切ったこととなる。
しかし、いずれにしても、めざましい御利益を見ようとする者は、見えざる罪障消滅の暇(時間)を待つが良い。途中で止めてはならぬ、中絶して怠ってはならない』)
いま、妙深寺は百本祈願ブーム。
『妙深寺報』 12月号
しかし、今月の寺報の出来には満足。表紙には毎年の越年迎春の模様を捉えた写真を使い、裏表紙は七五三で見られた子どもたちの顔、顔、顔。笑顔が溢れている。内容も高祖会の特集記事で、冒頭に小林御導師の御法門を掲載させていただいた。また、光薫寺の方々からいただいた信行体験談も掲載し、その高祖会の感動を教区御講で語ってくださった方々の声も掲載させていただいた。
毎月、産みの苦しみはあるが、50年後の人たちにまで届ける、届けたいと思って寺報の編集作業に当たっている。というのは、はるか60年近く前に、この横浜妙深寺から日博上人が発刊していた『一実』誌は、今でも私たちの重要なテキストになっているからだ。発刊から50年以上経っても、若い私たちが読み返し、ご弘通の息吹を感じられる誌面。すごいなぁ、と思う。だから、難しい読み物よりも、生きた、生の、ドキュメントの、息吹、息づかいが伝わるように、何とか編集したいと思っている。そう、50年後に、妙深寺や本門佛立宗を背負う若者たちが見てくれているかもしれないのだから。
顔写真もたくさん掲載しているので、この七五三の写真に載っている人も楽しんでみてくれないだろうか。50年後は7歳の子も57歳かぁ。「あら、あたしが写ってる」と楽しんでみてくれないだろうか。そうしたら、自分の写真を見ながら掲載されている御法門や巻頭言、体験談も読んでくれるかもしれない。とにかく、今の時代に生きている人だけではなく、50年後の方々のご信心が、少しでも前に進むのであれば嬉しい。そういう意識は、「モノづくり」をする人にとって大切だと思う。
12月は師匠も走る「師走」。今日は14時から年に一度の壮年会の御講が奉修された。いま、久しぶりに教務室のPCの前にゆっくり座ることができた。
これから、寺報に掲載された文章などを整理して、更新できなかった分をブログに載せようと思う。