先日、私たちがスリランカから帰国した翌日に、NHKで放送されていたスリランカの番組は、世界遺産に登録されている仏歯寺についてのものだった。その番組では、この仏歯寺で起きた不幸で恐ろしい自爆テロのことや、そこに生きるシンハラ人(仏教徒)とタミール人(ヒンドゥー教徒)の生活を紹介していた。
そう、コロンボにもタミールの方々は融和して生活している。キャンディより北部の地域でも、シンハラ人は融和して生活している。ごく一部の民族主義者が、それらの対立や相克を煽っているだけだ。先日来、スリランカ政府のLTTE(タミル・イーラム解放の虎)に対する強硬な政策と攻撃についてインド南部各州でデモが起き、インド政府が懸念を表明した。その理由も分かる。しかし、事実を尊重した歴史的な認識から本質的な解決策を見出さなければ政治ではない。人のための平和ではなく、平和のための人と考えて、政治家や公務員が役割を果たさなければ問題は大きくなる一方だと思う。日本も、同じような問題が起きているが。
しかし、インドこそ、テロの恐怖に怯えている。現在のインドは、非常にヒンドゥー・ナショナリズムが高まりを見せている。仏教発祥の地であるインドがそのようになることは望ましくないが、事実そうなってしまっている。彼らが、北はカシミール、南はスリランカと対峙して、イスラムや仏教と向き合う時、奇妙に高揚したナショナリズムに火が付かないように祈る。元来、仏教徒は平和主義を貫いてきたのに、今のスリランカ政府は暴力的だという批判も相次いでいる。それを聞く時、私はインドのナーランダ大学の遺構で聞いたガイドさんの話を思い出す。「仏教徒は平和主義だから、この国はイスラムによって滅びたのです」
私たちは、「仏教」と言っている。しかし、日本仏教の中を見ていて、私は多くの仏教教団は「仏教」と言いつつ「ブッダ」の存在を軽視していると思う。実在のブッダ。その存在を、余りに軽視している。そもそも、インドから日本までの距離的・時間的な隔絶が、そういう一種偏った感覚を生み出してしまったのだろうか。とにかく、「ブッダ」よりも「開祖」「教祖」であり、それらが説いた「仏」「菩薩」等なのである。
私たちがスリランカでご奉公していて痛感するのは、HBS(本門佛立宗)は、あくまで「ブッダ」なのである。ブッダを身近に感じる、ブッダの息吹を感じる、ブッダを敬い、ブッダに従い、ブッダに近づこうとしている。実際、よくよく日本仏教を観てみると、この当たり前のような「仏教徒」としての本質から外れていることもある。ブッダから、遠い。
「善男子。自ら我れ道場、菩提樹下に端坐すること六年にして、阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たり。佛眼を以て一切諸法を観ずるに、宣説すべからず。所以はいかん。諸の衆生の性欲不同なることを知れり。性欲不同なれば種種に法を説きき。種種に法を説くこと方便力を以てす。四十餘年に未だ眞實を顕さず。(善男子。我先道場。菩提樹下。端坐六年。得成阿耨多羅三藐三菩提。以佛眼觀。一切諸法。不可宣説。所以者何。知諸衆生。性欲不同。性欲不同。種種説法。種種説法。以方便力。四十餘年。未顯眞實。)」
数え切れない程の経文。その中に説かれるところの諸仏、諸尊。ブッダの真意を知らずにいれば、ブッダご自身の教説から外れ、方便の中の諸仏・諸尊を敬う流儀が生まれてしまう。私たちは、あくまでもブッダに対する敬いを大切にし、法華経本門八品に説かれたブッダの御本意をいただいている。それは、上行菩薩所伝の御題目に極まり、私たちはブッダの魂、存在そのもの御題目を通じて実感させていただくことが出来る。パーリ語経典などの研究面だけではなく、スリランカという古からの仏教国の、現場で、こうしたことを俯瞰的に実感できることが、有難い。
私たちが、「本門佛立宗」と宗名を掲げているのは、まさにそのことを明確に示している。「法華経本門に説かれた久遠本仏(ブッダ)の立てられた宗旨」という意味である。日蓮門下では、お祖師さま(日蓮聖人)を敬う余り日蓮聖人こそ本仏であるという説が出たり、お祖師さまを行者の一人として下してしまうこともあり、正しくブッダとお祖師さまの関係をいただけていない。本門佛立宗が、スリランカで「ブッダの建立した宗旨」としてご弘通ご奉公ができているのには、これらに代表される深い理由がある。
この仏歯寺も、ブッダの本物の犬歯(仏歯)が奉納されているとする寺院。約4世紀、インドのオリッサ州カリンガの王子が頭髪の中に隠してセイロンにもたらしたと言われている。当初はアヌラダープラに奉納されたが、遷都に伴い1590年、このキャンディに仏歯は移され、この寺院が建立された。スリランカでは、この仏歯のある場所が都であり、この仏歯こそ王権の象徴なのである。それほど、スリランカの人々は仏歯を国をあげて敬ってきた。
マガダ国王の女子らは、釈尊の死を知って、クシナガラのマッラ族に使いを出した。「釈尊は王族(クシャトリヤ族)であり、われらも王族である。われらも釈尊の遺骨の分配を受ける資格がある。私たちは釈尊の尊師の遺骨をおさめるストゥーパ(舎利塔)を作り、祭祀を行うでしょう」と言った。
またヴェーサーリーのリッチャヴィ族、カピラヴァットゥのシャカ族、アッラカッパのブリ族、ラーマ村のコーリャ族、ヴェータディーパの或るバラモン、パーヴァーのマッラ族も釈尊がクシナーラーで亡くなったということを聞いて、使者を遣わし、遺骨を請求した。
ところが、マッラ族は、「尊師はわれらの村の野でお亡くなりになった。われらはブッダの遺骨の一部分も与えない」と言った。
このようにクシナーラのマッラ族が各国の使者の申し入れを拒否したため、あたりは険悪な空気に包まれた。その気配を察知したドーナというバラモンは、一同をとりなそうとして、次のように言った。
わが提言に 諸君よ
耳傾けよ みほとけは
忍耐説きし ひとなれば
無上の人の 遺骨とて
そをめぐりつつ 争うを
いかでか義しと 言うを得ん
みなで仲よく 諸君よ
八つに等しく 相分けて
各自一つを 持てばよし
各地に塔の 建たれなば
浄らの信心 具眼者に
懐けるひとは 世に満てん
人々はドーナの提案を受け入れ、彼の手により遺骨は均等に八つに分配された。残った瓶はドーナ自身が受け取った。その後、ピッパラーヤナというバラモン学生も遺骨の引渡しを申し入れたが、分配された後だったため、荼毘を行った時に残った灰のみを受け取った。
これにより、最初の八つの部族はそれぞれ仏舎利塔をつくり、ドーナは瓶塔、ピッパラーヤナは灰塔をつくって供養を営んだとされている。
ただ、『大パリニッバーナ経』諸本最後には次の詩があり、以上の記述とは異なっているという。
眼ある人の遺骨は八斛ある。
七斛はインドで供養される。
最上の人の他の一斛は、ラーマ村で諸々の竜王が供養する。
一つの歯は三十三天で供養され、
また一つの歯はガンダーラ市で供養される。
また一つの歯はカリンガ王の国において供養される。
また一つの歯を諸々の竜王が供養している。
その威光によってこの豊かな大地は、
最上の供養物をもって飾られているのである。
このように、この眼ある人(ブッダ)の遺骨は、
よく崇敬され、種々にいともよく崇敬されている。
天王・諸々の竜王・人王に供養され、
最上の人々によってこのように供養されている。
合掌して、かれを礼拝せよ。
げにブッダは百劫にも会うこと難し。
これだけ長い文章を書いたら、ほとんどここまで読んでくれている人はいないと思うが、私たちは、本物の仏教徒として、世界でご弘通させていただけることを誇りに思う。単に、何となく結びついている「仏教徒としての交流」ではなく、本当に、根底で、結びつける「教え」を持っており、法華経の教えだけが多様に受け取られたブッダの教えを一つに結びつけてくださると確信している。これを『従多帰一』の教えという。この尊い教えを、正しく受け継いでいるのはHBSだけであるから、ご弘通ご奉公がさせていただける。インドからスリランカや各国へ伝わった仏教。タクラマカン砂漠を越えて、中国、そして時を経て極東の島国、日本へ。そこから先は、また長くなるから止めよう。
『サッダルマ・プンダリーキャ・スートラ(妙法蓮華経)』でブッダが使命を与えられたとおり、「ヴィシシュタ・チャーリトラ(上行菩薩)」はお祖師さまとして、確かに末法にご出現になり、御題目をお授けくださった。その御題目を以て、私たちは世界に「仏教」をお届けしている。
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