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2009年2月19日木曜日

お坊さんは嫌い?

 ある人からメールをいただいた。お坊さんの悪口を言われて気分が悪くなった、と。しかし、よく考えてみると自分もお坊さんは嫌いなので、「僕もお坊さんは嫌いです」と書いたら、「嫌いというのはいけません」と返信があった。なるほど。
 確かに、「嫌い」という言葉や意識はよくない。自分では、世界で最も素晴らしい「仕事(こう言っていいか分からないが)」が「佛弟子」「僧侶」「お坊さん」であると思っている。その思いが強くあり過ぎて「嫌い」という言葉になってしまったのかもしれない。本当に、世間の人が考えるのとは真逆で、プロスポーツマンよりも、会社の社長よりも、華やかな世界で活躍するプロデューサーよりも、「お坊さんは格好良い!」と思っているから。しかし、それは理想論だ。「嫌い」というのはよくないと言われても、それも一面きれい事で、しっかりと自分の言うべき事、守るべきものに対しては、ただ単純に受け入れることが良いろはいえない。
 いつも言っているが、万人は救いたいが、残念ながら万人は救えない。父の愛と母の愛に違いがあるように、時に厳しい眼で果たすべき使命や役割を考えてみることも必要だ。特定の「お坊さん」を名指しして「嫌い!」と言っているのではなく、自分も含めて「僧侶」「お坊さん」の現実を見てみると「嫌い」と言いたくなる。なぜか。それは、私たちがモノを売っていないからである。私たちは「佛の教え」を説かせていただいて生きている。その「教え」「生き方」が何でも良いはずがなく、理想と現実の中で圧倒的に「お坊さん」は分が悪い。世間の人に「くそ坊主」と言われても、「生臭坊主」「坊主丸儲け」と言われても仕方ないところもある。
 いや、お坊さんも頑張っている、良い人もいる、と言われても、いろいろな定規を当てて考えてなければ、やはり的を得ないと思う。すべてを愛して、争いもなく、と仏教の大原則である平和主義は、消極的なものではないと思う。本物の仏教者は、積極的平和主義であり、しっかりと線引きしないと。
 御仏は、様々な経典の中で、佛弟子への注意を喚起している。まず、一番心に置かなければならないのは、仁王経の「護三宝者転更滅破三宝、如師子身中虫自食師子非外道」という文で、「外道や悪人は如来の正法を破り難い。しかし、外道には破られなくても、佛弟子等が必ず佛法を破る。獅子の体内に寄生して、ついには獅子を死に至らせる虫のように」というもの。仏教は究極の教え、世の中や人々の心の闇を照らすもので、それは「外道」、つまり仏教以外の宗教には破ることの出来ない教え。
 しかし、残念ながらそれを壊してしまうのは「佛弟子」、つまり「お坊さん」ということだ。有名な「師子身中の虫の師子を食む」とは、現代では組織などの内部にいながら害をなす者や、恩をあだで返す者を言うが、元来は佛弟子でありながら仏法に害をなす者を言った。お坊さん自身が佛の教えを破って、それで平気になることを指す。
 お坊さんの中にも、必死で生きている人、修行に励む人、それぞれにいて尊重すべきだと思う。しかし、これも「教」「行」「証」で冷静に分別して、①その信じる道が佛の教えに適っているか、②その行っていることが自己満足で完結していないか、③実際にその人によって救われている人がいるか、というチェックも必要だと思う。一つでも欠けていたら、ちょっと残念なことになるはずだ。
 死んで、閻魔様の前に行って、「お前は真面目に頑張ってたけど、仏さまの教えていることからズレてたね。残念!」とは言われたくない。まして、自己満足の修行者ならば、イスラムの戒律を守って修行しているムスリムや修道院でマリアに貞節を捧げた尼僧などの足下にも及ばないのではないか。正法正信、正法邪信、邪法正信、邪法邪信という定規も必要だと思う。「サッダルマ(正法)」を求めることと、正しくサッダルマに沿って生きていくことの、指標になるような生き方を、お坊さんができればいい。
 別の御経には、お坊さんが正法正信(正法を正しく信じる)でない場合は、「食法餓鬼」となると説かれている。
 「食法餓鬼と申は、出家となりて佛法を弘むる人、我は法を説けば、人尊敬するなんど思ひて、名聞名利の心を以て人にすぐれんと思て今生をわたり、衆生をたすけず、父母をすくふべき心もなき人を、食法餓鬼とて法をくらう餓鬼と申なり。当世の僧を見るに、人にかくして我一人ばかり供養をうくる人もあり、是は狗犬の僧と涅槃経に見えたり。是は未来には牛頭と云ふ鬼となるべし。又人にしらせて供養をうくるとも、欲心に住して人に施す事なき人もあり。これは未来には馬頭と云ふ鬼となり候。」
「悪象等に於ては畏るゝ心なかれ、悪知識に於ては畏るゝ心をなせ。何を以ての故に、悪象は但身をやぶり意をやぶらず、悪知識は二共にやぶる故に。此悪象等は但一身をやぶる。悪知識は無量の身、無量の意をやぶる。悪象等は但不浄の臭き身をやぶる。悪知識は浄身及び浄心をやぶる。悪象は但肉身をやぶる。悪知識は法身をやぶる。悪象の為にころされては三悪に至らず。悪知識の為に殺されたるは必ず三悪に至る。此悪象は但身の為のあだ也。悪知識は善法の為にあだ也」
 自分への自戒と反省もこめて。

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