御教歌
「心より 我身にひゞき わが身より 家国あめが したにひゞけり」
門祖会御法門 住職
◆現代に活かす立正安国論
ありがとうございます。平成二十一年の門祖会を奉修させていただきました。本年は、立正安国論上奏七五〇年のご正当年と掲げてスタートいたしました。この立正安国論、いまビデオでもご覧いただき、去年の高祖会からご披露を続けておりますので、少しずつお分かりいただけていると思います。 なんでこんなに自然界の調和が乱れて、国や世界も混乱して、人々の心も苦しんだり悩んだり、そういうことが増していってるんだろうか、と。そういうことに対して、お祖師さまが、み仏の教えの中から答を導いて明らかにしてくださったのが「立正安国論」です。その七五〇年前と、今、私たちを取り囲む世界の状況が、本当に似通っているのではないか。
オーストラリアではまだ山火事が燃え続けているようです。四十七度の熱波が襲っている。経済的には百年に一度と叫ばれるほどの危機。中国では六十年に一度といわれる干ばつ。何十年に、何百年に一回と言われるような状況が、今年、私たちの身近な暮らしに迫り、現実に起こっている。 「古い話だ。七五〇年前? へぇ、あっそ」という話ではない。そこで明らかにされた仏教の真髄、お祖師さまのみ意を、少しでも学んで、皆さんの人生、生き方に取り入れるべきではないか。そうすれば、厳しい、数百年に一度の危機にも対処できる。乗り越えられる。
今日の御法門は「現代に活かす立正安国論」というテーマで拝見させていただきます。結局、お祖師さまは「立正安国論」の中で何を説かれたのか。それは、今日の御教歌にお示しのように「あなたの心次第ですよ」ということです。自分の健康も、家族の幸せも、周りの人の幸せも、国や社会の平和や安穏も全部、自分の心次第ということです。一見「そんなの当たり前」と思われるかもしれませんが、世の中を見ると、この喉から出るほど欲しい幸せが得られずに、苦しんでるのが人間なんです。全て自分の心次第。その心の在り方、生き方を説いてくだされたのがみ仏の教え、仏教、お祖師さまの教え。このことを厳しい社会で生きる皆さまにお分かりいただきたい。
◆立正安国論の位置づけ
日本史の中でも最も偉大な僧侶、日蓮聖人。そのお祖師さまが書き残されたお手紙や書物は、数百以上が遺されています。中でも、この文応元年(1261)、39才の時に書かれた「立正安国論」は、一般的に「三大部」、主要三つの代表作の一つ、という大変重要な位置づけをされています。 「立正安国」ということについて、開導聖人は古からの注釈を引かれて、
「正を立てて邪を破り、国の危うきを変えて安寧と為す」
という意味であるとお示しです。「国」は、今やグローバル社会ですから「世界」「社会」ということです。さらに詳しく拝見すると、「国家、まさに亡びんと、所謂危急存亡の秋也」とあります。国がまさに滅びようとした時、危急存亡の時に著されたのが、この「立正安国論」である、と。
さてこの現代。冒頭にもお話したように、七五〇年前の古い話、では済ませないほど、不思議な符合があります。あんまり言い過ぎたらいけないけれど、三災七難、余りに符合している。そういう世界や国の情勢や、私たちの置かれてる状況、心が酷似してる中で、この御法門をいただきたい。
◆本物の仏教・仏法
よく、「佛立宗のご信心は、何かあるたびにいつも『南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経』って、何を言っても『南無妙法蓮華経』しか出てこない、薄っぺらいなぁ」なんて声も…(笑)。まあ、あります。
でも、これは大間違いです。まず、このご信心、南無妙法蓮華経の御題目は、み仏のすべてのお悟り、功徳、智慧、力、教理教則が込められた、万能薬、仏教の究極のしずく、根本の功徳の種、そこに宇宙の真理、法則がある。御題目の背景に、すべての仏教、仏法があります。
このことを、世の中の情勢に照らして、はっきりと説き明かしてくだされたのが、「立正安国論」なのです。そこに、仏教の宇宙観、幸福論、平和論、すべてが示されています。
「仏教」と言っても耳慣れてしまって、そこらじゅうにあると思っている。しかし、「本物の仏教」というものにはなかなか出会えないし、本物の「ブディズム」「仏法」はなかなか聴けません。本屋さんに行ったら仏教の本がたくさん並んでる、仏閣も軒を連ねてる。お坊さんも要らないぐらいいる(笑)。でも、それは全部、偏っていたり、完全に間違っていたり、ほんの一部、一面だったりする。それでは、誰も幸せになれません。これは仏教の創始者である仏さまにとっても不本意なことです。
誰もが幸せになれる教えなのに、本当の仏教・仏法は無くなっています。立正安国論に説かれたのは、本物の仏教なのです。
◆仏教の大原則「心こそ」
まず、なぜ仏教が天下、国家のことを説くのか。なぜ鎌倉幕府に出さなければならなかったのか。それは、そこに仏さまが説かれた教えの大原則があるからです。それは、「自分が世界であり、世界が自分だ」ということです。マクロとミクロは一体。自分が曲がれば社会、世界、自然界が曲がってゆく。自分の心が正しければ、世界も正しくなる。これこそ、仏教の大原則、立正安国論の根底に流れる真理です。
みんな、恐ろしいほど、悩み、苦しみ、迷いを抱えて生きています。その苦しみの原因、平和が壊れる、幸せな気持ちが壊れる、人生が悪循環に陥る原因と、そこから抜け出す方法、生き方を、仏さまは説かれたのです。 自分が世界で、世界が自分。この「心」が乱れているから自分も壊れ、周りの人も傷ついていき、国も世界も、自然界まで調和を失っていく。だからまず「心」をなんとかしなければならない、と。
◆立正安国論、三つのポイント
立正安国論でお祖師さまがお説きになったのは、大きく分けると三つのポイントです。
一つめは、心が曲がる、間違った教え、邪な教え、宗教、あるいは理屈、理論、考え方にとらわれていてはいけない。国も世界も、あなた自身も調和を失っているのは、間違ったことに執着してるからである。まず、そこから離れなければならない、ということ。
第二が、では、心を正しく導く、信じるに値するものは何か。それは正しい仏法。正法を心に収め、信じよ、と。人間が作った理屈ではなく、仏の教え、正しい教えに依らなければダメ。正しい教えとは何か。それこそが法華経本門の教え、南無妙法蓮華経の仏教である、ということ。
三番目は、自分だけ良ければいいのではない。慈悲の心を育むのが仏教の究極の目的。だから、自分だけではなく、他の人の心も正しく導けるように努力しなさい。苦しんだり病気だったり迷ったりしてる人のために、間違ったものを信じ、執着している人の心に「正しい法」を届けなさい。その人のために祈り、お折伏をし、お教化しなさい。この三つなんです。
◆「お折伏」への誤解
よく、「日蓮聖人は、他宗の開祖の悪口ばかりを言う」という人がいます。「仏教はみんなお友達」「平和主義」「信仰は自由」「他人は他人」「他の宗教の悪口を言うのは良くない」と。
確かに、立正安国論には、浄土宗をはじめ、他の仏教諸宗に寄らず、法華経本門の教え、正法・南無妙法蓮華経、その信心一筋にせよと説かれている。間違った宗教、考え方に固執していてはいけない、と。そこに執着して、こっちもいい、あっちでもいいとしているから、人も国も曲がっていく、間違う、と。
しかし、これをストレートにお伝えすると、また「偏屈だ」「偏ってる」「狭い」と誤解されてしまう。でも考えていただきたい。お祖師さまは、自分の発明で、単純に批判したのでありません。悪口などではもちろんない。これは「仏教」なんです。仏教の大原則です。
◆ダルマ・アダルマ・サッダルマ
そもそも仏教とは何か。二五〇〇年以上前に、ブッダは確かにインドで生まれました。
そのブッダは、人々が間違った観念に捕らわれて、間違ったものを信じて、間違ったものに執着しているから苦しみ続ける。迷い続ける。そして、そこから離れよ、と仰った。
当時のインドは、哲学も、宗教も信仰も、ある意味では科学も大変に栄えていました。ヒンドゥー文化、ヴェーダ、ウパニシャッド。 しかし、人々は今と変わらない。争い、苦しみ、迷い、無常の中で生きることにさまよっている。自分の運命、自分の身分、社会の構造、世界の在り方に苦しんでた。その中で、み仏は八十年、生きられ、ご奉公された。
そうした世の中、人々をご覧になって、ブッダが説かれたのは、大きく分けると「ダルマ」「アダルマ」「サッダルマ」の三つでした。
この三つは、段階的に考えなければなりません。まず「ダルマ」というのは宇宙の法則のことです。生きるべき道、本来の道徳というものです。
そして、「アダルマ」というのは「非ダルマ」。「非」というのは、つまり、その「ダルマ」、因果の道理から外れたものです。まず、人々が迷信を信じているようではダルマではない、と説かれた。迷信。宇宙の真理に外れてる、それでは幸せになれないと説かれた。
当時からインドにはカースト制度がありました。ブッダはこれも「アダルマ」だと痛烈に批判しました。あるいは、大変なヨガ行者やバラモン、ヒンドゥーの修行者もたくさんいましたが、「これらの教えることもダルマではない」と説き続けておられます。
また、一神教の掲げるような、創造主、全知全能の神をもつ信仰はダルマの本質から外れていると説かれました。同じように動物の生け贄とか、屠殺とか、そうする供儀信仰もダルマではない、アダルマである、と。
今は心霊写真や霊媒じみたことが流行しておりますが、霊媒や占い、呪術、或いは方位方角を気にするというのも、ダルマではないと仰った。このような考えに心を奪われ、支配され、頼ったり、執着して、「ああ、どうしたらいいんだろう。あの人に聞かなきゃ」というようなことでは、結局ずっと迷いを深めてる。当時、み仏はバラモンの説くヴェーダ思想やウパニシャッド、思想や土着の信仰、考え方が人々を迷わせ、間違った信仰や理念理屈が、人と世を燃やし、混乱させ、不幸にしてる、束縛してると説かれたのです。
そこから自由になれ、自由にならないともったいない。「ダルマ」とは、そのアダルマから離れて、因果の道理に基づいて、人のせいにはできない、全部自分が蒔いた種なんだ、人間として当たり前の生き方を実践する道を説かれました。それができるようでできない。アダルマから離れて、本当に心が真っ直ぐになって、変な観念、妄想に捕らわれること無く自由に生きてゆけ、と。これは仏教の大原則です。 最後の最も大切な「サッダルマ」というのは、ブッダの教えの核心です。究極の、たった一つの法、正法。その正法を心の柱として、その種を心に修めて生きていきなさい、と。ダルマ、アダルマではまだ理屈です。そうではなく、核心を柱とせよ。そこにあなた自身、人間本来の穏やかさ、自由さ、清々しさが取り戻せる。人と人、国と国、世界、平和と安穏がもたらされる、まずあなたの心に正法を立てて解き放て、と。
インドのサンスクリット語で法華経のことを、「サッダルマ・プンダリーキャ・スートラ」といいます。既に法華経の原典から「サッダルマ」…ただ一つの正しい法と呼ばれている。冠についてる。結論を先に言えば、このことを理解して、「あぁ法華経こそ正しい法なのだ」といただくのが仏教。このダルマ、アダルマ、サッダルマを理解し、信じ、心の柱として、本当に心を正して自由に生きていくことが仏教なのです。
◆仏教の混乱の原因
ブッダはブッダの説かれたダルマと世間にあるアダルマの違いを説き、そしてサッダルマを説かれましたが、残念ながら今度は仏教の中に「アダルマ」が生じました。
長い時間の中で、仏教の中でもダルマとアダルマとサッダルマがグチャグチャに混同されてしまうようになった。仏教の看板を掲げていながら、ブッダ当時の「非ダルマ」と同じようなことになった。方位方角を言う、単純な厄払い、あるいは霊媒、占い、迷信のようなことを教える。儀典祭礼のための宗教になることや僧侶が特権的になるのも本来のダルマでもない、アダルマではないか。 仏教の中でも、仏教・仏法が無くなってしまった。その時代がきた。それが末法です。その中で説かれたのが立正安国論なのです。「サッダルマが無くなってくる」と。
元来、法華経は私たちと深い縁があります。西暦五百年代、日本に最初に到達したお経の一つが法華経といわれています。また、諸説ある聖徳太子によって六一五年に著されたものとして、法華経解説の書、「法華義疏」があります。現在、この書は天皇家の御物として現存し、日本最古の書物とされています。この一事を考えても、私たちにとって大変な縁が「サッダルマ・プンダリーキャ・スートラ」「法華経」にはあります。
その後、五百年代の飛鳥(大和)時代、奈良時代、平安時代の末まで段階的にさまざまなお経が日本に入ってきました。段階的にというのは、たとえば、最澄・伝教大師が中国から帰ってきた後に、空海・弘法大師が新しいお経持って帰ってきたり。結局、最後までお経が整わず、それを全て拝見する素養の者がいなければ、何が一体正しいのか判断できない。鎌倉時代に入って、全てのお経が整い、それを学ぶ場所も整った。時代は貴族の仏教から一般庶民に開かれていく。しかし、その中で、法然、親鸞、栄西、道元、一遍。ある者は「阿弥陀経が大事だ」、ある者は、「いや禅だ」、ある者は「これのが簡単だ」、「それは難しい」と。それぞれが教えを立てていった。
「いや、そうではない」と仰ったのがお祖師さま、日蓮聖人。「サッダルマ・プンダリーキャ・スートラ」「法華経」こそ、「正法」だ。何を遠回りしている、自説を展開している、と。日本に最初に入ってきた法華経、ご縁も深く、諸経の王といわれる法華経。他の経典と比べられるものではない。そこに立ちかえろう、なぜ混乱している。正しい法から外れて、仏教の中ですら間違ったものを信じて、それに追従して生きて、迷って。まさに末法ではないか。この故に、人と人との関係も、この世の中も自然との関係も、調和を失い、悪循環を続けている。古代からの迷信、邪教、妄想、供儀、呪術を破ったみ仏なのに、今や仏教の中でも同じように迷って間違っている。迷信だとか、あるいは一神教や呪術に近いようなことを信じてたら、人間が幸せになれるわけなんてない。まず、心を「ダルマ」「アダルマ」、特に「サッダルマ」、「南無妙法蓮華経」の教えに沿って生きてゆくべきなのだ、と。そうでなければ人も国も、平和や安穏が訪れるわけはない。それが仏教の核心です。
別の御教歌に、
「宗々の 祖師に愚かはあるまいと いうて仏によらぬ信心」
とある。「まさか、これだけ歴史的な、立派な宗派の開祖さまに愚かな人なんていないだろう」と言って、何より肝心な仏さま、仏教を忘れている。それがいまの日本、末法の人々だ、と。それではダメ。
み仏ご自身も予言されており、仁王経には「護三宝者転更滅破三宝、如師子身中虫自食師子非外道」と「外道(仏教以外の教えを説く者)や悪人は如来の正法を破り難い。しかし、外道には破られなくても、佛弟子等が必ず佛法を破ってしまうだろう。獅子の体内に寄生して、ついには獅子を死に至らせる虫のように」と説かれている。真実の仏教は、仏教以外の宗教では破れない。しかし、み仏ご自身が「私の弟子が破ってしまうだろう」と仰っています。「獅子身中の虫、獅子をはむが如く」とは、元々仏教用語でした。
つまり、お祖師さまの痛烈な他宗への批判は自説を展開されたわけではありません。ただ、仏の正しい教えによって人々の心を正しくしていかなければ、あなたも、家族も、国も、世界も良くならないということを説かれた。これは、仏陀そのものの教えなのです。
◆立正安国論の実践
とにかく、立正安国論三つのポイントを実践していくこと。間違った迷信、邪教、アダルマへの執着から離れ、正しい仏の教え、法華経の教え、南無妙法蓮華経に寄り添いなさい。この御題目を心に収め、御題目によって心を正しなさい。そして、慈悲の実践。この教え、御題目を以て苦しんでる人、迷い悩んでる人に寄り添い、菩薩行を実践しなさい。心が間違ったものに執着しているから迷いが晴れない。方位方角がどうのとか、大殺界だとか、これが好きアレが好きと言っているから悪循環が続く。それを止める、改めさせる、菩薩行、折伏行を実践しなさい。
自分が世界であり、世界が自分である。この真理に従い、立正安国論の実践を心がける。同御書には、
「国を失ひ家を滅せば何れの所に世を遁れん。汝須く一身の安堵を思はゞ、先づ四表の静謐を祷るべき者歟」
とあります。まず、「心」を正すこと。それが自分自身、周りの人々、そして世のため。しかし、単に「一身の安堵」を求めて、自分だけよければいいとして末法の恐ろしい波に怯えて部屋に閉じこもっていてもダメです。自分は世界、世界は自分という真理の「実践」は、立正安国論の第三番目のポイントにある。「四表の静謐」とは「世界の安穏」「世の中の平和」です。
み仏の有名な言葉に、「泣きながらでも良いことをしなさい」とあります。「良いこと」とは単にダルマに従って生きるだけではなく、慈悲の実践を指します。「ダルマに沿う」と言っても自己満足では仏法から外れる、しかも幸せにはならない。平和も安穏もない。
どうしても「もうちょっとズルくやった方がいい」「お前が出て行く幕ではない」となってしまう。それではだめで、「泣きながらでも、菩薩行をさせていただこう」と生きなければならない。イヤだと思っても、自分がいい種まきをしなかったら、幸せにはなれない。いま不幸なのは誰のせいでもない、自分の蒔いた種。とにかく、厳しい時代、末法悪世の中で慈悲の菩薩行、折伏行をさせていただく。これが立正安国の実践。
「心より我身にひゞきわが身より 家国あめが したにひゞけり」
もし、あなたの心がアダルマから離れて、本当にただ一つに、サッダルマ、正法、南無妙法蓮華経になって、慈悲の実践ができれば、必ず幸せになる。あなたの体の健康、家族の穏やかな暮らし、この社会、この国の安穏、平和ももたらされる。それは、あなたの心から、世界に広がっていく。
国がダメだ、首相がダメだ、政治家、財界人、上司、部下、家族、何もかもダメだ、と言っているのではなく、まず自分の心を正す。そして、間違ったものにとらわれている人々の心も正し照らしてあげる。それが立正安国論の心です。
自分の心がいつもイライラしていてどうしようもない、もう悔しくて、憎くて、苦しくて、家族が問題を抱えていて夫婦で怨み合ってる、罵り合ってる、会社が厳しい、友人関係が壊れている、トラブルだらけだ。しかし、そういう時だからこそ、変な考え方を捨てて、正法について、慈悲を実践しなさい。三ポイントの実践をやっていきなさいということです。
◆むすび
いま、この法要でも「謗法・罪障消滅」と御宝前に言上いたしました。この「謗法」というのは、「正法…サッダルマ」から離れて、変なもの、間違ったものにずっととらわれてきたものから離れます、離れさせてくださいというお願いです。そこから離れて、御題目の種をいただいて、幸せの種まきをして、自分も、周りも、家族も、世界も幸せになっていきますように、というお願いなのです。
ですから、私たちは毎日御題目を唱えて、自己満足で完結しない、自分も、周りの人も、間違った信仰、間違った考え方にとらわれず、生きていけるように、と教えていただく。
単純に悪口をいってるんじゃないんです。皆さんの批判をしてるんじゃない。科学とも対立するものでもない。まず心を正すこと、それだけです。
お祖師さまは立正安国論の結びに、次のようにお諭しです。
「汝、早く信仰の寸心を改めて、速やかに実乗の一善に帰せよ」
「汝」…あなた、一刻も早く信仰の寸心、あなたの信心のあり方、心のあり方、こだわっていたものを改め、速やかに正法に帰りなさい。 「現代に活かす立正安国論」とは、今まで間違ったものにとらわれていた心を解き放って、正しい仏の教えに従うということ。自分が世界であり、世界が自分。まず、あなたの心から。必ず大混乱の社会の中でも、お見守りとお導き、苦難もチャンスにできる。
どうか一つ、今日のこの日を機会に、信仰の寸心を改め、心を正す、心を御題目で満たせてもらおう、それができたら必ず、お見守り、御利益をいただく。
今から御題目を一緒にお唱えしますが、いろいろなものにこだわっていた心が、御題目をいただいてスーッと軽くなるような、そういう御題目を一緒に唱えていただき、我も唱え、人にも唱えさせる菩薩行に進み出せますように。全てはあなたの心次第。かようにお示しの御教歌でございます。
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