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2009年6月30日火曜日

6月の終わり

 今日で6月も終わり。寂しい気持ちもする。
 明日から7月。準備に追われる。寺報、役中テキスト、月始総講の御法門。それぞれ、大切なご奉公ばかりで、立正安国論上奏750年御正当月にふさわしく、いつも以上に充実してスタートを切らせていただきたい。
 昨日は徹夜がたたって20時頃に寝てしまったのだが、緊急連絡によって1時くらいに起きた。フッと目が覚めた時に携帯電話をチェックしてみると、着信、伝言、留守番電話、メールがたくさん。「そわっ、何かあった!」と飛び起きて、電話連絡などをしていた。いろいろなことがあって、大切な連絡とご奉公で、2時過ぎまで電話していたかな。それから、役中テキストの原稿、御法門。
 明日、10時から月始総講。ジトジトした雨が続いているし、これからは本格的な夏がやってくるが、元気に、本当に充実した夏を過ごすためにも、スタートからしっかりとお参詣、お看経、御法門聴聞させていただいて、おはからいを実感していただきたい。
 寺報、楽しみに。また、最高傑作。

2009年6月28日日曜日

口唱即観心本尊

「問。何故ニ初心ノ行者ニハ御利生速ナルヤ。答。初心ハ教相シラズ。観心堪ズ。開会読誦スル由ナシ。六ヶ敷キ御法門聞イテ心ニ覚エル力ナシ。
唯、堪タル処トハ口ニ任セテ南無妙法蓮華経ト唱ル斗也。
門祖曰。末代相応ノ観心ノ本尊ト者、上行所伝ノ南無妙法蓮華経也。口唱の音声即事三千ノ観心也。御題目即観心ノ本尊也。行者己心也。三毒ノ凡夫ガ、カウデアラウカ、アヽデアラウカナド心デ分別工夫スル口唱ノ南無妙法蓮華経ヲ、行者己心ノ本尊トハ云ハズ。親タリ佛勅ヲ蒙ラセ給ヒタル蓮師所伝ノ御題目ノ音即観心也。故ニ無智宗也。初心ノ功徳広大也。」

「末代ノ我等ハシル程間違ヒ甚シ。故ニ知ラヌヲ本門の直機ト云也。私ノ思慮分別ヲ捨テ我唱フル音声ヲ本尊トセヨト也。ソレヲ教ヘタル七字也。故ニ生身ノ釈尊也。蓮師ノ御神ヒ也。行者ノ己心也。故ニ口唱ノ中ヨリ御利生ノ顕レテ信者ヲ助ケ守ラセ給フ也。故ニ題目宗也。口唱宗也。サレバ六ヶ敷法門スルハ佛祖ノ御慈悲ニ背ケル謗法也。末代ノ物識ケノ塵芥学者ノ唱フル題目ヲ本尊トハ云ハズ。末代初心ノ無味口唱ノ思慮分別ニヨゴレヌ口唱即観心本尊也。小児ノ乳ヲノム位也。」

7月18日、19日は妙深寺の開導会

 妙深寺本堂の外壁工事が、ほぼ完成した。漆黒というか、創建当時の色であるダークブラウンへ。先住日爽上人が日晨上人 に何度もお伺いを立てながら建設された本堂。この改装なった本堂を遠くから見て、一人悦に入っている。
 先日は本堂の階段裏に昇降機も取り付けられた。まず最初に乗ってみた。ウィ~ン、ウィ~ン。ゆっくりと、本堂の地階から玄関ホール一階、さらに本堂のある二階へ。エレベーターは付けられなかったが、これで車イスの方をご案内したいと思う。
 境内地を囲む外壁も塗装が完了。しっくい塗りで、これも綺麗なブラウンに合わせた。すてきだ。前に広がる築山も施設部の方々が汗だくで剪定してくださった。これも、綺麗。さるすべり、しだれ梅、松など、見事に手入れをしてくださった。ありがたい。7月18日、19日の開導会を目指して、寺内の清掃や整備が進んでいる。
 今月から隣接する山林を横浜市からお借りすることができた。奥山次長の功績大。もう本当にありがたい。これは妙深寺にとって画期的なことだ。今後、もっと妙深寺の森で子どもたちが遊べるようになるだろう。それだけではなく、何より駐車スペースが約20台分くらい出来る。局長と一緒に喜んでいる。
 第二本堂の前の外壁も綺麗に塗り直された。さらに、開導会を目指してロビーの整理や壁紙のリニューアルを行いたいと考えている。ちょっと長年の荷物が置いてあり、カラオケの機械もあったりして雑然としていた。整理をしないと。
 そして、もう一度。平成21年7月18日(土)、19日(日)には、妙深寺に於いて佛立開導日扇聖人の祥月ご命日に併せて「開導会」を奉修させていただく。妙深寺の全てのご信者、妙深寺にお参詣された縁のある方々にお参詣いただき、盛大に奉修させていただきたいと考えている。万難を排して、とにかくお参詣されたし。お参詣しないということは大恩ある開導聖人に対して極めて不義理。そうならないよう、遠くだろうと、予定があろうと、何とか家族を連れ、友人を連れ、お参詣いただきたい。
 昨年は、ブラジル本門佛立宗開教100周年、ブラジル日系移民100周年を記念してコレイア御導師に御唱導をいただいた。海外の御導師にお会式で御導師していただいたことは、史上初といわれた。今年は、そのブラジル100周年記念団参にご一緒させていただき、そのご弘通への情熱と強いご信心に感銘を受けた大阪・良風寺ご高職、藤本日修御導師に御唱導の栄を賜ることとなった。ありがたい。お忙しい中、無理に、無理をお願いした。本当に、今回は勉強させていただきたい。
 本年の開導会は、7月16日の御正当日に近いことから「立正安国論上奏750年御正当日・報恩記念大会」とし、テーマを「知る、見る、体験する。現証の御利益!」とさせていただいた。良風寺は妙深寺よりもご信者数は少ないが、宗門の報告を見させていただくと(局長が調べてくださった)妙深寺の倍ものお教化、お助行をされている。計算すると、一人当たり妙深寺の4倍のご奉公をされているということになる。これは、すごい。ブラジルでお聞きしたお話などでも、とにかく佛立信心の真骨頂、「御題目口唱」と、そこからいただく「現証の御利益」をお寺の柱としてご奉公されている。私たちが今回学ばせていただきたいのはここだ、と感得して、無理をお願いした。
 お祖師さまの立正安国論のご上奏も、その御折伏によって現証が顕れ、その現証を以て本化上行菩薩としての御自覚にいたられた。口唱、折伏、経力、現証の筋。この筋を、初心であろうと、長く信心していようと、大切に、しっかりと守り、実践してゆかなければならない。そのことを、今一度、開導会で教えていただきたい。
 いま苦しい、悩んでいる、お願いがある、何とかしていただきたい、自分では何ともならない、という方々がたくさんいる。この、私たち凡夫のお願いを御本尊さまに向けていただきたい。苦しみ、悩んでいる人に、現証の御利益をいただいてほしい。そのために、御題目を、深く、強く、お唱えしていただきたい。
 今日は、開導会の人事打ち合わせ会議。みなさんが10時からガラスの間に集まり、開導会のご奉公体制について話し合いをさせていただいている。御導師の御到着時間や団参の方々の動静、妙深寺の各教区からご奉公していただける方々をリストアップしていく。本当に、ご信者方の手による、ご信者方のためのご奉公が開導会なのである。
 いいご奉公になりますように。とにかく、是非ともお参詣を。妙深寺は、さらに工夫をこらして報恩ご奉公を進めようとしている。

2009年6月26日金曜日

ブスの25箇条

 あまり簡単にブログにコメントを書くべきではないのかな?新幹線の中でブログを書いていたのだが、感じたままを書いていると誤解を与えてしまうことが多い。

 それでも、難しいことを書くよりは、感じたままを書いた方が反響がある。ちょっと難しいことを書くと、古い友人などからは「難しすぎる」と酷評される。「写真しか見てないよー」と言われてしまう。こまったものだ。前回の「格好悪い奴」というタイトルで書いた記事については、少なからず反響があった。とても良い反応もいただいたが、ちょっと心配かけてしまってるのかな、と反省。
 いただいたメールの最後に、「P.S 最近 誰かに対しての 怒りが、ものすご~く(@_@;) 感じられますが・・・・・・・・・」とあった。あれ?そうかなぁ、誰かに対しての怒り、いやいや、そんなないです(汗)。すいません。
 最近の記事、ちょっと怒り、たまってるように見えるかな?う~ん、そういえばそうかな。いかん、いかん、それは、いかん。確かに、もっともっとご弘通させていただかなければ、という思いは強い。それに比例して、ご弘通を心に懸けていないような人や出来事、あるいはご弘通にマイナスになるような出来事があったり、それが本門佛立宗の私たちの中に見えると、怒ってるかな。未熟…。それ以外は、あまりない。「格好悪い奴」にも「敵を愛せない奴」と、書いたのに、それじゃいけませんね。いかん、いかん。
 でも、よーく考えても、怒ってること、あまり、ない。あとは、いつもどおり、「ありがたい!」「ありがたい!」と叫んでる。
 それよりも、この方からのメールに面白い写真があった。それは、どうやらトイレに貼ってあったらしい標語のようなもの。お姉さんが妹に読ませたくて、トイレに貼ったらしい(笑)。もう、爆笑してしまった。「こんなものがあるんだぁ」と、もう感動(笑)。以下、ちょっと書き写してみた。
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「☆ブスの25箇条☆」
宝塚歌劇の舞台裏に貼ってある(らしい)「戒め」を借用しました。
1.笑顔がない
2.お礼を言わない
3.おいしいと言わない
4.精気がない
5.自信がない
6.グチをこぼす
7.希望や信念がない
8.いつも周囲が悪いと思っている
9.自分がブスであることを知らない
10.声が小さくいじけている
11.何でもないことにキズつく
12.他人にシットする
13.目が輝いていない
14.いつも口がへの字の形をしている
15.責任転嫁がうまい
16.他人をうらむ
17.悲観的に物事を考える
18.問題意識を持っていない
19.他人につくさない
20.他人を信じない
21.人生においても仕事においても意欲がない
22.謙虚さがなくゴウマンである
23.人のアドバイスや忠告を受け入れない
24.自分が最も正しいと信じている
25.存在自体が周囲を暗くする
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 すごい。これ、すごい(笑)。これ、本当に、すごい(笑)。だって、「格好悪い奴」で書いたこと、ほとんど網羅されている。さすが、宝塚。そりゃ、すごいわ。 
 大前研一さんの「ザ・プロフェッショナル」に書いてあったような難しい言葉ではないが、人生を生きていく上でも仕事をしていく上でも、示唆に富んでいる。分かりやすい。しかも、タイトルが宝塚チックで、たのもしい。「ブスの25箇条」とは(汗)。大丈夫かな。
 プロフェッショナルについての大前氏のコメントも心に残る。ご弘通のプロフェッショナルも、こうでなければならないと思って、目標にしなければならないと思っていた。もちろん、「顧客」などという言葉は、「ご信者さん」にしなければならないと思うが、何とか目標にして、そこに近づきたいと思う。
『プロフェッショナルは感情をコントロールし、理性で行動する人です。専門性の高い知識とスキル、高い倫理観はもとより、例外なき顧客第一主義、あくなき好奇心と向上心、そして厳格な規律。これらをもれなく兼ね備えた人材を、私はプロフェッショナルと呼びたい。厳しすぎるでしょうか。私はそうは思いません。まだ足りないと思っているくらいです…』
 すごい。『まだ足りないと思っているくらいです』というところが、すごい。佛立教務は、素人であること、三毒強盛の凡夫であることを深く自覚した上で、「プロフェッショナル」を目指したい。いわゆる、鼻持ちならない、プロらしいプロはいらないと思う。
 ところで、「ブスの25箇条」をインターネットで検索していたところ、「美しさの25箇条」なるものも発見した。ありがたい。それによると、
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「美しさの25箇条」
1.笑顔を心掛けよう
2.親切ににしてもらったらお礼を言おう
3.ご馳走してもらったら、おいしかった、ご馳走様と言おう
4.生き生きと生きていこう
5.自分を信じて自信をもとう
6.グチはこぼさない
7.希望や信念をもとう
8.周囲が悪いと思う前に、自分の落ち度を考えよう
9.人のことをブスだと思わない
10.明るく喋るように心掛けよう
11.キズついても視点を変えて、なんでもないことであり、気のせいだと考えよう
12.他人にシットしない
13.なにかに興味や関心をもってみよう
14.不平不満をもつ前に、いいところを見るように心がけよう
15.責任転嫁はしない
16.人と自分を比べずうらやまない
17.悲観的に物事を考えないようにしよう
18.問題意識をもつようにしよう
19.理解する努力をし、思いやりをもとう
20.人を信じよう
21.なんでもいいから意欲をもとう
22.謙虚になろう
23.人のアドバイスや忠告は宝です
24.自分が一番正しいと思う前に、いろいろな考え方があることを知ろう
25.これらを実践して、楽しく生きよう
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 すばらしい。新幹線で書いた「格好悪い奴」より勉強になる。さすが。でも、美しくなるのは、難しいだろう。だから、こういうのは、トイレに貼っておくくらい、毎回見ないといけないのかも。

2009年6月24日水曜日

格好悪い奴

 「格好悪い奴」などというと、こんなタイトルを付ける神経を疑われるかもしれないが、若い頃から自分の中に、こういうテーマがある。
 父は、いつも「侠気(男気)を育てろ」と言っていたし、「格好良いか」「格好悪いか」という言葉を使いながら、上手に馬鹿な息子を育てようとしていたのだと思う。もちろん、その基準とは、表面の「格好よさ」ではない。内面、いや内面じゃないな。行動、アクション、生き方、生き様、所作振舞、全部を含めて、そこから外れていると「今のお前は格好悪い」「男らしくない」「情けない」と叱られていたように思う。
 だから、今でも自分の中にはそんな言葉がこだましている。私の場合、あまり「格好をつけよう」とは思わない。ただ、「格好悪い奴にはなりたくない」という意識は強いと思う。というわけで、朝から、このようなタイトルで、自分は何を格好悪いと思ってるのかな、と考えていた。

格好悪い奴。
・根性のない奴
・口先だけの奴
・親の七光りで偉そうにしてる奴
・使い終わったおしぼりをグチャグチャに置く奴
・いざという時、逃げる奴。ビビる奴。
・単なる「いい人」は「どーでもいい人」
・上に媚びて、下に偉そうに言う奴
・業者さんなどが来ると突然偉そうにする奴
・単なる評論家
・おこぼれを待ってる奴
・良いトコ取りだけする奴
・暗い
・自慢話ばかりする奴
・失敗談を話せない奴
・愚癡っぽい奴
・陰口を言う奴(目の前で言えない奴)
・悪口を言う奴(目の前で言えない奴)
・冷めてる奴
・くさい
・友だちのために人肌脱げない奴
・かしそこうに見せようとしている奴
・内股
・義を曲げる
・地位をかさに着る奴
・縁故に弱い奴
・おそい
・感情で動く奴
・ゴマをすられるとブレる奴。
・敵を愛せない奴
・ケンカに弱い
・ネチネチしてる奴
・エラソーな奴
・ドジ
・いつも誰かのせいにする奴
・歌の下手な奴
・お金にものを言わせる奴
・馬鹿ができない奴
・ケチ
・他人のふんどしで相撲を取る奴
・カゲ勉
・裏や陰で、コソコソやってる奴
・人の顔色ばかり見てる奴
・最後に良いこと言おうとして黙ってる奴
・髪の毛、中途半端に長い奴
・友だちの少ない奴
・クチャクチャ音を立てて食べる奴
・弱い者に当たる奴
・慈悲がない
・愛がない
・海嫌い
・結局、なにもしない奴
・とにかくヤな奴
 もちろん、自分が「格好悪い奴」に成り下がっている時もある。そういう時は「これじゃ格好悪い!」と父を思い返して、立て直しに努める。そう、あまり他人に当てはめるものじゃないと思うが。
 それでも、やっぱり「この人、格好悪いなぁ」と思うこともある。地位が上がって突然えらそうに喋ってる奴や自惚れてる人を見て、「オイオイ」と思ってしまう。いつも若いお弟子には、教務が勘違いすると、本当はモテてないのに、自分だけ「俺は女性にモテてる」と思い込んでる格好悪い奴みたいだから、調子に乗るな、と言っている(笑)。
 ご信者さんは、いつも丁寧にお給仕してくださる。だから、下手に勘違いする者は、「俺ってイケテル」と自惚れやすい。ここが落とし穴。変な言い方だが、「御法さま=お袈裟を敬ってくださっている」と思っておくことだと思う。「自分」じゃない。まだまだ、まだまだ、と思っておかないと、「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」と、自分の「格好悪さ」で御法さまにまで傷を付けてしまうことになる。
 人それぞれ。確かに、本人は格好良いと思っているから、そういう生き方や所作振舞をしているのかもしれない。しかし、外から見ると滑稽に映ることが多い。自分で自分のことは見えないから、滑稽に、格好悪いままになってしまう。幸い、自分はまだ父から「お前、それを格好良いと思ってるのか。アホか。お前は本当に格好悪い」と言われているようで、ビクビクしてる面もある。馬鹿な自分にはそんなのがちょうどいい。

2009年6月23日火曜日

イタリアからの手紙

 うう、う(涙)、う(涙)、うううう(涙)。ありがたい。
 なんと、有難いか。誕生寺のご奉公に引き続き、もう(涙)、止まらんわ。
 イタリアからの手紙、本当に、涙が出るほど、うれしかった。ダニエレ・良誓師からの手紙は、本当に、イタリアの方々が喜んでご奉公しているということが書かれてあった。福岡御導師が行かれた中で、みんなで和気藹々の御講が勤められたこと。そして、日頃から、学徒になられたミルト(りょうせん師)をはじめ、ティッツィアーノやエンリーカ、アントニアやレンツォ、サンドラ等々、本当に異体同心でご奉公されていると教えてくださっていた。
 特に、伸子ちゃん(涙)。伸子ちゃんが、どれほどイタリアのご奉公で大切な役割を果たしているか、良誓師がメールに書いておられた。イタリアの文化を理解し、イタリア人を理解してご奉公してくれる伸子ちゃんが、本当に大切な役割を果たしてくれていますって。
 もう、本当に、ありがたい。伸子ちゃんからもメールをいただき、彼女は、一つ一つの言葉を、丁寧に、丁寧につづっておられて、イタリアでご信心に出会えたこと、イタリアのご信者の皆さんが、どれほど一生懸命にご奉公されているかということ、謙虚に、そして温かく、ご奉公に前向きに向き合ってくださっていることを、ひしひしと、メールから感じさせていただいた。もう、拝見していて、胸がグッと、グッと、締め付けられるように、感激した。
 今日は、佛立研究所のご奉公もあったのだが、この伸子ちゃんのメールを読み返していて、胸がいっぱい。あぁ、こうして、ご奉公されている方々がいる、こんなにも素敵に…、あぁ、ありがたい、と思って、一人嬉しくなっていた。
 あぁ、ありがたい。世界中どこでも、こうありたい。

2009年6月22日月曜日

誕生寺のこどもお会式

 昨日は、誕生寺での「こどもお会式」。本当に、素晴らしいご奉公をされていて、心から感動した。

 私は、その中で講演のご奉公を依頼されていたのだが、私の話など必要ないと思えるほど、ご奉公をされている方々の思いが詰まっており、涙が出そうになった。横浜から京都の誕生寺までお参詣した妙深寺のご信者さんも、本当に感動していた。
 分かりやすい言上文、丁寧な司会、それも青年会の方々の掛け合いで、明るく、楽しく、本当に丁寧なご奉公だった。司会者のシナリオも、とても考えられていた。妙深寺でもお会式ごとに杉崎さんがシナリオを作っている。その苦労を知っているから、本当に「スゴイ!」と感心した。参詣者に分かりやすく妙講一座のプリントを配っているのも妙深寺と同じだった。
 教養会全体、寿会も、壮年会も、婦人会も、代表者が誓願を言上されていたが、その見守る側の会の代表者が、「私たちが彼らをサポートします」「いいお寺の雰囲気作りのために頑張ります」「しっかり、声をかけてゆきます」と声高らかに誓願されていたのにも感激。「そこまでやるかー」と、このご奉公の細部にまで配慮していることが感じられて、頭の下がる思いでいた。
 一つ一つにテーマが浸透していた。「一器の水を一器にうつすが如く」。お寺の中を飾るモニュメント、ポスターからチラシに至るまで、このテーマが貫かれていた。中でも圧巻だったのは、光る水が本堂内の天井を走り、お祖父さん世代からお父さん世代、そして子どもたちへと流れていくアトラクション。これは、本当に綺麗で、みんながうっとり。すごかったなぁ。写真、上手に撮れなかった。
 100キロで走る車にはねられ、生死の境をさまよった修平くん。そこから青年会のお助行がはじまり、その輪がお寺全体に広がり、起死回生のおはからいをいただいた。本人の涙ながらの感謝の言葉、みんなからの励まし、そして感謝の言葉。全員の御利益感得。瀕死の状態からの、御利益をいただいてのお寺参詣。彼はいま、薫化会の会長として元気にご奉公されている。本当に、すばらしい。
 これは、明子ちゃんがすごかったんだなぁ。分かる。最初に、歩き出すのは、本当に大変なことだ。お寺でも何でも、今までのやり方でいいじゃないか、という雰囲気がある。理解してもらうことも難しい。そこには、獣道すらない。でも、苦労して、苦労して、最初の一歩を踏み出し、そこを歩き始めると、たくさんの人が後に付いてきてくださる。獣道は、小さな道になり、そこを歩く人が増え始めて、大きな道になっていく。法灯相続のために、何とか新しいご奉公を生みだそうと苦労した分、本当に「妙深寺も負けた」と思うくらい、素晴らしいご奉公をされていた。ありがたい。
 でも、これからが勝負。ここからが本番。寝ている子を起こしてしまったかもしれないから、それに耐えうるご奉公をしてゆかなければ、本当のご弘通にもならないし、法灯相続もできなくなってしまうから。
 私はといえば、時間も押していたし、もう持ち上げられて、はしごを外された状態で、まいった。感動して、「もー、話すことないなー」と思っていたので。でも、何とかここまでご奉公をやり遂げた明子ちゃんを応援したくて、「カチッ」とスイッチが入って大爆発。そんな感じになってしまった。申し訳ない。
 とにかく、良いご奉公を見せていただいた。将来が楽しみ。未来は明るい。ありがたい。

2009年6月20日土曜日

プロ中のプロたちの翻訳

 何とも有難いことに、妙深寺で翻訳のご奉公がスタートした。

 第二弘通部の海外部を中心に、国際人として活躍する精鋭たちが巻頭言や御法門などを次々に翻訳してくれるとのこと。海外の方を対象として書いているわけではないので申し訳ない気もするが、それでも海外部の会議で巻頭言を厳選し(海外の方々に読んでいただきたいと思われるもの)、翻訳作業に着手してくださった。

 まず、昨日このブログにも掲載した「Don’t Let Your Negative Karma Hinder Your Faith(罪障に負けるな)」をY先生が翻訳してくださり、発表させていただいた。もう、プロ中のプロだから、本当に申し訳ない。それでも、将来米国をはじめ、海外各国での出版も視野にして、博士号請求論文としても完璧な英語ということ。学会で発表しても通用するというのだから、中身はともかく翻訳の精度がすさまじい。

 とにかく、私の完全ブロークンな、いやブロークンというよりもインチキな英語ではどーしよーもない。そもそも、英語は僕にとってはツールでしかないとうそぶいていた。何より、伝えられるだけの「モノ」がなければ仕方がない。しかも、それは「知識」ではなく「信」であり、「信」を説く以上は説く者の「実践」がなければ相手には伝われない。そう思って、生きてきたし、ご奉公させていただいてきた。

 つたない文章だが、精魂込めて書かせていただいたものを、翻訳してくれるなんて、本当に、ありがたい。がんばろ。もっと、がんばろ。

 それにしても、先生、ありがとうございました。真理先生にも、お世話になって、もう感謝の言葉もないです。それにしても、胃カメラの先生は…。ありがたい。

2009年6月19日金曜日

Don’t Let Your Negative Karma Hinder Your Faith

Don’t Let Your Negative Karma Hinder Your Faith
Religious discourse by Seijun NAGAMATSU, head priest of Myoushinji Temple, Honmon Butsuryu Shu (HBS), Yokohama, Japan.
Translated by K. Yamazaki

When we smell danger in the wind, instinct pushes us into a protective posture. Similarly, the world charges toward protectionism when it is trapped in an economic predicament. What concerns us today is how we can protect ourselves against and prepare for the unpredictable; we are too self-centered to look after other people and tend to the needs of other countries.

When the world seems harsh and discomforting, it is because the minds and hearts of the people are harsh and discomforting. It appears as though we are becoming increasingly egotistical, blaming others for all the woes that we experience in our daily lives. We are permitting the occurrence of incidents such as miscommunications and misunderstandings with the people who are closest to us more frequently than ever before. Everyday conversations are often marked by complaints about and criticisms of someone different. Given the current socioeconomic realities of the world, we are encountering more cases like this than ever before, so we must ask ourselves if we are sane to live like this.

One unhappy event can cause people to hold grudges against each other. They ask themselves why this is happening to them without arriving at a convincing answer. They maintain that they have done nothing wrong and ask why they have reached a dead end. Lamenting and pondering why so many outrageous things are happening around us and holding grudges against cold-hearted and uncaring neighbors will inevitably lead us nowhere but to a nervous breakdown. Now is the best time to change and start living the Buddhist way.

People who are unaware of their negative Karma are not Buddhists. Today, the word “Karma” is widespread in Japan, but very few people understand its true meaning. The “mediocre persons” of the Mappo era have long lost this awareness. These people are referred to as “mediocre persons with three poisons” because their lives are heavily influenced by their desires, anger, and lack of enlightenment.

Our past deeds (three forms of Karma, from the body, the mouth, and our emotions, inclusive of our thoughts) do not evaporate in the moment of action. What we have done, what we have said, and what we have thought are all recorded in our soul. Dreadful though it may be, these actions, words, and thoughts are all accumulated in the innermost part of the subconscious and the deeper part of the soul as “seeds.” All of our emotions, words, and actions are planted as seeds in the soil of the deepest strata of our subconscious.

However, we want to know when these seeds will sprout into leaves. This depends on the“weather and environment”, or the conditions in which they grow and the amount of nurturing theyreceive, but there is no denying that our behaviors constitute the seeds.
In Japan, popular contemporary hobbies include gardening and cultivating small family farms. Everybody who has experience in growing flowers and vegetables knows the wonder of seeds. A variety of miniscule seeds that are only a few millimeters in diameter produce a range of flowers and vegetables in the same soil. Because the seeds look alike, very few experts have the ability to distinguish between the tens of thousands of different species contained therein. Once planted, under the proper conditions, seeds never fail to spring forth leaves; without seeds, there can be no buds.

There is a religious poem written by Master Nissen Shonin, the founder of HBS, and it reads as follows:Remember: without seeding, there is no sprouting.Sow the seeds. They will always mature into leaves.

The occurrences that we see every day around us are the results or the buds (effect) of the seeds (cause) that we planted in the past, either immediate or remote. This is what the Law of the Universe is all about. We can also refer to this as the General Law or the Law of Cause and Effect. Buddhists call this 果報 [kahoo] (this literally means “good news,” but it should be understood as “capacity” or “potential”), or 罪障 [zaisho] (negative Karma), or simply カルマ [karuma] (Karma).

We are inclined to think that everything is acceptable as long as it remains masked or unnoticed. On the contrary, each act is documented in the soul as though the seeds are being planted in the soil of the soul day by day, hour by hour, and moment by moment. One of the teachings of the Great Master Nichiren is that we plant seeds 840,000,000 times a day.
Bad seeds give life to bad buds and good seeds, good buds. This is what we call 善因善果・悪因悪果 [zenin zenga, akuin akuga] or “good cause, good effect; bad cause, bad effect.” We should know that self-centered behavior caused by the three poisons translates into bad seeds, which then get planted. The seeds sprout one after another and start swaying our lives in a certain direction. Buddhists should wholeheartedly acknowledge this factual truth.

Sometimes, a succession of negative occurrences in daily life distresses us. All of the inconveniences and hardships that we face certainly have causes. An accident waiting to befall usis surely the result of the seed. This seed was planted by you and nobody else. To live a truly happy life, we should uproot the bad seeds and buds and freshly plant good seeds instead.

Tell a lie and sooner or later, somebody, not necessarily the person who you deceived, will get even with another lie. Strike somebody and sooner or later, you will be hit by somebody who may or may not be the same person who you struck. The same thing can be said for name calling and gossiping. Likewise, a person who acquires money by cheating will eventually be cheated out of money by somebody else.

Preaching about ethics and codes of conduct is not necessarily the most significant part of Buddha’s teachings. Buddhists know that teachings such as “do a good thing” and “do not do a bad thing” are not effective enough to change people. This may be the case because the so-called mediocre persons of the Mappo era are often overwhelmed by their deep desires; their bad deeds outnumber their good deeds. Such people waste their lives in this way, as they are perpetually stuck in the vicious cycle.

It is essential to know what is important in life. The reason why we remain unhappy and full of anxiety is because we do not recognize the cause and effect relationships of the events that unfold in front of us. In short, we do not see the true nature. The idea that the individual is responsible for the good things, while the people around him or her are to blame for the bad things is utterly incorrect. We must face the truth, and the truth is that you and you alone are accountable for all of the bad things and bad situations that arise. Remember that everything results from the seeds that you have planted. Therefore, be cognizant of the kinds of seeds that you are planting at this moment.

Let us take a look at another religious poem by Nissen Shonin:Seeds matter for all things. Enlightenment can be achievedonly when we plant good seeds of the fine Dharma.
Human beings are creatures that cannot be controlled by the simple moral dichotomy of “good versus evil” that instructs us to undertake good deeds and forsake bad deeds. This is why the great masters of the past have taught us the importance of the action of “planting the best and most excellent seeds.” We are bestowed with the Odaimoku (sacred mantra) of the “cause, essence, and seeds of illumination (or enlightenment).” The fine mantra of Namumyohorengekyo itself constitutes the “seeds of the fine Dharma,” the most precious seeds, the seeds that contain all of Buddha’s virtues.

The “seeds of 本因妙 [honinmyo] (the true and ultimate cause, or the fine Dharma)” lie at the base of all cause-effect relationships. Take a step forward, acknowledge the precious seeds, and start planting the seeds of happiness; then, you will surely have a better future, eliminating your bad Karma and bad buds. Do this and I am certain that your future will be bright. Everything results from the seeds that you plant. Nobody is responsible but you. Thus, you should plant the “seeds of the fine Dharma” so that you can eradicate the bad seeds and buds that you have been accumulating since your remote past.
Buddhism is action. Regretting your past deeds and blaming other people will lead you nowhere. We are so inflexible with and critical of others and yet so easy on ourselves. We can tell other people what to do because we see them from a distance, but we do not know what to do with ourselves because we do not see ourselves. We experience the pitfalls of human relationships this way. We are so sensitive to other people’s deeds and yet so insensitive when it comes to our own actions and words. With a human nature such as this, we often find ourselves in unhappy situations. Therefore, we must be sensitive to our bad Karma and take a step forward to plant new seeds of happiness in our soul. I am certain that if you start to live this way, you will be rewarded with a new, truly happy life. However outrageous the world may be, your destiny and connections will begin to move forward in a positive direction.

Let me cite one more religious poem by Nissen Shonin:Your destiny will turn in a better direction as soon as you have decided to practice faith. The moment when you decide to live with faith and you begin to practice your faith in your daily life will be the moment when you bring luck on your side. However, beware that your bad Karma might hamper your precious first step in that direction.

Never let your negative Karma hinder your faith.

Take a step forward into faith!

2009年6月17日水曜日

せめて、行いを修める

 心には、刹那に、いろいろな思いが湧き起こる。開導聖人は、「一日に八億四千万の念慮起こる」と御指南されている。実に、人間が人間として、人と人との間で生きている以上は、人に接し、情報に接している中で、いろいろな念慮、思いが起こってくるものだ。
 「業(カルマ)」には、「身」「口」「意」という三つが大きく挙げられ、この三つで、自分が幸せにも、不幸にもなると教えていただく。自分が三つの業をつくり、三つの業の報いを受ける。
 真の仏教徒は、いわゆる運命論者ではない。運命とは、天が気まぐれにもたらすものではなくて、過去からの流れ、特に自分自身が主人公となって作ってきた業の結果。お祖師さまは「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ 」と御妙判なされている。つまりは、今は過去に原因があり、未来の結果は現在に原因がある。いま、どうするかだ、ということか。
 その三業の中で、「意(心)」は刹那刹那に、いろいろなことが湧き起こる。凡夫丸出し、三毒(貪欲・瞋恚・愚癡)という「毒」に冒されているのだから、心に湧き起こることは止めどもない。なんともならん。せめて、「身」「口」の「アクション」を、なんとかしようではないか、ということになる。良いアクションを重ねて、悪い原因になるようなアクションは止めようではないか、ということになるはずだ。
 そもそも、「御題目を信じています」というご信者となっても、法華経にあるように「信者であって信者でなし」という落とし穴がある。「十四誹謗」がそれで、お祖師さまは厳しく、出家にも、在家にも、お戒め委なられている。
 お祖師さまは、「悪の因に十四あり、一に慢、二に懈怠、三に計我、四に浅識、五に著欲、六に不解、七に不信、八に顰蹙、九に疑惑、十に誹謗、十一に軽善、十二に憎善、十三に嫉善、十四に恨善なり。此の十四誹謗は在家出家に至るべし」と松野殿御返事にお認めになられた。一つ一つを解説していると大変だが、慢心したり、怠けたり、自分勝手な考え方で教えを判断したり、浅い知識に執着したり、欲望にとらわれたまま、教えを分かろうとしない、正法を信じない、顔をしかめて非難する、疑い迷う、謗る。善を行っている者を、軽蔑し、馬鹿にし、憎み、妬み、恨み、和を乱す。
 この十四条のうち、一の「驕慢」から十の「誹謗」までは、主にご信者さんではない人の「謗法」を指し、十一の「軽善」から最後の「恨善」までの四つは、出家・在家共に信心している者に当たる「謗法」となる。つまり、「善を行っている者を、軽蔑し、馬鹿にし、憎み、妬み、恨み、和を乱す」というところが、御法に出会った者が自ら戒めておかなければならないことなのだ。
 重ねて、お祖師さまは「譬喩品の十四誹謗も不信を以って体と為せり」とお諭しであるから、結局「信じてない」ということが、十四にもわたる「謗法」を冒し、功徳や果報をいただけなくしてしまうのだと教えてくださっている。「信心」は素直正直が一番で、そこから外れたら、落とし穴がたくさんあるように思う。
 つらつら、そう考えていて、せめて、人間は、心は三毒に冒されているからいろいろと巡り巡って、妄想のようなことまで思い浮かぶにしても、「身」と「口」を戒めて、そこに至らないようにすべきだと思う。
 正直でいる人は無敵だ。嘘つきは全部がウソだと思ってしまう。嘘つきが不幸になるのは、他人を信じられなくなることにあると思う。「自分のようにウソをついているはず」と思ってしまうのだろう。おそろしい。ただ、自分が、正直であれば、誤解されても、何を言われても、恐れることはない。
 仏教には、「口」の罪障として、「妄語(もうご)」「綺語(きご)」「悪口(あっく)「両舌(りょうぜつ)」という、口で作ってしまう悪い業が示されている。「妄語」とはウソをつくこと、「綺語」とは言葉を飾って真実を覆い隠すこと、「両舌」とは、あっちでこう言い、こっちでこう言うというように、二枚舌で人を仲たがいさせること。最後の「悪口」は、日常生活の中で陥りやすい人間の悪癖で、罪の意識も薄い。陰口は美味だ。それを言ってないと収まらない、面白くない、酒のつまみには必ずこれを肴にするという人もある。悪口と陰口が自己を肯定し、正統なことを言っていると思い込む。どんな信仰をしていようと、それは「十悪」の中で戒められていることなのに。
 「この世で一番難しいことは自分自身を知ることで、最もたやすいことは人の悪口を言うことだ」
 ドイツの諺らしいが、的を得ている。人間、思いはいろいろと起こる。しかし、せめて、行いは修めたい。特に、「身」と「口」に気をつけて。「行いを修める」と書いて「修行」というのだから。
 正直であれ。

2009年6月15日月曜日

125年と4ヶ月

 昨日は、京都の麩屋町・長松寺の開導会を奉修させていただいた。梅雨の最中にもかかわらず、京都は快晴。しかも、心地良い風が吹いていた。本当に、ありがたかった。
 今年は、開導会に併せて松鶴院さま、長松千鶴子の第27回忌法要を営ませていただいた。私の父の姉。チー姉ちゃん、と呼んで親しまれ、永く麩屋町で日峰上人や小千代お祖母さまをお護りくださった偉大な方。教学院、本山宥清寺教務部の秘書としてもご奉公され、多くの御導師方や御講師方のお世話にも心を尽くされた。
 しかし、当時の話になると、明るく、優しい中でも、お教務さんと対峙して、とても厳しい方だったと聞く。なにせ、チー姉ちゃんは、品尾お祖母ちゃんに仕込まれたのだから、半端じゃない。品尾お祖母ちゃんは開導聖人から手習いを受け、その威厳は宗内に聞こえていた。とにかく、昨日は父の祥月ご命日であるとともに、快晴の下で無事に開導会とチー姉ちゃんのご回向が勤まった。本当に、ありがたかった。
 麩屋町の御館。この6月から計算すると、開導聖人が麩屋町の御館に入られてから125年と4ヶ月。ずっと護持させていただいてきた。開導聖人、品尾お祖母ちゃん、日峰上人、小千代お祖母さま、そして今回ご回向させていただいたチー姉ちゃん。そして、先住日爽上人をはじめ、兄弟姉妹。連綿と、125年間。
 多くの苦難も困難もあり、それらは長松家に言い伝えられている。本当に、護持してゆくことは並大抵ではなかった。そして、この由緒寺院・長松寺は、宗門の、特に本山宥清寺の方々の篤いご信心をいただきながら、125年以上も、そのままの姿で護持されてきたのだ。そのままの姿で遺る由緒寺院は、ほぼ長松寺だけとなった。200年の寺院も、300年、500年の寺院も、こうして護り伝える方々がいなくなったらお終いだ。
 その麩屋町の長松寺を護持させていただかなければならないのが、この若輩なのだから、おそろしい気持ちもする。125年の重荷を背負って、しかも「護持・発展」と言上させていただいている。来年、佛立第二世講有・日聞上人の100御諱を契機として、由緒寺院・長松寺も新たな護持発展のためのご奉公を進めさせていただきたいと思っている。
 ありがたい。一昨日から、学生師たちにも、本当に丁寧なご奉公をいただいた。本山宥清寺のご信者のみなさまにも、多くのお参詣とご奉公をいただき、特に今年は他寺院からのお参詣が宥清寺のお参詣者数を越えた。本当に、ありがたい。
 しかし、肩が痛い。荷が重い。

2009年6月14日日曜日

一万遍口唱会

 土曜日は、横浜・妙深寺で一万遍口唱会が実施された。先住・松風院日爽上人の祥月ご命日(6月14日)の御逮夜に、6時半から12時まで「正法帰入・一万遍口唱会」を開催させていただいた。朝から多くのお参詣者、ありがとうございました。
 先住がご遷化になってから、御10回忌となる。早い。本当に、早いもの。あっという間だった。まだまだ未熟で、自分がさせていただくべきことも出来ておらず、忸怩たる思いもしているが。
 先住は、よく「人間は中継ぎだ」と仰っておられた。何かことを為しても、受け継ぐべき人間がいなければダメだと仰っておられた。また、正しく受け継いでもらえないなら、財産も何も、その人や周りを不幸にするだけで意味はない。ご信心とて同じ。受け継ぐべき人がいなければだめだ。そして、正しく受け継いでもらわなければならない、と。その通りだと思う。噛みしめている。受け継ぐこと。そして、受け継ぎ方。

2009年6月12日金曜日

しかし、シカしかいないな

 奈良。かねてから、お呼びいただき、声をかけていただいていた、奈良にパッと行って、パッと帰ってきた。時間ないから。

 「海外でご弘通するのだから、なお一層日本のことを知らないと」と。「ぜひ、一度奈良に来ていただきたい」とのお言葉をいただき、ずっと行かせていただこうと思っていた。京都でのご奉公、少しだけお許しをいただいて、パッパッと移動、観て、調べて、撮って、帰ってきた感じ。

 仰るとおり。南都六宗。京都平安京以前の都。平城京、せんとくん。まんとくん。あまりに短い時間だったため、東大寺、正倉院、法隆寺しか回れなかった。しかし、日本仏教の歴史、先師聖人が越えられてきた巨大なものを感じさせていただいた。

 中学生の時の修学旅行で学んだつもりでも、いま、こうして観るのとは違う。京都でも、比叡山をはじめ、様々な「仏教文化」を知ることが出来る。高校時代も、身延山などを巡る。でも、今回は少し気持ちを切り替えて、わずかな時間だったが、何かが心に生まれた。

 インドでブッダの足跡を巡り、ラージギルの霊鷲山をはじめ、ナーランダ寺院を観た感動は今でも胸に残っている。スリランカのアヌラダープラのダーガバ、仏歯寺。

 ローマではヴァチカン、サン・ピエトロ大聖堂。フィレンツェでは、サンタ・マリア・デル・フィオーレ。ミラノでもドゥオーモ・デ・ミラノ、パリではノートルダム寺院などなど、考えてみると多くのキリスト教会を見た。エルサレムでも岩のドーム、嘆きの壁、アルアクサー寺院、ベツレヘム、ガリラヤ湖でも、彼の宗教の教会をめぐった。

 本当に、世界中の人に、教えを伝えたい。法華経本門の教え。お祖師さまの御出現、存在の意義。上行菩薩(ヴィシシュタ・チャーリトラ)所伝のマントラ、御題目について。悠久の歴史を越えて、人類の新しいパラダイムを拓くと思う。それが、私たちの背負っており使命だと確信している。と、また、難しいこと書いてしまった。あかんな。

 と、言いつつ。慌ただしく巡りながら、「しかし、シカしかいないなぁ」と、一人でダジャレを言いながら、観ていったのだった。同じようなダジャレを京都では「ちゃうちゃうちゃう?ちゃうちゃうちゃうやん」と言うらしい。つまらないな。

 とにかく、ご弘通のために、また肌で感じさせていただくことができた。前向きに、前向きに、ご弘通に邁進したい。佛立こそ、佛立こそ、と何度も何度も心に期している。本当の仏教を伝えていく使命がある。

2009年6月10日水曜日

Come Rain or Come Shine

 昨日も、一日の間に何種類の資料を作ったやら分からなくなるほど。今朝も朝イチから11時からの総局会議用の差し替え資料を作って送信。

 昨夜は、19時から横浜で事務局運営会議が行われていたので、私は麩屋町からアクセス。そこから22時まで会議でクタクタ。会議が終わっても、次から次に報告事項などを聞いて、終了。

 眼と腕、肩がパンパン。今朝、京都はパラパラと雨の雫が落ちてきた。これから梅雨がはじまるか。ただ、私は雨も、嫌いじゃない。

 子どもの頃、小学校の校庭に流れていた「カメハメハ大王の歌」に「雨が降ったらお休みで~」とあったの、覚えてるかな?なんか、耳に残っていて、雨が降った日の鬱蒼とした気分を明るくしてくれたように思う。

 父が大好きだった「雨に唄えば」も、いい。雨が降ろうと明るく過ごせるようになる。ジャズだと思うが、映画「For the boys」で、ベット・ミドラーが歌う「Come Rain or Come Shine」は素晴らしい。

 この映画のシーンの一つ一つがいい。ベット・ミドラー扮する慰問歌手ディクシーは戦場へ行った夫と慰問先で再会する。その時に彼女が歌う曲が「Come Rain or Come Shine」。この映画は、ぜひ観ていただきたい。「男と女」くらい、ずっと好きな映画。人間、雨が降ろうが、晴れていようが、という生き方、気持ちを持っていないと。この時代。そこに生きる私たち。恋してる時だけじゃなく、そういうタフさが求められていると思う。

 そう、信心はタフさが必要。信心は、タフな自分を作ってくれる。タフな自分になって、タフに信心してゆく。

 お祖師さま(日蓮聖人)のお言葉に、
「詮するところは天もすて給へ、諸難にもあえ、身命を期とせん」
とある。すごいお言葉だ。どんなことがあろうと、信念を貫き、ブレない、タフさ。タフな人間の頂点にあるようなお言葉だと思う。

 また、
「心の師とはなるとも心を師とせざれ」
「相構へ相構へて、心の師とはなるとも、心を師とすべからず」
「心の師とはなるとも心を師とせざれ」
と、お祖師さまは三度も別のお手紙などに記されている。よほど、私たちが胸に刻むべきお言葉だと思う。気分で、浮き沈み、燃えたり、冷めたり、というのではダメということだ。

 難しい話ばかりじゃつまらない。紹介した「Come Rain or Come Shine」の歌詞が紹介されていたので、載せておこう。

「Come Rain Or Shine」
I'm gonna love you, like nobodys loved you/あなたを愛しています。今までの誰よりも
Come rain or come shine/雨が降ろうが、陽が照ろうが
High as a mountain, deep as a river/山のように高く、川のように深く
Come rain or come shine/雨が降ろうが、陽が照ろうが
I guess when you met me It was just one of those things/多分あなたにとっては私との出逢いはなど良くあることだったでしょう。
But don't you ever bet me/でも賭けない方がいいわ
cause I'm gonna be true if you let me/だって貴方次第では本気になるわよ
You're gonna love me, like nobodys loved me/貴方も私に恋をするわよ、今までの誰とも違う恋を
Come rain or come shine/雨が降ろうが、陽が照ろうが
Happy together, unhappy together/一緒に幸せになったり不幸になったり
And won't that be just fine/それも素敵じゃない
The days may be cloudy or sunny/曇りの日もあれば晴れの日もある
We're in or out of the money/お金があったり無かったり
But I'm with you always/でも、私はいつも貴方の側にいるわ
I'm with you rain or shine/降っても、晴れても、貴方の側に

 素敵な歌詞だなぁ。雨が降っていても、何も関係ない。

2009年6月7日日曜日

101才のお席主

 妙深寺のあじさい、きれいに咲いた。
 昨日の午後の御講席は、101歳の星野さんがお席主。妙深寺最高齢の元気なお席主だ。お会いするのを楽しみにしてお宅に伺った。ご高齢だから、「元気かな」「弱ってはおられないだろうか」と心配しつつ玄関をくぐる。
 しかし、いつも、こちらが励まされてしまう。御講が終わり、お声をかけてお話ししようとすると手を握ってくださる。ものすごい力で。そして、「日博上人は素晴らしい方だったよ。先住とも、一緒にご奉公して本当に楽しかったよ。身体に気をつけてくださいよぉ~、本当にぃ。お腹を出して寝ないでね」と。「お腹出して寝ないでね」って(笑)。本当~に、ありがたい。
 いつも喜びを忘れない。感謝して日々を送られている。本当に素晴らしいことだと思う。ご信心をされてきた方は、生涯心の拠り所があるだけではなく、何才になっても使命感を持ち、一生そのミッションを果たそうと思って生きておられる。これが、人間にとってどれほど素晴らしく、尊いことか分かるだろうか。
 ありがたい。信心は、素直で正直にさせていただくことが大事だと、明るく元気な星野さんのおばあちゃんに教えていただいた。おばあちゃんは玄関まで一人で歩いて、お見送りしてくださった。ムチャクチャ元気。ほんと、うれしかった。おばあちゃん、本当にありがとうございました。

2009年6月5日金曜日

夜叉が出る

 子どものことばかりで申し訳ないが、ゆっくり机に座っている時間がなく、あまり考えずにブログに書けることというとそうなってしまうので、お許しいただきたい。
 なにせ、最近は、もし書くとすれば、厳しい言葉を使いたいほど、思うところがある。佛立信心を分かったつもりになっている人の、言葉を聞いたり、見たりすることは、本当に耐え難い。明らかに、開導聖人が大嫌いであろう人が佛立を語る。言いたい放題な様を見ていると、また夜叉が顔を出しかねない。
 ということで、息子の泣き顔。次男は、いつもおでこをぶつけて、たんこぶをつくっている。傷だらけ。長男もそうだ。頭だけで9針と5針、腕を5針と、怪我をしてはお医者さまのお世話になっている。次男も暴れてはどこかにぶつかり、泣く。顔をクシャクシャにして。まぁ、仕方ない。
 いつも思うが、子どもたちが手に負えないのは仕方ない。自分がそうだったのだから。これからが本番だ。今は「ご住職!」などと言っていただいているが、本当に申し訳ないほど素直ではなかった。中学、高校と、母はいつも学校に呼び出されていた。高校時代の大崎の階段。思い出す。私は学校から帰るために大崎駅までの階段を下りていく。母親が下から上がってくる。なにをしに?学校に呼び出されて。へー、よろしく、と。苦労ばかりかけている。今でも。
 こんなことを住職が書いていいのかと思うが、事実なので書く。警察署の4階で待っていた時。ずっと、座らされていて、母親を待っていた。1時間か、2時間後、階段の向こうから母親が上がってきた。階段の踊り場から、こちらに来るまで、頭をペコペコ下げながら「申し訳ありません。申し訳ありません」と言って小走りに。本当に、なんという奴。どうしようもない。
 一緒に家庭裁判所。二人並ぶ。目の前に、裁判官「お父さまのお仕事は?」、私「…」、母「お寺の住職です(涙)(汗)」と。本当に、面目なかった。申し訳なかった。
 こんな人間がスポーツに出会って変わったのだが、それでも、真面目なお坊ちゃまとは程遠い。妙深寺の方々も、よく耐えてきてくださった。だからこそ、どんなところでも物怖じせず、身体を張ってご奉公させていただかなければならないと思っている。しかし、あまりに理不尽で、偉そうで、口先だけで、根性もないのに隠れてコソコソものを言い、人の悪口を言い、愚癡を言い、という姿を見ていると、夜叉が出てくるなぁ。「おい、顔を貸せ」と言いたくなる。ダメな住職だ。信心修行が足りん。そんな未熟な人間です。信心改良、お看経をいただいて、精進します。
 あー、やはり書いてしまった。子どもの話だけをするつもりだったが。

2009年6月4日木曜日

妙深寺の本堂 外装工事完了

 妙深寺の本堂外装工事がほぼ完了した。
 妙深寺の本堂は、ほぼ40年の風雪に耐えてきて、一度だけ外装工事を行ったが、近年は傷みがひどく、長期的にみると早い段階で外装工事を行うことが必要と診断されていた。
 数年来、こうした事情を理解しつつもエレベーターの設置問題などで延期されてきたのだが、今年の開導会の前までに実施しようではないかということになり、外装工事がスタートした。建設当時の色を探した。修理と塗装が完了した本堂を眺め、ほぼ先住が建設された当時の偉容が復活したと確信。うれしい。いやはや、うれしい。
 同時に、現在本堂階段に地下から本堂階である二階までを結ぶ昇降機の設置工事もスタートしている。ガラスの間はマルチメディアホールとして工事が始まる予定。隣接地も開導会までには妙深寺境内の簡易駐車場として活用できることになる。本当に、ありがたい。
 本堂の色、落ち着いたブラウン色。建立当時の色!シックで、なんか私が言うのも何だが、「信頼できるお寺!」という感じ。局長や塗装をしていただいた(有)ヴィクトリーホームの方々には、以前私が訪れたインドのナーランダ大学の写真まで見ていただいた。本当に、落ち着く色だ。
 有難い。綺麗ですよ、ぜひお参詣を。

2009年6月3日水曜日

金メダルだったんです!!

 昨日、朝からお寺では教務さんたちが倉庫を作ってくれていた。作ったというより、組み立てたという感じ。カスコで買ってきた倉庫。梱包を空けてみると接着剤も使わずに組み立てられることになっており、もうプラモデルみたい。あっという間に出来上がり。

 この倉庫には、今までガラスの間に雑然と重ねられていたイスやテーブルを収めた。これで「ボーズ・バー」などを開催しているガラスの間はすっきりする。この部屋の活用はこれから始まる妙深寺の巨大な計画(?)の最初のアクションになる。ワクワクしている。アイデア満載。また、横浜の妙深寺はチャレンジする。乞うご期待!

 昨日、6月2日は横浜開港150年目の記念すべき日だった。港では記念の式典が行われ、青空にブルー・インパルスが壮大な航空ショーを繰り広げていた。21時前に会議が終わって外に出てみると、3000発の花火が夜空を彩っていた。ディリーパ君と一緒に教養会館の屋上から横浜の夜空を眺めた。

 150年目を記念して、新聞各紙でもいろいろな特集が組まれていたが、特に「横浜のDNA」と題した記事に感じた。横浜に暮らす者は、この横浜に流れている新しい文化や技術を吸収する進取の気風と旧弊を明るく打ち破るパワーを受け継がなければならないとあった。

 京都生まれ、横浜育ち。40年、この横浜で暮らしてきた自分と、京都という日本文化の凝縮した街で生まれたた自分の、バランスを取りながらご奉公させていただかなければと思いを新たにした。伝統と文化を守りながら、新しい文化や技術を受け入れて、未来を切り拓くことを試みたい。

 とにかく、妙深寺は、横浜らしい、また開化第一の佛立らしいお寺を追及する。早くプロジェクトを進めたい。本当にワクワクしてる。どうか、ご協力をお願いします。

 そして、昨日の午後。お昼になってから、雨で延期になっていた長男の運動会が今日だと聞いた。長松家は誰も行かない、普通の家族は来るけど、と。私は夕方まで予定がない。では、行ってやろう、と昼過ぎから2時間だけ学校に行こうと思い立ち、一人で向かった。

 長男は、アメリカ生まれでハーフだから、国籍を使いインターナショナルに通っている。運動会も国際色豊か。お父さんもお母さんも様々だ。

 校庭に入ったとたん、Parent Raceとのアナウンス。親が子どもを背負って走る。え?私も?長男は、私が来たことに感激してポカーンと口を開けてる。ほんと、動かない。おい、来たんだよ?どうした?

 「よし、走ろう、おいで!」と。スタートラインに並ぶとワールドカップのように、実に様々な国籍の人がいる。元プロスポーツマンとしてのハートに火がついた。そして、スタート。

 結果。堂々の1位。あれ?やりすぎちゃったかな?息子、興奮状態。校長先生から金メダルをかけてもらい、生徒さんに紹介され、拍手をあびた。金メダル、うれし。

 いま、筋肉痛。ちょっとだけ、自慢話かな。すいません。でも、父親の面目躍如。よかった、よかった。

ディリーパ君、納豆に挑戦

 スリランカへの義援金の納付、本当にありがとうございます。今月中旬、福岡御導師がスリランカに行かれ、随行で兼子清顕をご奉公させようと思っています。現時点ではスリランカ内戦難民支援金を持ってご奉公ということには至りませんが、準備の打ち合わせなどをしていただこうと思っています。確かに、責任をもって送り届けられるようにさせていただきます。
 いま、スリランカから妙深寺に寄宿しているディリーパ君。本当に勉強も優秀で、日本語の学校が驚くほど。大学受験までに日本語のレベルアップをということで日本語学校に入学したのだが、中級レベルの設定が数日間の授業で上級コースにアップ。こんな学生は今までにないそうで、本当に素晴らしい。
 何よりスゴイのはお看経。彼の低く、太い声の「ナムミョウホウレンゲキョウ、ナムミョウホウレンゲキョウ…」という声を聞いていただきたい。いや、もちろん、一緒にお看経して欲しい。毎朝、彼は朝参詣しているのだから、妙深寺の本堂にお参詣すれば一緒にお看経出来る。そこで、感じてみて。
 すでに彼も一緒に清顕師とお助行に通ってくださった方々から感動の声が届いている。昨日、癌の疑いということでずっとご祈願してきた青年会員も、「検査結果、良好!なんでもなかった」という嬉しい報告があり、続々と嬉しい知らせ、お計らいが出ており、彼も感激してくれている。
 そのディリーパ君。今朝は、日本に来てはじめて納豆に挑戦!ム、ム、ム!いや、え?う~ん、うん、大丈夫、でもそんなにいつも食べたくな~い、と言っておりました。変な顔してる。イジワル住職だから、笑いながら写真を撮ってました。へへ。

菩薩の稽古 『班長スクール開講』

班長スクール開校!
 5月16日・17日の両日、かねてから寺内でご披露してきた「班長スクール ~班長になるための勉強会~」が開催された。
 今年、妙深寺は「班長を育てよう」という方針を大きなテーマとしている。「班長」とは、何やら組織的なネーミングだが、そう考えないで欲しい。つまりは、自分以外の人のご信心が前に進むように、その人のそばで、支えたり、サポートしたり、励ましたりする大切なご奉公。
 それは、「お願い事は自分や家族のことだけ」「好きなときにお参詣する」といった「自分のため」のご信心から、他の人の幸せを願う「他の人のため」のご信心に一歩前進することを意味する。まさに妙深寺の大きな柱である「菩薩の誓い」の実践。「菩薩」の行いそのもの。
 今、妙深寺では「お看経のお導師役ができるようになろう」と呼びかけ、班長を育てるご奉公を進めている。今回の菩薩の稽古、みんなで共にご信心、班長について学ぶ場をつくろう!ということで、「班長スクール」と題して勉強会を開催した。第一回目は班長になるための基礎知識や、班長に欠かすことのできないコミュニケーション能力を高めるための勉強をした。いつもながら、明るく、楽しく講座を開いてくださってうれしい。
 できるだけ多くの方に参加していただこうと、各教区から推薦者を挙げていただき、その方々には私から手紙を添えてご案内を郵送した。また、開催日を土曜日と日曜日の二日間設けた。1日目、2日目合わせて104名と大勢の参加で大変に盛り上がった。開催後に集めたアンケートでは、ほぼ参加者全員が「次回にも期待をしている」と回答してくださり、ありがたく思っている。
 ご信心の本当のありがたさは「自分のため」のご信心では感じることはできない。「誰かのため」「他の人のため」にご奉公をさせていただくからこそ、何より自分が御利益を感得させていただき、ご信心の醍醐味を味わうことができる。これからも二回、三回とこの「班長スクール」を開校するので、一人でも多くの方に参加していただきたい。今年、妙深寺は50名を越える新班長が誕生する。
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 真の佛立菩薩を目指しましょう ~《班長》というご奉公の実際~ (5月教区お講・御法門より)
 ご信心をしているといっても、自分のためだけの信心は佛立宗のご信心としては半分にも満たないあり方です。人のために何かするという信心を自分もできているかどうか。人のために何か御題目を唱えるとか、そういう行動がなければ全分の佛立信心とは言えません。
 ご信心では、世間の、普通の人だったら相手にしない、遠ざけるような人にまで御法の御力を頂いて手を差し伸べる。「私がついているよ」と言えるような人間、ご信者になりなさいと、信者としての心構え、人間性を教えていただきます。
 「御題目で人を助けようと思ったら自分も助かる」…これが宇宙の真理です。決して佛立宗のルールとして人助けをしなければいけないというわけではありません。自分が幸せになるために必要なこと。だから功徳を積みなさい、ご奉公させてもらいましょう、菩薩行に精進しましょうというのです。
 世の中には苦しんでおられる方がたくさんおられます。私たち佛立信者は、そういった、世の中の人が忌み嫌う、敬遠する、疎んじるような方にまで、何の分け隔てもなく、パッと手を差し伸べられるような人間にならなければいけません。
 といっても、決して自分の才能、能力で助けるのではありません。御題目で助ける。だから誰にでもできるのです。
 今から十七年くらい前、当時の受持で、今の臨港教区の石川チエ子さんに、お助行に連れていっていただいたことがありました。そのお助行先は、誰だかも分からない、名簿にしか載っていないような方で、鶴見川の河口にお住まいの方でした。河口といっても堤防もないような湿地帯で、そこにボロボロのアパートが建っていたわけです。その二階に住まわれており、石川さんは名簿にあるというだけで、「はいお講師こちらです」と私を連れていく。
 そして、ボロボロのドアの前に立ちまして、コンコンとドアを叩かれた。しばらくしてガタガタと音がして、ガチャっとドアが開く。すると刺青だらけの腕が出てきた。私はビックリしてしまったんですが、石川さんは全然平気で「ありがとうございます。三ツ沢の妙深寺というお寺ですけど、こちらに御本尊さまがおられると思うので、お参りをさせていただきに来ました」と。
 相手の方ははじめ「なんだ! おい!」などと言っていましたが、入れてもらうことになった。部屋は荒れ放題、御宝前はホコリだらけの状態で、花は枯れ、お仏飯もカビだらけ、御本尊は真っ黒。それを石川さんと一生懸命にお掃除をさせていただき、お看経をさせていただいた。別の部屋に女性がグッタリと倒れており、、帰り際に「どうしたのですか?」と聞くと、「うち女房が倒れて、もう身体が動かねぇんだ」という。それで「御本尊さまが真っ黒ですから、お取り替えをさせてください」と言って、一週間後くらい後にまた石川さんと伺って、そしてさらにまた伺って。
 そうして四回目に伺った頃には、ご主人も座って、奥さんも壁伝いに立って御宝前の間まで来て一緒にお参りしてくれるようになりました。
 私は、四回目で奥さんが立てるようになった、という現証の御利益をいただいたというお話をしたいわけではありません。この、石川チエ子さんのご奉公、その心をご紹介したかったのです。つまり、名簿ひとつを頼りに、そうした方のところへお講師と行ってご奉公をされる。御本尊さまがあるなら、どこへでも行かせていただく。そういう物怖じしない、佛立信者としての心、使命感。その気持ちを我々は勉強していかなければならないのです。
 御本尊さまをいただいていても、ご祈願は全部自分のため、家族のことだけ。それでは本物の佛立信者とは言えません。どんな時に他の人のために動けたか、それが大事です。 「班長」を育てようというのもそこにあります。正しい信心がそこにある、それこそが本当の佛立信心だからなのです。
 もちろん一人ではなく、お講師方やご信者同士でタッグを組みながらご奉公させていただく。どんな方の所へでも、「大丈夫、私がついている」って言えるようなご信者を目指すことが肝心です。

2009年6月1日月曜日

『あなたの知らない佛立信心』

「ひもにてつりたる横槌(よこづち)を向ふへおして手をはなてば我方へ来る」
「世の中は横槌を宙に吊りたるが如し。押せば此方(こなた)へ来る也。引けば向へ逃ぐる也」
 開導聖人は、幸せを求めているのにもかかわらず、いらぬ労力や無駄な時間を費やすばかりで目的から遠ざかっている人々に対して、考え方や生き方を変えてみなさい、と促されている。
 除夜の鐘で有名な京都の古刹(こさつ)。数十トンもあるその大きな梵鐘(ぼんしょう)を鳴らすためには、四メートルもの撞木(しゅもく)を操らなければならない。
 巨大な撞木には数十本の引き綱が取り付けられており、その親綱を十七名もの僧侶が揺らしてゆく。地面まで反り返り、勢いをつけてようやく梵鐘を突くことができる。
 開導聖人が「横槌」とお示しになられているのは、こうした巨大な撞木のことだろう。それを世の人が幸福を求める姿に譬えている。
 人間は、自分の方に幸せを引き寄せようと努力している。不幸を忌み嫌い、面倒なことは遠ざけ、巻き込まれないように努めている。節分に限らず「鬼は外、福は内」は人間が平生から求めるところだ。
 幸せよ、こっちに来い、こっちに来い。そう思って、よいしょ、よいしょ、と引いてこようとする。しかし、幸せは巨大な撞木や横槌のようで、此方に引き寄せるには想像を絶する力がいるし、やっとのことで引き寄せても、こちら側に引き止めておくことは難しい。手はプルプル、足腰はガクガク。少し気を抜いたら、あっという間に横槌は反対側に振れて、逃げてしまうだろう。
 だから、開導聖人は簡潔明瞭に、「押してみよ」と仰ったのである。こちらに引き寄せようとのみしているから無駄な力がいる。フッと押して出せば、彼方から此方へと戻ってくるのは天地自然の理だ。
 これこそ、佛立信者が実践する幸福を手にする生き方ではないか。真実の仏教徒とは、「押す」ことの大切さを知り、実践する人だろう。
 他人のことなど構ってられない。自分のことで精一杯。そう思って、人は小さな殻(から)の中に閉じこもる。仕事にしても、日常生活にしても、本当の慈悲や思いやりを忘れて、他人を利用するだけで利己主義に陥ってしまうのが凡夫。
 詭弁(きべん)を弄(ろう)する人も多い。狡賢(ずるがしこく)くエゴを隠しても、何事かがあれば保身を優先して他の人を切り捨て、平然と自己を弁護する人もいる。これでは少しの間は取り繕えても、末路は恐ろしく寂しくなるだろう。
 誰もが必死に生きている。ただ、こうした生き方を続けていたなら、無駄な労力と時間を費やすだけで、幸せの横槌はあなたから離れようとする。引き寄せようとする力が強ければ強いほど離れようとするから、生き方を変える必要がある。
 幸せの横槌を押すということは、「自分のために」という生き方を改めて「誰かのために」と生きることだろう。欲が深くエゴの強い私たちには実践しにくい生き方に違いないが、御題目をいただいていたら出来ると教えてくださる。財力でも能力でも難しい理論でもなく、上行所伝の御題目をもって人さまの支えになれる、と教えてくださっているのである。
 開導聖人は御教歌に、
「やみ重み 医者もすさめぬ 貧乏人 いたくなわびそ われぞたすけん」
とお詠みになられた。この御教歌には現代人に馴染みの薄い言葉が使われている。それは開導聖人が、
「山たかみ 人もすさめぬ 桜花 いたくなわびそ 我見はやさむ」
という古今和歌集の歌を引かれて詠まれたからだった。
 「山高く、近くで人に賞賛されることもない桜よ。ひどく嘆くことはない、私が褒めてあげるから」。誰も見てくれない、と嘆いて早く散ったりしないでおくれ、と作者は詠んだ。素晴らしい歌だ。
 それを開導聖人は、
 「病が重く、医者さえも遠ざかる貧しい人よ。そんなに嘆くことはない、私がいる、助けてみせる」
と、佛立教講の気概としてお詠みになられたのだった。
 残念ながら、こうした御教歌を拝見して、恥ずかしい気も起こる。いま、この上なく尊い万法具足の御題目、法華経本門の教え、真実の仏教にお出値いしながら、一人信心に甘んじている人が余りにも多過ぎはしないか。自宅に御宝前をお奉りし、お寺にお参詣もする。しかし、その願うことと言えば、自分や家族のことのみ。身体健全、災難除滅、商売繁盛、家庭円満。他の人を心から思いやり、祈り、願っていない。自分の周囲のことだけに終始している。それで真の佛立信心と言えるか。幸せになるために「押して」いると言えるか。
 「菩薩の誓い」「菩薩行の実践」と声をかけているのは、スタッフを増やすためでも、世間の倫理観を持ち込んで世直しをするためでもない。そんな些末な考えで「佛立菩薩を育てよう」などと言ってるわけではない。
 宇宙を貫く真理を体現しよう、彼も助かり我も助かる道を歩もう、幸せを手にするために横槌を押す生き方をしようと提唱している。これこそ徹頭徹尾(てっとうてつび)、佛立信心なのである。
 確かに、御題目は尊い。祈って祈りの叶わぬことはない。私たちは御法のお導きの中で、サインに溢れて生活させていただいている。
 しかし、どれだけ「お看経してます」「お参詣してます」といっても、この尊い御題目を一人占めにして、自分の願いを通すだけなら佛立信心の半分にも至っていないことを知って欲しい。本当の佛立信心はその先にある。他の人を、思いやり、世間の人が疎んじる、遠ざける人にまで手をさしのべて、「私が支えてあげる」「助けたい」と行動を起こすのが真の佛立教講なのだから。
 敷居が高いだろうか。自分には無理なことだと尻込みしてしまうだろうか。いや、そうは思わないで欲しい。能力や体力が必要だと言っているならば分かる。しかし、他の人のために祈ることからはじめて欲しい。お助行へと足を運ぶことからはじめて欲しい。それは、他の人を助けるためだけではなく、自分が幸せになる生き方の出発点となるはずだ。
 先月も書いたように、私たちの先輩は「いたくなわびそ」「われぞたすけん」という信念を抱きつつ多くの方を支え、救ってこられた。私たちはそうした方々の功績の下に生きている。今の教講が半分に満たない信心前で、佛立を知ったような顔で語るなど笑止千万(しょうしせんばん)だ。もっと速やかなる現証を感得したければ、横槌を押すことである。

班長さんへの手紙

 ありがとうございます。
 五月に開催された「班長スクール」には、一〇四名という想像した以上のご参加をいただき、本当にうれしく思っています。事前に、何としても参加して欲しい方、教区から推薦のあった方に、私からお手紙を送らせていただきました。突然のお便りで申し訳なかったと思いますが、これからも住職と受持御講師、教区の皆さんと一体になって、菩薩の稽古を進め、班長になれる方を作りたいと思います。
 開導聖人の御指南に、
「ひもにてつりたる横槌(よこづち)を向ふへおして手をはなてば我方へ来る」
「世の中は横槌を宙に吊りたるが如し。押せば此方へ来る也。引けば向へ逃ぐる也」
とあります。
 寺報にも掲載させていただいたのですが、「班長」というお役も、「ご奉公」「菩薩行」も、すべては末法に生きる私たちが幸せを手にするために必要な功徳行です。「人のため」でもありながら、「自分のため」になる。これが佛立信心です。
 しかし、どんなに理屈が分かっていても、行動が伴わなければ意味がありません。今は「ご信心をしてる」と言っても、「一人信心」の人や家庭が多いのが実状。「お看経してる」「お参詣してる」人でも、その目的やご祈願の内容といえば自分や家族のことのみ。身体健全、災難除滅、家庭円満、商売繁盛。尊い御題目は、こうした信心の仕方でもお計らいをくださいますが、圧倒的に罪障や業の深い凡夫です。本当の御利益、本当の佛立信心の素晴らしさからは、遙かに遠いのです。
 他の人の為に実際に行動することが欠けていては「一〇〇%の佛立信心」ではない。
 「幸せになろうとしても、巨大な横槌を自分の方に引き寄せているようなもので、自分の方に引き止めておくことは難しい。だから、押してみなさい。押したなら、自然とあなたの方に来るのだから」
 「菩薩の誓い」「菩薩行の実践」とご奉公の方針に盛り込んでいるのは、お寺のスタッフを増やすためではありません。そんな些末な、下心のような考えで「佛立菩薩を育てよう」と言っているわけではありません。導師役を勤められるようになったり、お助行に通えるようになったり、当番日に法城護持のご奉公に出たり、御講やお会式の将引に励むことは、「幸せの横槌」を押し出すことであり、必ず自分に返ってくることです。
 これを嫌がって、「面倒だ」「人のことは構っていられない」「自分のことで精一杯」と生きている人は、横槌を逃がしてしまう人。
 「彼も助かり、我も助かる」
 この法則と、その法則の実現が、佛立信心にあります。
 五月の御講の御法門、覚えていますか?
 「やみ重み 医者もすさめぬ 貧乏人 いたくなわびそ われぞたすけん」
 尊い御題目をいただく本門佛立宗のご信者さんたちの強い気持ち、物怖じしないで人を支えようとする姿勢を教えてくださいます。
 「病が重く、医者さえも遠ざかる貧しい人よ。そんなに嘆くことはない、私がいる、助けてみせる」
 教区御講の御法門では石川チエ子さんとの懐かしいご奉公をお話ししました。ご利益談ではありません。強いご信心を持たれている方々が、どうやってお助行に廻り、人を訪ね、御題目で人を助けようとご奉公されてきたか、紹介したかったのです。名簿一つで、貧しい方の家々でも厭わず廻るご奉公ぶり。本当のご奉公とは、これです。
 私は、住職を先頭に、全員が「班長」になるべきだと思っています。こうしたご奉公が出来ていなければ、駄目なのです。一〇〇%の佛立信心ではないのです。まだ引いているのです。忙しくしていても、幸せは逃げます。押し出せば、大きな幸せが返ってきます。