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2009年8月18日火曜日

いざ、青少年の一座

 青少年の一座が、直前に迫ってきている。いま、九州の実行委員会の方々は寝食を惜しんでご奉公くださっている。

 横浜でも、東京でも、全国で、この青少年の一座のご奉公を支えようとサポートスタッフがフル稼働。特に映像制作ではカメちゃんや清康師が徹夜でご奉公している。ひろし君がプロデューサーとしてナレーション原稿を書き、カメちゃんは千葉や鎌倉までロケに行き、清康師は信翠師や登光師の構想を忠実に映像化し、第3回 青少年の一座に参加する方々が、ご信心の尊さや有難さを実感し、『本当に来て良かった』と言ってくださるようにと頑張っている。

 本当に、ありがたいなぁ。いつも、このご奉公の姿に感動し、映像化されるものを見ては涙が出てくる。これまでのご奉公、これまでの体験談、吏絵ちゃん、夕香菜ちゃん、遙ちゃん、木村くん…、本当に、おはからいをいただいて、確かな未来を歩んでいるみんなを見て、感動する。

 今年、この時、再会できる喜び。「九州で会おう」「九州でまっとうばい!」と言ってくれている実行委員会の方々。本当に、ありがたい。

 徹夜で作っているオープニングの映像を見ながら、「今」ということについて考えさせられる。『今』は、永遠の時間の流れの中で奇跡的に巡ってきた『今』であり、永遠に戻ってくることのない貴重な『今』だ。『今』を共有していることが奇跡的な出来事であり、『今』から同じ方向を見て生きていけることの尊さははかりしれない。

 宇宙の誕生、星々の誕生、地球の誕生。その地球に命が生まれ、人類が生まれ…。生命は多くの困難を乗り越えて『今』にいたり、人類は多くの災禍に出値い、自らも災禍を巻き起こし、累々たる屍の上に「現代」という『今』の社会がある。その『今』に生きる人間たち、僕たち、私たち。何を思い、何を求め、何ができるのか。

 平成21年8月21日、22日。九州。私たちが、この場所に集まれることこそ、奇跡的な出来事。ここに参加し、同じ時間を共有できることこそ、奇跡的な出来事に違いない。そのことを痛いほど感じて、実行委員会の方々はご奉公してくださっている。遠く離れた私たちも、そのために、寝食を忘れてご奉公している。絶対に、参加した方々に、伝えたい、伝えたいことがある、と。

 この大会が開催できること。そこに参加できること。それは、本門佛立宗の、宗門を挙げての壮大な意志があり、全世界の地域、全国の支庁や布教区の支援があって、一人一人が参加させていただける。このことを、決して無駄にしないために、みんな、必死に頑張っている。参加する人たちも、その意義を確かめて欲しい。そのことを、考えて欲しい。感じて、参加して欲しい。それだけで、いい。

 先日、少し、青少年の一座について、評論めいた意見を聞いたが、そんなもんはいらん。みんなが評論家ぶって、偉そうに言うのを聞いていると、情けなくなる。未だ、こんなことを言っているのかと愕然とする。批評や評論する前に、あなたが何が出来ているかだ。そこで前向きに努力しなければ、信心でもご奉公でもないではないか。それを慢心という。喜びと謙虚さがなければ、仏教徒ですらない。

 貴重な命だということを、痛感していた。宇宙から地球を眺めると、そう思う。かぐやの映像を見ていて、またそう感じた。漆黒の宇宙。誰だったか、ある宇宙飛行士が、窓に映る地球を見て、生命のかけらも感じられない暗黒の宇宙の中で光り輝く青い星・地球を見て、涙があふれて仕方がなかったという。真っ暗闇の中で、唯一、命に満ちた星が地球だった。それは、繊細で、か弱くて、孤独に耐えて必死に輝く地球。

 その星の上で、生を受けた私たち。『今』を一緒に生きていける。本当に、奇跡だ。いつも、私は「ありがたい」と言う。何度も言うが、この「ありがたい」は英訳の「Thank you」ではないのだ。むしろ、英語に訳すなら「rare」だろう。あるいは、「unusual」「uncommon」「seldom」「exceptional」などでもいい。とにかく、「希有」なのだ、「有ることが難しい」から「有難う」なのだ。

 みんなで、九州で出会い、「有難う」と喜び合いたい。






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