
私たちの感覚ですと少々違和感がありますが、お祖師さま御染筆の大曼荼羅やご消息などが展示されています。「違和感」というのは、本門佛立宗のご信心では、そうしたものはあくまでも「信仰の対象」という感覚があるからだと思います。「生きてまします」といただく御本尊さまや御尊像を、ガラスケースに入れて「展示物」とするのはもったいない、恐れ多い、という感覚があります。どうしても違和感を覚えてしまうのですが、それでも現在は他寺院が護持しておられる門下の貴重な宝物を拝見できる機会はまたとありません。心して、国立博物館を訪ねました。
国立博物館の中では、メモを取りながら、グルグル、グルグル、会場内を廻りました。やはり、本の中でしか見たことのない宝物が並んでいます。何とか、お祖師さまの息吹、お祖師さま滅後に帝都・京都のご弘通を開始された日像上人の息づかい、日朗上人門下「朗門の九凰」と呼ばれた御弟子方の結束、その決意などを感得させていただこう、と拝見し続けました。

しかし、それらとは比べものにならないほどの感動は、当然ながら国宝「立正安国論」です。中山法華経寺に伝来する1269年12月8日にお祖師さま自らが書写された御真筆。750年という御正当の年に、この書を拝見できるとは。感激です。

そして、この「立正安国論」の御意をいただいて、この国家の元首、天皇陛下がおられる京都へと上行所伝の御題目をお弘めになられようと都入りされたのが日像上人です。1294年4月からお祖師さまの遺命を受けて上洛し、京都の有力民衆の帰依を得てご弘通ご奉公を開始されました。比叡山延暦寺から度重なる讒言や圧迫を受け、1307年から1321年までの間に3度も京都から追放されました。院宣として追放されたのですから、そのご奉公ぶりが分かります。そのたびに許され、ついに1321年に四条櫛笥に妙顕寺を建立されました。1334年、後醍醐天皇からの公認を得ます。国家への諌暁を進められ、ついに天皇からの支持を得られたことには並々ならぬご奉公があってのこと。そのお姿を、京都各寺院に伝わる様々な宝物で感じることが出来ました。

私の祖母、長松小千代は、生前私に「わての生家、能勢家は大覚大僧正にお仕えした家系」と言っていました。それが、長松家に嫁ぐ縁だったのではないかと言っていたのですが、日像上人の後を受け継がれたのが、この大覚大僧正で、今回の日蓮展でも「妙顕寺文書」などで、この事跡や経緯を肌で感じることが出来ました。
また、全く別の視点ですが、天台大師の御影画(張思筆)が展示されていて、そのお姿の中に「三本獣足の脇息」が描かれていて、何故か眼が止まりました。

いずれにしても、「今、生きたお寺か」という点が大切であり、①正しいお祖師さまの教えを受け継いでいるか、②ご弘通が為されているのか、ということを考えねばなりません。「舎利(御真骨)がある」とか、「宝物がある」ということを、法華経の信仰ではあまり重視しないはずです。なぜなら、法華経の中で御仏ご自身が「舎利を用ひじ」と説き明かされているからです。ここでも、「教」と「行」と「証」が大切なのです。

明日は、大阪・豊中・良風寺の高祖会にお参詣させていただきます。もう、緊張しています。天気も微妙。午後、もう少しで横浜を出ます。しっかりと、ご奉公させていただけるように、御祈願させていただきます。
それにしても、「朗門の九凰」の覚書には、鳥肌が立ちました。 ありがとうございます。
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