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2010年9月25日土曜日

今日は門祖日隆大聖人のご命日。御総講を奉修させていただきました。

本堂に歩いてゆく時は雨がパラパラ降っていたのですが、御法門の時には止んでいたようです。季節の変わり目ですね。台風も来ているようで、港からの風が激しく吹いています。

今日、午後からは神奈川布教区の弘通教養実践会議です。神奈川県下の15ヶ寺院のお役中が集い、ご弘通ご奉公について議論を重ねます。私は弘通参与としてご奉公させていただいておりますが、申し訳ないことに照力師と信仰師に頼りっぱなし。今回は、「カルテ」と「レシピ」を携えて会議に臨みます。

つくづく、ご信心は一人では歩めないものだと思います。いや、一人で歩んではいけないのです。ご信心は、師がいなければ成り立たないのです。

いま、師に迷っている人を多く見かけます。ご信心をしていても、師がいない人ばかりに思えます。お折伏がいただけない、ご指導がいただけない、お敬いができない。教務にも問題がありますが、一人信心では先が見えません。

師を失うことほどの不幸はないのです。末法の最も恐ろしい点は、師がいなくなることです。末法悪世に埋没してしまうのです。

いくら御法が尊くても、一人で正しい道は歩めません。三祖からの法水を、そのまま流していただくこと。俗な言い方をすれば、三祖さまの教えに従い、特に、開導聖人のご奉公の在り方にならって、「サービス(ご奉公)の均等化」をしなければならないと感じます。それが、バラバラになっているのは、根っこの、Primordialな師を忘れているからです。自己流、あるいは数世代前からの「やり方」などでは、曲がります。

ご信心をさせてもらったら、すぐに全員が素晴らしい人になるわけではありません。佛立信者としての誇りと、凡夫としての謙虚さ、その自覚を、しっかりと、バランス良く抱いてご信心させていただくことが大事なのです。

だから、師が大切。師がないのは不幸。形ばかり、言葉ばかりの「師」では、生きることも、死ぬことも、本来できません。

ご信心をしているならば、常に改良を心がけなければなりません。愚かだと気づかないのが最も愚かなのですから、それを教えてくださる師を、持っているかどうか、チェックしてみることが必要です。

御題目が強力だからこそ、師を失えば「狂」になります。恐ろしいことなのです。

あなたの師は、どなたですか?教務ならほぼはっきりしますが、ご信者さんにも聞いてみたい大切な設問です。

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