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2011年1月27日木曜日

人のせいにしない

人のせいにしない。それが仏教。仏教徒の生き方。

ふと、自分の今を見つめてみたら、人のせい、誰かのせい、世の中のせい、にしていたりする。そう思うのも無理ないけれど、それがイライラの原因、次に行けない理由だと教えていただく。

自分。とにかく。

他人を変えるのは大変。自分なら、まだ何とかなる。変わろう。やろう。してみよう。

3 件のコメント:

  1. 日本人がテロに走らず、自死というかたちで、閉塞した状況からくるイライラを解消し、次のステージに進んでしまうのも、仏教がもつストイック性にあるのかな、とふと思いました。

    悪いのは、すべて自分。そのように宗教者からもせめられ、思いこんでしまうと、いまの日本人の多くは、出口を見つけられないのでは、ありますまいか。

    きょうも日本のどこかで自死者があるでしょうが、宗教者だけはそれを「絶対肯定」して、済ませられるのでしょうか。日本仏教は、どこか変です。

    そのへんを、もう少しわかりやすくお教え下さい。これから朝のお勤めです。伊那谷 合掌

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  2. 難しい質問ですが、ある意味で、その通りです。なぜなら、スリランカは世界的に自殺率の高い国で、これは仏教の「輪廻転生」の教え等によると言われているからです。しかし、現在日本人の多くが仏教の教えによって自死を選んでいるとは思えません。それほど敬虔な仏教徒による自殺が日本で問題になっているとは思えません。
    また、宗教者から「せめられ」というのも当たりません。仏陀は、世の、人の、真相を説いてくださった。残念ながら、「せめられ」と思うのも迷いです。最初に仏陀が説かれたのは「苦諦」の法門。本来ネガティブな意味ではありませんが、しかし、まず「諦めなければならない」と。そこからしか、出発できない。人のせいにしている間は、生きれない。
    同時に、だからこそ、人は慈悲心を持って、お互いに支え合い、援け合わなければならないという教えになる。この「順序」が分からないと悪循環を繰り返してしまうと教えていただいているのではないか。
    日本仏教は、どこか変です、とのご指摘は、どこかのどこかが分かりません。変なところはいろいろあります。しかし、どこか。
    真理は、おそろしく厳しい。しかし、ここからしか、本当の意味で、生きれない、本当の意味で、助け合えない、と、私は思います。

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  3. さっそくのお返事ありがとうございます。

    「真理は、おそろしく厳しい。しかし、ここからしか、本当の意味で、生きれない、本当の意味で、助け合えない」というお答えを、じつは期待していたようにおもいます。そして、なおわからないとすれば、おそろしく厳しい真理の内容です。

    どこか、というのは、その厳しさを宗教者が曖昧にしているような印象があるからですが、それは小生のひが目によるのかも知れません。その意味で変というのは、相対的です。

    敬虔な仏教徒が自死するとは、小生もおもえません。苦から救われる方法として死を選ぶところに、日本仏教がもってしまった「死生観」の一面を感じているのです。
    また、お教え下さい。伊那谷合掌

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