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2011年6月15日水曜日

本門佛立宗の御法門

先日、身震いした御法門。長松寺開導会における御講有の御法門の要旨。これこそが、佛立であり、佛立とはこれであり、佛立教講はこうでなければならぬ、と。後は実践なのだ。体現者が求められる。

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御教歌
「いきはかり 死にかはりつつ 法華経に
仕へん人を 菩薩とぞいふ」

菩薩とはボディサットヴァという梵語を漢字に置き換えて菩提薩埵、これを略した語。その意味は「大心衆生(大きな志を持った衆生。上に向かっては菩提(さとり)を求め、下に向かっては教えを説いて人を教化する志を持った人)」ということ。

本門佛立宗は、この菩薩としての心構えを教え、実践する宗団。皆が菩薩として衆生を成仏の道へ引き入れますという大きな誓願を立てることが最初。

その誓願は、いま生きている間のことだけではなく、「生々世々」の菩薩行でなければならない。「自分には時空を超えた仏祖のご命令があり、この娑婆に派遣された身の上」との自覚を持つ。

ここに生き甲斐がある。ここに生き甲斐が見出せるようになると、人格・人柄が変わってくる。「法華経に仕へん人」となる。

「仕える」とは、へり下った気持ちで自分を捨てて、御法さまに、教講に、世の中のすべての人に尽くすこと。してやっているのではない。

今までは自分のことばかり考えて生きてきたが、それをなげうって、御法のため、世のために、お仕えする。そういう生き方、生活をする。まさに、「人生のきりかえ」である。

欲望に縛られた心が解(ほど)け、放たれて、「本当の自由」を得ることができる。欲望の絆が解けた人を「ほとけ」という。

御指南
「わが身も如来の御使いの部類の数に入りたる身なれば、口唱信行は御奉公の第一也。寂光浄土を立ち出でて、此の娑婆に行ずる身なれば、世間迷妄の人の名利に貪著して苦海に没在せる人のまねはしているように見えたれども、真実の心の底は生きかわり、死にかわり、生々世々、凡夫の信者となりて、末法万年の外(と)、未来までの衆生を助けんと思ひ、願立てし給ふ菩薩行をせんと、思い、楽しみ、喜ぶ所をば、当流の行者の心得とは申す也。」
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御法門は目で聴聞するものだ。この時、私の目は見開き、心に熱いものが込み上げた。そう、生々世々、この生だけではない。そう、そうして人生がきりかわり、価値観が転換する。そう、世間の人に交わり、何ら変わりない凡夫ではあるけれど、その心の奥底に、深い覚悟がある。そう、何と有難いことだろうか。そう、先住も生々世々、藤本御導師も生々世々、そして私も。

こうして生きられるようになったことこそ、これが佛立信心の真の果報であり、真の現証ではないか、と。迷いの多い中に迷い多く生きねばならぬ定めを背負う自分が、確かに、生きてゆけるようになることが。

この教えをいただいているからこそ、尊いのだ。あとは、実践なのだ。何人が、この教えを実践できているかなのだ。

この御法門を基軸として、また、生きてゆける。

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