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2011年8月4日木曜日

育てるって

あれから一年か。清朋と良潤の得度式。8月の中旬を過ぎて、特別御講の時のこと。

いま、彼らは京都に行って第5学級の修学塾に参加している。この塾に参加しなければ来年の春に佛立教育専門学校に入学することができない。良潤師も昨日スリランカから来日して今朝の始発で京都に向かった。今夜、私は麩屋町のお総講なので、彼らを追って京都に向かっている。

子育てにしろ、教育にしろ、何が合っているかなんて、まだ誰にも分かりはしない。ヒントがあるようで気づいている人は少ない。

さみしい幼少期を過ごした親御さんのいない子が、人々を魅了する素晴らしい人物になっている。多忙だった両親と一緒に過ごした記憶もない子どもが、心から両親を尊敬し、親孝行している。

親が、何を思い、何をしているか。子どもに耽溺です、媚びず、恥じず、包み込むような大きな愛を持ち、小手先の、インスタントの、エゴで、子どもに向かわない。

マクロとミクロは一致する。特殊なことではなく、仏陀の説かれた普遍的な態度で子どもに向き合うべきだと思う。結局、古くから言い伝えられてきたことの中にヒントがある。

様々なご家族、ご両親、子どもたち。特に、問題を抱えたご家庭、特に、子どもたちを見ていると、一見幸せで贅沢な家庭の奥に潜む迷いや問題の深さに驚く。いろいろなことをしているのに、大切なことをしていない。それで、子どもが育つだろうか。強く、明るく、正しく。

若者たちが妙深寺や庫裡に下宿して、得度してゆく。それぞれの家庭で受けた異なる教育を感じながら、彼らの成長を期して向き合っていく。

つくづく思うのは、ストレスの無い家庭で育った者の弱さ。緊張状態のなさ、理不尽さについての未経験。単に「いい人」に囲まれて育っても、「どうでもいい人」にしかならない。実際、それが増えている。

筋肉は、切れて強くなる。負荷をかけると筋肉は切れるんだ。それを身体が必死に修復しようとして、四肢は太く、強くなる。そんな経験が、家庭の中でもなく、学校でもなく、スポーツでもないとすれば、挫折も失敗もない代わりに、人の痛みも分からない、頭でっかちで、すぐに人のせいにして、責任感もなく、キャパシティもない人間になってしまう。

逃げ道はいくらでもあるから。ストレスがかかることからすぐに逃げられる。暑ければ涼しいところを探し、喉が乾けば飲み物を欲する。涼しいところがなければ投げ出し、飲み物がなければ駄々をこねればいい。そう思ったまま成長した人間など使い用がない。

折伏は慈悲の最極。厳しく戒めようとしても、それを「かわいそう」だと止める人。愛されたいと思って叱らないのは愚か。丁寧に諭しなさい、叱るのではなく話し合うのです、ということも大切だが、人間の「器」というものは、そういうことでは育たない。

「弘通の器となさしめ給え」と日々にご祈願させていただいているが、この「器」ということが、とても大切だと思う。

ズバリ、おかしいことはおかしいと、愛情をたっぷり抱きながら言うべき。言いっぱなしも、憎まれ口もよくないが、「随他意」で、子どもの心を推し量って「お給仕」しても、本当に器の大きな子は育たない。

いま、若手教務の成長を、日夜考えている。キャパシティがなく、自分で気づく能力を失い、責任感もなければ、教務以前に人間としてやり直さなければならないから。教務になれば、師匠の厳しい折伏がなければご信者さんは優しく接してくださるし、さらに阿呆になる。

いや、教務とか、そんな特殊な問題じゃない。大人が迷ってるんだから、仕方ない。教育、そんなことをるって、本当に大切。仏陀の教えから、学ぶべきだと思う。ヒントだらけ。見隠し、聞き隠しは、謗法。その人を駄目にするとか、憎まれても、本当にその人を思えば折伏せよ、とか。子どもに憎まれる覚悟が、今の親にあるかなぁ。後で気づくような、親の愛が、あるかなぁ。

そんなことを考えながら、新幹線に乗り、京都に行った二人を思う。

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