今日は、まるで猛暑が何処かへ行ってしまったかのような涼しい一日になりました。昨日までの雨も止み、肌寒さも感じたほどでしたが、盛大に秋季総回向を奉修させていただきました。
今日の御法門では、坂本龍馬の仏教徒としての一面をご紹介しました。龍馬は、当時の人々がごく自然に持っていた先祖への孝養心でご回向や供養を行っていました。
上手にお伝えできたか分かりませんが、私たちは第一に先祖回向の大切さと伝え、第二に正しいご回向の方法を伝えなければなりません。まず、第一に、龍馬の姿勢から、自分がそういう気持ちを持っているか、お彼岸などに先祖に手を合わせたか、考えてみて欲しいと思います。
小美濃先生の『龍馬八十八話』という著書でも紹介されていますが、龍馬の作った次のような和歌があります。
「面影の見えつる君が言の葉を かくしに祭る今日の尊さ」
この歌の題には「奈良崎将作に逢し夢見て」とあります。楢崎将作とは、龍馬の妻となったお龍さんのお父さんのことです。青連院宮の侍医だった将作は、頼三樹三郎らと親しくしていた勤王家で、安政の大獄で捕縛されました。その後、釈放されますが、身体を壊して亡くなっていました。
お龍の夫となった龍馬は、義理の父に当たる将作に生前一度も逢ったことがありませんでした。しかし、その龍馬が彼に夢の中で逢ったと歌に詠んだのです。
「面影の見えつる君が言の葉を かくしに祭る今日の尊さ」
その意味するところは、夢の中で聞いた義理の父の言葉を大切にして、その霊を祭って回向する尊さよ、、、というものです。龍馬は、そうして亡くなった近親者の霊を祭り、回向する大切さを知っていたのです。
さらに、「父母の霊を祭りて」と題した和歌も詠んでいます。
「かぞいろの魂やきませと古里の 雲井の空を仰ぐ今日かな」
「かぞいろ」とは「かぞいろは」という古語の略で、両親、父母、という意味です。両親の霊を祭って、父母の霊が来てくれるように願い、古里・土佐高知の空を仰ぎみている、そんな今日この頃です、という意味の歌です。
全国を飛び回っていた龍馬ですが、両親を思って、お盆やお彼岸の頃に詠んだのかもしれません。
ここに龍馬の数首の歌を出しましたが、なんか開導聖人の御教歌のようですね(笑)。そうです。龍馬の家も豪商らしく国学や和歌に通じていて、お父さんの八平も兄の権平も、お祖母さんの久も、和歌を詠んでいました。
龍馬のお母さんは、龍馬が12才の時に49才で亡くなっています。この頃まで龍馬は泣き虫だと言われていました。しかし、このお母さんとの別れから、ピタッとそういう話がなくなります。お母さんの死は、龍馬にとって決定的な出来事だったに違いありません。
お父さんの八平は龍馬が21才の時、59才で亡くなりました。龍馬が江戸で2回目の修行をしている最中のことでした。つまり、死に目には会えなかったのでした。
龍馬は、早く別れた両親への切ない気持ちを抱いていました。お龍へのインタビュー、「反魂香」の中には、長崎でのお盆のご回向のお話があります。
「慶応三年八月十六日、長崎元博多町のコゾネと云ふ質屋の奥座敷で、お良の父・奈良崎将作と自分の父母の霊を祭りました。あぁ、この魂祭りが龍馬存生中の最後の手向けでした。」
「手向け」とは、「◇ 神仏や死者の霊に物を供えること。また、その物。◇ 別れる人へのはなむけ。餞別」という意味です。
この少し前、龍馬は土佐の実家に手紙を出しています。
「廊下の茶座敷の上のところに、お父さん、お母さん、そしてお祖母さんが書いた短冊が飾ってあるから、その裏に没年月日を書いて送って欲しい」
その短冊を龍馬は自分の懐に入れていたと言います。時には取り出して、お祭りして、ご回向したということでしょう。
死ぬか生きるかで走り廻っていた幕末の志士・坂本龍馬が、両親のご回向、お龍の両親のご回向、弔いまでしていることを、覚えておいていただきたいと思います。本当に、それはそれは、とっても大切なことです。
龍馬に憧れる人は多いのですが、そういう人間としてのごくごく自然な、大切な気持ち、大切な行いまで、しっかり受け継いで欲しいと思います。
佛立仏教徒であれば、なおさら、正しいご回向の
仕方もお伝えしてゆけるようにならなければなりません。
今日は、そんな坂本龍馬の菩提心についてお話をして、御法門を説かせていただきました。
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