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2013年5月14日火曜日

信州長野と徳兵衛さん

名古屋まで出て、木曽路を北上します。頭の中を巡る歴史がそうさせるのかもしれませんが、この道のりの景色には特別の色彩を感じます。

信州長野のご弘通は、中井徳兵衛さんのご弘通行脚が最初ではなかったでしょうか。

また、面倒な歴史の話で申し訳ないのですが、徳兵衛さんは安政4年、本門佛立講が開講された年に開導聖人によってお教化になったと言われています。

田舎から出てきて本願寺門前の茶店でアルバイトをしていた徳兵衛さん。時々そこを訪れる茶人風の格好をした開導聖人に特別のオーラを感じられたそうです。龍馬と並ぶほど開導聖人は身長が高く、その体躯はがっちりしておられましたから、それこそ威厳や特別な雰囲気を持っておられたのでしょうね。そして、そのお店に立ち寄るたびにお話させていただくようになり、ついに信伏随従、お教化になったとのことです。

その後の徳兵衛さんは開導聖人をお護りし、私の私淑する嶋田弥三郎氏(護法院義忠日臣大徳)らと共に初期の佛立講を底辺から支えてご奉公くださいました。実は、後に開導聖人に嫁がれる栄女、八尾女の生家・増田家をお教化したのは、他でもない徳兵衛さんでした。想像を絶するほど、尊いご縁があります。いや、そういうレベルではないですね。徳兵衛さんをお教化された開導聖人は別として、増田家の教化親である徳兵衛さんがいなければ、私たちはいないのですから。

その徳兵衛さん、在家の身ではありますが、まさに真実出家、ご弘通に身を捧げます。いつの時代もご弘通ご奉公を進めるのには苦労が伴いますが、開導聖人ご在世当時の苦難、困難は並大抵ではありませんでした。急速に発展する本門佛立講には、様々な問題が生じました。何度も書いていますが、御法さまが嫌いになってご信心を辞める人はいないのてす。尊い御法さまの下ですが、集まっているのは三毒強盛の凡夫ですから、辞める理由はほとんどが人間関係の問題です。それこそ残念で、勿体ない。それに負けては仏道も成就しないのですが、そういう凡夫の集まりならではの問題が徳兵衛さんを苦しめていたようです。

晩年、徳兵衛さんは京都を離れ、行商のようなことをしながら遠隔の地へとご弘通を進められます。「開教」と言うと、どうしても教務さん方のご奉公が目立って取り上げられてしまいますが、特に初期の佛立講は御導師方が動かれる前にご信者方が累々たるご弘通を積み重ねて遠隔の地にご信心の種を蒔いてゆかれました。

徳兵衛さんはそうした方々の筆頭にある強者でした。そして、徳兵衛さんはついに信州長野へのご弘通とお教化の旅の途中で臨終を迎えられました。壮絶な御一生でした。第二世日聞上人は、鶴松堂日記の中で徳兵衛さんの帰寂を悼み、特別な哀しみを綴っておられます。そして、臨終を迎えることとなった長野の縁者の家、埋葬されたお寺に心付けを送られました。

長野には、その後、大正期、昭和期の尊いご弘通の歴史があります。しかし、私が長野の美しい景色を見る時、自身の縁を辿って、徳兵衛さんの純粋なご信心、情熱、護法愛宗の念を感じて、遙か安政4年(1857)、156年前までタイムスリップしてゆくように感じます。

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