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2013年9月26日木曜日

みんなで、まっすぐ、やりましょう。

ふと手にした岩手日報。

紙面をめくってゆくと、村上さんが出ておられました。記事の内容はもちろんですが、感動するのです。

こうして、このタイミングで、岩手県で出会い、少しずつご縁を深めて、去年の6月10日には横浜に来てくださり、今年は沼田の山車を一緒に曳かせていただいて、そして、弾丸岩手往復の中で、新聞を通してですが、お会いできたなんて、なんと嬉しいことでしょう。

少し前でも、後ろでも、巡り会えないことがあります。この新聞も。一日前でも、後ろでも、この記事を見つけられない。となりの別の新聞を手にしていたり、手にしたとしても一枚ページをめくらずに読み終えていたら、村上さんの記事は見つけられなかっただろうなぁ、と思うと、大げさと言われるかもしれないのですが、小さな、小さな自分にも、宇宙の巨きな力が働いているのを感じたりして、心があたたかくなります。

岩手県に知り合いもいなかった小さな自分が、たくさんのご縁をいただくことが出来たことに、あらためて気づきました。とっても、うれしい気持ちになりました。

昨夜は佐々木さんにもお電話しました。お声を聞けて、よかったです。みんな、大切な方々です。

一方で、法華経の信仰をしているつもりの人びとが、自分の中に巣食う我と欲に絡め取られ、また相手を責めることに終始し、自屈と上慢と二乗心という窮屈な穴の中に入り込み、「ケンクヮヤソショウ」が始まってしまうのを哀しみ、「ツマラナイカラヤメロ」というだけではなく、繰り返されてゆく謗法や罪障による負の連鎖を、断ちたい、断たせたい、と願うのです。

身勝手な法華経の信仰者は、謗法の信仰や信仰者よりも、なお罪が重いと心得て、潔く改良すべきです。真実普遍の仏法は、外側からは壊れません。内側からしか壊れないのです。素直で、正直な、一人の凡夫の信仰者。自戒が大切なのです。

そうすると、妄想的な自己正当化や拡大解釈ではなくて、一念三千、森羅万象、雲見、風見、空見、地見、草見、花見、日見、月見、星見、山見、水見、石見、虫見、鳥見、本見、人見、などなど、自分の周りにある、たくさんの真実の相、すがた、動き、営み、意思に、気づくのだから。諸法実相。あらゆるものの、真実のすがた。

謗法と罪障に曇れば、隠れたまま。見えぬまま。現れぬまま。

凡夫ですから、いつもいつも見えるわけではないけれど、御題目をお唱えし、素直に、正直に、教えていただいたとおりに動いてみたら、出会える、見えてくる、現れてくる。

だから、見えたり、聞こえたりした時は、とっても、とっても、うれしい。

みんなで、まっすぐ、やりましょう。

2 件のコメント:

  1. ありがとうございます。

    「身勝手な法華経の信仰者=謗法」とは、具体的には誰をさしておられますか。本門佛立宗以外の僧侶信者がた全員をさしてのご批判でしょうか。だとすれば国柱会の賢治もまたご批判の対象と受けとめざるをえません。わかりやすくお書きいただけると幸甚に存じます。合掌



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  2. ありがとうございます。

    「法華経の信仰者」と書いたのは、法華経の教えを慈悲の教えと学び、それを実践する人と、そのように法華経の教え、お祖師さまの教えをいただけず、独善的になり、むしろ自己の正当性のみを主張して、他の人の非ばかりに目がゆき、批判ばかりしている人について書いています。

    ですから、本門佛立宗以外の僧侶信者がた全員ではなく、私がご奉公させていただいている中で、何度も何度もお折伏させていただいても、どうしても改良できないという方のことを思い浮かべて書きました。誰をさしておられますか、と聞かれたら困りますが、いつも読んでいただいているので、書き方が曖昧で申し訳ないです。でも、そういう表現しか出来ない時もあったり、そういう表現をサラッと読んでいただけると、いいかなーと思ったりしています。本当に、ごめんなさい。

    僕が言ってはいけないのかもしれませんが、むしろ、本門佛立宗が正法を護持している、法華経を掲げていてもその教団や人びとは謗法である、と言い切れるのは、単に教学的な話ではなく、そこに集う人びとの所作振舞が日々に、夜々に、生き様として法華経の御意に適うようでなければならないと思います。

    そういう意味で、大変です。僕たち自身は。そう思って書きました。

    目下、「宮沢賢治と法華経展」の制作作業中ですが、国柱会の会員でもあった賢治ですが、その生き様は、まさに法華経の精神を、法華経の教えを、深く敬い、実践した、偉大な人物だと思っています。単に、謗法と言うことなど出来ず、彼から学ぶことが大いにあると思って、展示を企画しています。

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