毎日、今年最初の教区御講を勤めさせていただいていますー。
今年、本当に気合が入っています。猛烈なエネルギーを感じます。
まず、いつもながら、率先し、先陣を切り、先頭に立ち、ご奉公させていただく覚悟です。
今は、成長期でもなければ、穏やかな円熟期でもない。激動の時代、大変動の時代です。少し前の時代ならば許されていた甘さも、もはや通用しない。考え方も、言い方も、やり方も、シビアに、真剣に、鍛えて、削っておかなければなりません。
苦労して苦労して、何十年もかけて築いてくださったお城も、あっという間に崩れ去ります。
ガタガタ言い始めてから慌てても間に合わない。
本当の、真剣な強い危機感は、相手の批判ではなく、自分に向かうものです。
だから、悪者探しをしている時間も、そんな労力も、たいした意味はなく、あとは自分がやるだけ。自分がやるしかないと思って、励むしかないのですね。
教区御講では着物を着ているので、とっても都合がいい。白衣に袴に改良服、観光や法事でしかお坊さんを見たことがないという人も多いので、街中を歩いて、お店に入って、ご縁を結ぶことにしました。
ご縁を考えながら、妙深寺のパンフレットをお渡ししたり、お名刺を渡してご挨拶したりしています。
教化の花も、まずは教務から。教務からと言うならば、住職からです。勝負です。
お話で、ご弘通できる時代ではりません。実践、行動、現証で、ご弘通です。
教えがあるなら行動で示す。大事ならば行動で示す。
言葉にする、文字にする、行動に変える、現証を顕す。
唱える。
唱えせしめる。
声を重ねる。
最近のお折伏は、とにかく、その姿を見ていれば、その声を聞いていれば、御利益をいただくか、いただけないか、分かるということです。
時間もそうですが、まず座る位置で分かる。その姿勢で分かる。御題目の、声を聞いていれば分かります。
教務にも厳しく言っていますが、御題目の声は教務の命です。ここに強くなければ、何が出来ても失格。元気なさそうに、情けなさそうに、背後のご信者さんが教務のお看経の後ろ姿に随喜できないようなら、佛立教務は失格です。
御導師の言上中は休憩時間ではない。見ていたら、イヤイヤ、渋々教務になり、何となくご奉公しているだけの者は、分かるものです。そんなご信心やご奉公で、現証の御利益が顕れるわけがない。甘くはないのです。
お看経中の居眠りなど、言語道断、論外、話になりません。お拍子木も、自分の居眠り防止のために使っているようなら、お看経しながら罪障を積む、あり得ない修行を実演していることになる。
無始已来、如来滅の拝唱も、ヘタなおじさんのカラオケのように、変にずらしたり、抑揚をつけたり、自分だけ悦に入って唱えることは許されない。
みんなと、声を合わせること、重ねること、まず御導師に声でお給仕すること、まずはご信者みんなが声で異体同心になることが、修行なのです。こんな基本中の基本を忘れて、何が出来ても駄目です。
素直正直さは、お看経で分かります。まずお看経で、素直さ、正直さを、磨くのです。
忘れてはなりません。
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