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2014年2月26日水曜日

歴史



時は流れ、二度と戻らない。

すべてが積み重ねて来た結果なら、いま積み重ねて、未来を信じよう。

泣きながらでも、積み重ねよう。

命には限りがある。

終わりなんて、あっけなく、そして突然訪れると思っている。

だからこそ、大切に、積み重ねる。

誰よりも、意味深く、思惟深く、積み重ねる。

情熱をもって、積み重ねる。

泣きながらでも、積み重ねる。

迷っていても、積み重ねる。

腐っても、積み重ねる。

滅入っても、積み重ねる。

決めた以上、積み重ねる。

そういう道、このスタンスで、生きよう、もう死のう、と決めた。

あっけない、ちっぽけな、自分。

気づかなければ、宇宙の暗黒の中で吸い込まれ、泡のように消えるだけ。

死という絶対。

この圧倒的事実を認識し、猛烈な恐怖を抱かなければ、生命は精彩を欠き、信仰は虚しくなる。

古の僧侶らは、森の奥深くにある、風葬の墓地に赴き、数ヶ月もの間、遺体を前にしたという。

ただただ、ひたすら、遺体を見る。

当然、時の流れと共に、遺体は変化してゆく。

血が巡り、瑞々しく耀く生命というものも、死を経て滅っしてゆく。

死という滅び。

圧倒的な現実。

現実、我が身に起こること。

唯脳論からすれば、愛する人を想う大脳新皮質のどこかも、油をかけられて灰燼に帰す。

もしそうであるならば、彼らは虚無の世界に、いや世界とすらいえない境地に、いや境地でもなく、とにかく、何もない状態、そんな状態と、なる。

「死ぬのはいいが、誰かを想っていたことすら消えてしまうのが嫌です。親のこと、愛する我が子のことまで忘れてしまうなんて」

しかし、それが死だ。

無神論者、唯物論者に於ける、死とはそうだ。

あるいは、仏教を、そのように考えて、迷い込んだ人もいた。

そうではない。

法華経という真理。

法華経という希望。

とにかく、だからこそ、息つく間も惜しんで、積み重ねたい。

永遠に、宇宙の闇の中に、漂っていたかもしれない自分が、こうして陽の当たる場所に出てきて、いろいろな因縁もあって、面倒なことも多いけど、御法さまにお出会いできて、しかも、こんな素敵なミッションに参加できるようになったなんて。

僕は、こういう心境、こういう気持ちで、おります。

良潤師とケネカさんの婚約。

僕は、彼らの存在と、彼らのこれからの、すべてが、奇跡だ、現証の御利益だと、思っています。

言葉には、なりませぬ。

上手には、書けませぬ。

すべては、積み重ねです。

一日にして、成ることなど、一つもない。

果報を、使う人。

その、尊さに、気づかずに、使い続けて、それを自分の実力と勘違いしている人。

それこそ、最も忌むべき生き方です。

教化もせず、教化もできず、そもそも分かりやすくしてくださっている教えを書き写して、それを話して、それで説教がうまいだの、受けただの、あるいはそれすらも感じずに、今日もご奉公で疲れただのと言うのは、視界にも入らないし、話も通じない。

歴史。

あなたが生きて、どうなりましたか。

そう、ご宝前に、聞かれるように思います。

残念ですが、記念すべきご奉公と言いながら、ご弘通が進まなかった記念ご奉公もあります。

僕は、それは本当に恥ずかしいことだと思います。

というか、自分の生命にとって、とってももったいないことだと思います。

お金の無駄、浄財の無駄でもあるけれど、自分の生命を無為に捨てているように思います。

御法さまに、叱られます。

そのお叱りは、きっと、ずっと先だから、分からないのだけど。

良潤師と、ケネカさんと、出会った日から今まで、本当に、嬉しい。

僕は、きっと、いろいろな意味で、ダメなのですが、こういう世界へ伝える次の世代に、希望を託せることが出来て、感慨ひとしお、感無量、とても嬉しいです。

ありがたいですー。

はじめて会った頃の良潤師。

一緒に、スリランカ内戦で生まれた17万人の難民キャンプに行った時の写真。

はじめてケネカさんを紹介してくれた時の写真。

写真はこわいねー(笑)。

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