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2014年5月7日水曜日

罪障に負けるな


教区御講が始まりました-。今日は3席。このまま週末まで毎日3席のご奉公です。

 

ブラジルからの団体さまも無事日本に到着され、笠戸丸の模型、日水上人の胸像をお持ちくださったとのこと。申し訳なーい(涙)。ありがたいです。


よく、あれほどのものを、空輸できるなー。


すごい。


「よゆー」って言ってました(笑)。


ありがとうございますー。 


読み返していた、昔の文章。5年前のブログから。


「身に危険が迫れば、自然に防衛本能が働きます。世界経済も悪くなれば保護主義に傾くもの。今や他国や他の人を気づかうより、我が身を守ることだけで精一杯にならざるを得ないのかもしれません。

 

 世が荒めば人の心も荒みます。自己中心的になり、何事も人のせいにする傾向が強まり、身近な人との気持ちのすれ違い、誤解が増えるものです。

 

話を聞くにつけても、誰かが誰かの苦情を言ったり文句を聞いたり。昨今の社会情勢を背景に、そんなことばかりが異常に増えてゆくのです。

 

 不幸な出来事に遭遇して怨み節を言う人。

 

「なぜ」と自問自答して、結局答えが分からない。

 

「悪いことなどしていないのに、なぜ自分がこんな目に遭わなければならないんだ」。世の中の理不尽さ、他人の冷たさや理解の無さを恨んでも、気持ちがすり減ってしまうだけで何も生み出しません。

 

だからこそ、仏教的な生き方を身につけるべきなんです。

 

 罪障の自覚の無い人は、仏教徒ではありません。無始已来の意味、分からないのですね。

 

「カルマ」という言葉が世に氾濫していますが、正しい意味を理解している者が少なすぎるのです。

 

末法の凡夫というのは、この自覚を失い、欠落させています。だからこそ、「三毒強盛の凡夫」と呼ばれるのですが、それぞれ個々人の欲望と怒りと愚癡蒙昧の性質に、人生を翻弄されてしまいます。

 

 私たちの行いの全て(身口意の三業。つまり、「思い」も含みます)は、アクションを起こした瞬間のみで消えてゆくものではありません。

 

やったこと、言ったこと、思ったことは、消えずにそのまま残ってしまうのです。

 

考えてみれば恐ろしいことです。

 

でも、それらは「種」となって自分自身の魂、心の奥底に貯蔵されてゆきます。

 

思い、口から出る言葉、所作振舞、あらゆる行為行動は、すべて「種」となって魂の土壌に蒔かれています。

 

 昨日、子どもたちに話をしていたのですが。

 

 人生の天候や状況にもよります。

 

種がいつ芽吹くか。

 

 でも、必ず芽を吹く。

 

いずれにしても、それは自分のまいた「種」であることには違いありません。

 

 最近はガーデニングや家庭菜園を楽しむ人が多く、お花や野菜を作ったことのある人ならば、「種」の凄さを知っているはずです。

 

数ミリでしかない小さな「種」。

 

しかし、その違いによって、様々な花や野菜が育つのです。

 

数万種にも及ぶ小さな種の違いは、なかなか見分けることが出来ません。

 

でも、それが植えられ、環境さえ整えば、蒔いた種は必ず芽を吹き、種に従って花を咲かせ、実をつけるのです。

 

とにかく、種を蒔かなければ、生えてきません。

 

御教歌

「わするなよ まかぬたねならはえもせず まいたたねならはえるものぞと」

 

 いま起きている出来事は、全て自分自身の蒔いた種(因)により、芽を出した結果(果)という宇宙の真理、普遍の法則、因果の道理です。

 

このことを「果報」とも「罪障」とも「カルマ」とも言います

 

 私たちは、つい「バレなければいいではないか」と思ってしまいます。

 

しかし、一つ一つの行為行動は「種」になって毎日毎時間、刹那刹那に、心の土壌に降り積もっているのです。

 

一日に八億四千万回以上の種を蒔いているとの御指南もあります。

 

 悪い種は悪く、良い種なら良く芽を吹いてゆきます。

 

「善因善果・悪因悪果」とはこのことなのですね。

 

三毒がもたらす身勝手な「行為」が「種」となって振り蒔かれていることを知らなければなりません。

 

それらが次から次へと芽を吹いて、人生を左右し、翻弄すらしています。この事実を知り、受け入れるのが仏教徒のはずです。

 

 イヤな出来事が続いても、その「出来事」には間違いなく「原因」があります。

 

目の前に出現した出来事には「種」があるのです。

 

それは自分が蒔いた種であり、悪い種や根や芽を抜き取って、良い種を植えてゆかなければ真の幸せは訪れません。

 

 嘘を言えば、嘘を言った相手に嘘をつき返されなくても、いずれ誰かから嘘をつかれます。

 

人を殴る。その相手から殴り返されなくても、いずれは誰かから殴り返されます。

 

悪口や陰口も同じです。

 

誰かを騙してお金を手にしても、いずれ誰かに騙されてお金を手放すことになります。

 

 仏教とは単に倫理や道徳を説くものではありません。

 

「良いことをせよ」「悪いことをするな」では不十分であることを知っているのです。

 

末法の凡夫とは、自分の欲深さに負けてしまいます。ですから、善なる行いは僅かで、悪しき所作は圧倒的に多くなります。それでは結局人生を空回りさせ、悪循環の生き方が続いてしまうのです。

 

 物事の本質、目の前で起こる出来事の「理由」「原因」が見えていない生き方こそ不幸です。それで一喜一憂していても仕方ありません。

 

「良いことは自分のおかげ、悪いことは他人のせい」

 

それこそ誤りです。

 

悪い出来事、悪い状況が訪れても、全ては自分の蒔いた種という真実を見据えるべきで、その上で、今自分の蒔いている種が、どんな種なのか考えるべきです。

 

御教歌、

「何事も たねが大事ぞ成仏も 本因妙のたねにあらずば」

 

 善事を勧め悪事を懲らすという勧善懲悪だけでは不十分な生き物が人間です。

 

だからこそ、「最高最上の種まき」に行動を起こせと教えられています。

 

私たちは、本因下種の御題目をいただいて、それぞれ抱えている問題、目の前の状況も違うのですが、幸せの種を心に収め、幸せの種まきに励むことが出来れば、必ず最高の芽が出てくるのです。

 

罪障の種や芽は消滅され、人生が明るく開け、輝いていくに違いありません。

 

 仏教はアクション、行動です。

 

過去を恨み、他人を恨んでもあまり意味はありません。

 

人には厳しく、自分には甘い人、他人のことはよく見える、自分のことは見えない。人間関係のトラブルはここから生まれます。

 

人には敏感、自分のこと、自分のしてること、言ったこと、やっていることには鈍感。これが不幸の原因です。

 

我が身の罪障にこそ敏感になって、幸せの種まきへと歩み出したら本当に明るく生きてゆけるようになる。どんな悪世であろうと、運と縁が回り出します。

 

御歌句、

「信心をする気が運の開き初め」

 

 ご信心をする気になり、日々の行為行動として実践できるようになれば、運が開いてゆきます。

 

そこに踏み出させないのが罪障。

 

罪障に負けるな。信心に踏み出せ。そう励ましたい。」

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