教区御講に代行をお願いしたなんて、振り返ってもなかなか無いことです。本当にいろいろなことが詰まっていて、サインだらけです。
だからこそ、顧みて、重ね見て、実相、本当の姿、本当のことを見て、しっかり練ること、しっかり定めること、決めることができるのだと思います。
教えざるは師の失(とが)、学ばざるは弟子の失(とが)。
もう、どっちがどっちだか分からないくらい、信心と、愛と慈悲と、期待と未来と、因縁と因果と、複雑に絡まりあっているもの。
どんなに言葉を整えても、甘えは甘え、慢心は慢心、アホはアホ、もっと真剣に自分を見据えないと、御法さまに申し訳ない。
申し訳ないと言いながら、申し訳ばかりしている。
申し訳ないと言いながら、申し訳にだけ長ける。
それがダメなんです。
まっさら、まっさらになって、ご宝前に向かう美しさ。
こうなりたいという線が、み仏の描いてくださった線になる。
そこを、線を軸にして、鍛える。
死ぬまで、その線に近づこうと、自分を変えてゆく。
つくづく、プライドというものも、そのレベルに寄ります。
人間は、恥を恐れてこそ改良に真剣さが備わります。
「恥ずかしい」という気持ちの無い者は教えても甲斐が無い。
しかし、小さな、レベルの低いプライドを「恥」の線にしている者も多く、これでは何も聞こえない、言うことも偽りばかりになります。
一人ひとりの、軸こそ大事。
ほめられても恥ずかしいと思ったり、罵られても有難く感じたりするのが人間です。
大事なことを大事と思わず、恥ずかしいことを恥ずかしいと思わず、美辞麗句にすぐに酔い、自惚れ、調子に乗る人は、未だ仏教徒たり得ない。
お祖師さまがお諭しになられているのは、褒められても恥に思うような感性。
「愚人にほめ(讃)られたるは第一のはぢ(恥)なり。」(開目抄)
お祖師さまのこの感性は、俗な言葉で言えば男前すぎて、シビれます。
いくら、褒められても、調子に乗らない、ブレない、確固たる信念、信心。
お祖師さまの御妙判には、「はぢ」「恥」というお諭しが数多くあります。
「此の経文を見ん者、自身をはづ(恥)べし。いま我らが出家して袈裟をかけ、懶惰懈怠なるは是佛在世の六師外道が弟子也と佛記し給へり。」
お祖師さまは、その軸を教えてくださいました。
だからこそ、私たちの、柱であり、眼であり、船なのだと思います。
「御本尊にうそつくもの。御罰ありて利生なし。」
「欲はおそろし。正直はおそれなし。謗はおそろし。信心はおそれなし。」
信心とは、つくづく、人生そのもので、一瞬のことではありません。
世に棲む日々と、世を去る日のことが、すべてにおいて、信心そのものです。
ひらめきとか、話術とか、理屈とかでもない。
一瞬間の、御利益でもない。
「近き現証を引て遠き信を取べし。」
まさに、人生そのもの。
世に棲む日々と、世を去る日の修行のこと。
久しぶりに『ジョン・レノン その存在と死の意味』という本が目を引いて、本棚から取り出してみました。
一人ひとり、すごい意味があります。
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