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2015年4月4日土曜日

22年目の佛立魂

昨日は、とても大切な日でした。

インシーでのレッスンはもちろんでしたが、僕がお坊さんとして本物の道を求めて歩む、最大の出来事が起きてから、ピッタリ22年目となる日でした。

22年前、平成5年4月3日、父が瀕死の大事故に遭いました。

瀕死の重傷でした。

脳挫傷、頭蓋骨骨折、頭蓋底骨折、脳内浮腫、肋骨が肺に刺さったことによる気胸、自発呼吸が出来ず、人工呼吸器を付けた意識不明の状態となりました。

僕は、大学の卒業と同時にジェットスキーのプロを引退して本山に行かせていただきました。

変なプロフィールですが、仕方ありません。大学時代はスポーツに熱中させてもらっていました。

しかし、幼い頃から父の姿を見てきて、佛立教務道に憧れていました。

ジェットスキーのプロからお坊さん。

ちょっと変ですが、真剣そのものでした。仲間も応援してくれました。

本山宥清寺の学生寮に寄宿して、佛立教育専門学校に通い、平成5年の3月末に卒業して妙深寺に戻りました。

その直後、やっと父と一緒にご奉公させていただける、僧侶として、佛立教務としての生き方を教えていただける、と思った直後に、この想像もしなかった大事故が起きたのでした。

いま思い返せば、この事態こそ、私のようなバカ息子への最大の教育でした。

目を覚まし、魂に植え付ける、壮絶な信心の相続でした。

本山での修行を終えたとはいえ、スポーツばかりしていたバカ息子に変わりはありませんでした。

分かったつもりではいても、分かっていないことばかりだったと思います。

そんな私の目の前で、父が事故に遭いました。

フッと乗ってみた自転車の操作がうまく出来ず、6メートル近い崖から転落したのです。

倒れた父の耳の奥から、血が吹き出すのを見ました。

とっさに、もう助からないと思って、本堂に駆け上がって、ご宝前に向かってご祈願させていただきました。

仏教は、深遠な哲学を説くだけではなく、具体的、体験的に、救いをもたらすものです。

私は、この妙法のお力におすがりする他ない窮地の中で、進むことも下がることも出来ない中で、お医者さんまでが「何も出来ない。手の施しようがない。脳圧が高いので頭蓋骨を開けたいが、頭蓋底も骨折しているために脳幹に影響することが予想されるから開けられない。だから何も出来ません。」と言われる中で、愛する人のために、祈るしかなくなったのでした。

意識不明の父のそばで、病室にいても、手を握っても、家に戻り、本堂に上がり、どこに行っても、祈りました。

願いを、祈りに代えて、御題目に乗せて、御本尊に向かって、唱え重ねたのでした。

「お父さんを助けてー!」

そう叫びたくなる気持ち。

22年前の、あの気持ちは、今でも心に刻まれています。

変な言い方ですが、瞑目して祈るのではなく、声に出して祈れることのありがたさを感じました。

「静かに祈りなさい」

そう言われても、無理なものは無理です。

愛する人を助けてほしい。

そんな、等身大の人間の、ごくごく普通の人間の素直な気持ちそのままに、祈っていいと教えてくれる。

倫理的に、道徳的に、戒律的に、そんな願いを捨てなさい、変えなさい、諦めなさい、というのではない、法華経本門の教え。

この体験こそ、私の原点となりました。

22年前のあの日も、桜が満開でした。

南無妙法蓮華経の御題目は、文字のようで文字に非ず、日本語ですらなく、生きてまします御仏、その御魂、生命そのものと教えていただきます。

そう教えていただいても、なかなか信じることなんて、出来ない。

「言うことの合えばこそ、人も信ずれ」

御題目をお唱えし、凡夫の祈りと、御仏の生命とが境智冥合して、祈りを叶えてくださる。

「我、諸の衆生を見れば苦海に没在せり。故に為に身を現ぜずして其れをして渇仰を生ぜしむ。其の心恋慕するに因って乃ち出でて為に法を説く。神通力是の如し。」妙法蓮華経 如来寿量品

この御仏のお約束も、何の特殊な力も持たない凡夫が、心の奥底から祈りを捧げて、何事も起きなければ、虚言、空言になってしまいます。

「但近き現証を引て遠き信を取べし。」法蓮抄

日蓮聖人、お祖師さまが、確かに信じることは遠くにあって、なかなか腑に落ちないかもしれないが、目の前で起こる、法華経の題目を唱えて、祈りが届いた、助けていただくことが出来た、という、現在の証拠、現前の証拠、御利益を見て、遠くにある「信」も、取れるではないか、とお諭しくださっています。

「宗論問答無益なり。現証の有無を以て、法の邪正を知るべし」

ありがたい、私たちのプリンシプル。

人を救えなかったら、どれだけ尊いものも意味がない。去年のカレンダーは、美しくても生活の役には立たないのです。

「諸仏救世者。大神通に住して衆生を悦ばしめんが為の故に無量の神力を現じ給ふ。舌相梵天に至り、身より無数の光を放て、仏道を求むる者の為に、此の希有の事を現じ給ふ。諸仏の驚咳の声、弾指の声、周く十方の国に聞こえて、地皆六種に動ず。仏滅度の後に、能く是の経を持たんを以ての故に、諸仏皆歓喜して、無量の神力を現じ給ふ。」妙法蓮華経 如来神力品

法華経(妙法蓮華経)は、本当に慈悲に溢れていると思います。

「神力」

たくさんの方が御題目で助けていただいたというお話を聞き、それはそれで信じていたのですが、頭ではわかっても、心に至っていなかった。

父が瀕死の重傷となり、泣き崩れながら、本山での修行を終えてなお、半信半疑の自分がいたことを鮮明に覚えています。

御題目を唱えて。

しかし、もはや、それ以外ない。

末法に生まれた私たちを救済する手だてとして、凡夫の願いを聞き届けてくださること。

仏教は、単なる哲学ではないということ。

妙法蓮華経の中の、如来寿量品や如来神力品に説かれたように、苦しんだり、悩んだり、傷ついたりする私たちの心を、確かに、癒し、救う力があるということ。

しかも、因果の道理に照らして、罪障と功徳の法則に照らして、お救いくださるということ。

22年前の4月3日。

私たち家族は地獄のどん底に堕ちました。

本当に、苦しかった。

目の前で、意識不明の父を見守りながら、何日間も病室で朝を迎えて。

ただ、妙深寺の本堂では、24時間、ずっと回復を祈る御題目の声が響いていました。

そして、事故からぴったり49日目、それまで意識不明の状態だった父が、目を覚ましたのでした。

100%、このようなことはあり得ないということが、あり得たという事実。

サイキックでも、呪術でも、哲学でも、倫理道徳でもなく、それらを遥かに超える体験をさせていただきました。

ロジック、サイエンス、プルーフ。

僕の人生の中で、こんな体験をさせていただいたことが、何よりの糧となっています。

理屈だけでもなく、特殊なスピリチュアリティーやその力でもない。

ザ・仏教に備わる力を、確信するものです。

これからも、今回の人生で、こんなすてきな体験をさせていただいたことを胸に抱いて、ナチュラルに、ロジカルに、科学的に、臨床的に、立証的に、歩んでゆきたいと思います。

今日は、麩屋町のご奉公に行けず、申し訳ありませんでした。

昨夜は、篠亀久雄さんのお通夜があり、今日は告別式でした。

篠さんは、本当にすてきな方でした。

奥さまの篠行子さんはもうすぐ90才ですが、まさにお手本のような佛立仏教徒です。

いつも、いつも、口癖のように「御法さまのおかげ」「何もかもおはからい」と言っておられます。

今回、長年連れ添ったご主人の帰寂に際しても、「これほどのお見守り、お導きはありません。御法さまを信じていたら間違いありません。私はこうしてここまで来れたのです。」とご挨拶くださいました。

アインシュタインの有名な言葉を思い返しました。

人間には大きく分けて2つのタイプがある。

1つは、この世の中には奇跡なんてないと思って生きる人。

実際、世の中は世知辛いし、人生には苦労がつきもので、人間は欲深い。

だから、奇跡なんて無い、と生きる人。

もう一つのタイプは、何もかも奇跡だと思って生きる人、世の中は奇跡が溢れていると思って生きる人。

まさに、篠さんはそういう人だし、生きた仏教が教えているのは、このことです。

もちろん、苦しいこともあるし、イヤなこともある、無常だし、時に、世の中も、人も、無情だ。

しかし、やっぱり人生は奇跡に溢れてる。

何もかも差し引いても、奇跡に溢れている。

もし、絶体絶命、万事休すの時が訪れても、御仏の慈悲は存在する。

助けていただける。

そのために、僕たちは僧侶としてご奉公させていただいている。

生きとし生けるものの、さいはいのために。

たくさん書いてしまいました(汗)。

すいません。

本当に、22年経ちました。

ありがとうございます。

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