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2015年5月24日日曜日

15年前の文章です。暗くてすいません。

御参詣御礼
清潤
 
 本日、当山御住職松風院日爽上人御本葬義に、御出座賜りました奉修御導師、並びに御導師様御講師様方又ご参列いただきました有縁のご信者様方、御法務ご多忙の中御参集いただき、誠にありがとうございました。

 御住職日爽上人は、平成十二年六月十四日、横浜市大付嘱病院にて、今般娑婆での化導を終えられ、寂光へと向かわれました。

 法寿六十二歳という年齢を凡慮で推し量りますと、まだまだこれからと云う若さで、その一期の化導を終えられてしまわれました。

 恐れながらその御一生を振り返りますと、当に正法弘通の使命と佛立教務道の実践を我々に示し、短いとはいえ太く偉大な人生を送られたと拝察致しております。

 思いますれば、ご住職は昨年先住日博上人御三十三回忌法要を終えられた五月頃より体調不良を訴えられ、家族の申し出で、一度詳しく検査をしていただく運びとなったのであります。

 その結果は進行性の最悪の癌と云う宣告でありました。

 我々ならば到底受入難い状態を御住職はそれら一切を受け入れ、緊急手術に向かわれたのであります。

 そして一日一日と我々家族への指導と御法の御利益を示され、退院後もご信者に心配は掛けられぬと即御奉公に復帰して励まれました。

 本年四月まで妙深寺、法深寺の教区御講、長松寺の御総講を奉修され、最後の最後まで御法御弘通一筋で過ごされたのであります。

 そんな中、去る六月十四日、午前四時、病室の母から電話があり、急遽病室に向かうことになりました。

 六月に入ってからと云うもの、日増しに病状が悪くなっており、一抹の不安がよぎる中、病院に駆けつけたのであります。

 病室に着くと、呼吸が苦しいのか酸素マスクをつけられておりました。

 病室に入って「御住職、清潤です」と云うと「ウン、ウン」と頷かれ、枕元に行くといつものように「寺報は?」と聞かれましたので、「大丈夫です」と申し上げました。

 自分の臨終間際までお寺のこと、ご信者のこと、御弘通のことを気に掛けておられることに、今更ながら驚愕せずにいられませんでした。

 しかも、御住職が最も気に掛けておられた先住日博上人の孫「康仁」の名を呼ばれました。
 康仁は御住職のお怪我、病気のお姿を見て、御弟子に加えていただくべく、得度の御願いをし、妙深寺に見習いとして入寺しておりました。

 最後を覚悟したかの如くに、康仁を呼ぶように言われたのです。
 ご自身の状態などは、一向に無視し、唯々弟子となる康仁の得度を気にしておられたのであります。

 電話で連絡を取り、康仁に大至急病院に向かうよう伝え、御住職の耳元で「康仁が高速に乗りました」「ウン」「高速を降りました」「ウン」「下に着きました」といいながら到着を待ったのであります。

 朝の四時から病室で御題目をお唱えしていても、病院の主治医の先生、看護婦さんも、御住職に「長松さん。皆さんが一生懸命お祈りしてくれていますよ。大丈夫ですよ。頑張って下さい」と言ってくれました。

 康仁は、到着すると入るなり泣き叫びながら御住職の枕元に走り「御住職!康仁です」とすがりつき、看護婦さんが貸してくれた剃刀に手を添え、剃髪の儀が行われました。午前六時十五分、御遷化の一時間三十五分前のことであります。

 その場にいた一同はもう涙、涙の中で唱題しながらの出来事でした。

 御住職は常々「生き恥かいても死に恥かくな。生きている間は口でいくらでも繕うことが出来るが、死んだ時には顔は隠せない。教務として、人間として、真っ直ぐ生きなければ、死んだときに後悔する」と言っておられたことが頭を過ぎました。

 それから私は、御住職の頭を左腕で抱きかかえながら御題目をお唱えしていました。

 ふっ、といざ臨終を迎えられる時、私は御住職に申し上げました。

 「御住職、さあいよいよ寂光参拝でございます。御住職は長松寺を守り抜かれました。そして先住を讃え尽くして、妙深寺を四五〇戸から宗徒一二〇〇戸まで御弘通されました。法深寺…大和別院を一から建立し寺号公称されました。そして、いま康仁を得度させたんです。堂々と開導聖人、日峰上人、日博上人にご報告して下さい」と語りかけました。

 いま考えても、何故このような事が言えたのか分かりません。そして、七時五十分、御遷化なされたのであります。

 実は、これらすべてはビデオと写真に納めてあります。

 ご信者さんであり日本看護婦協会の部長、瓜生ご夫妻や深恭師、妹のカッチおばちゃんが傍についてのことであり、家族だけでしたら、作り話とも思われるでしょうが、これらは実際に我々の目の前で起きた御住職の最後のお姿であり、最後の最後まで私たちに「佛立魂」を示して下さったと確信しております。

 そして、八時三十分まで私は病院にいたのですが、そのほんの三十分の間に御住職の顔はみるみる真っ白くなり、高祖大士が示された臨終の姿を目の当たりに感得させていただいたのであります。日焼けで出来た顔のシミまでが、みるみるうちに不思議と消えていきました。

 御遷化後は自坊の妙深寺へご遺体をお移し申し上げるべく、白衣、改良服にお召し替えいただきました。清康(康仁)師は、最初で最後のお給仕が病室でのお召し替えで、泣いておりました。
 いざ病室を出発と云うときには、主治医、看護婦の方々は、その世人とあまりに違う臨終の姿に一同が驚き、御住職が病院を出られるときには廊下に整列し、掃除のおばさんまでが手を合わせて泣いて送って下さったのであります。

 まさに、御住職が言っておられたとおり、見事な臨終、佛立教務の最期の姿でありました。

 誰もが、真っ白で、寝ているかのように穏やかで美しいお顔であると、言って下されたのです。

 御法門で「化導を終え、寂光へ向かわれる」と教えていただきますが、御住職の一生を振り返りますと当に精一杯、頑ななまでに本門佛立宗を愛し、ご信者を愛し、御弘通第一で歩まれたなぁ、と感得しています。

 最後の最後まで、我々に佛立教務道を貫くこと、末法の御弘通の大変さを教えて行かれたように思われてなりませんでした。

 六十二歳という若さではありますが、その臨終から拝察致しますと、御住職は大変な果報の中で過ごされたように思えるのであります。

 長松寺を護り通した日峰上人、ゼロからの御弘通を教えてくだされた日博上人、師僧であられる日颯上人、近代弘通を常に考えておられた日晨上人、日地上人といろんな方々の出会いを見てもうらやましい限りであります。

 本日、この本葬儀にも大勢の方のご参集を賜り、本当に有り難い限りであります。

 御住職は最後まで、不肖の愚息である私に、常に自分の身体を使って、正法護持と法城護持の大切さ、御弘通ご奉公の困難なること、大変さを教えて下さいました。

 正法弘通の佛立を愛し、本山を愛し、長松寺を愛し、妙深寺を愛し、法深寺を愛して、一生を送られたご住職、そんなご住職のお徳を汚すことなく精進させていただくことが大事であると思っております。

 どうか今までにも増して皆様方のご厚情にすがり、叱咤激励下されますように、またご指導ご鞭撻下さいますように御願い申し上げます。

 甚だ略儀でありますが、本日の御礼の挨拶とさせて頂きます。

(平成12年8月妙深寺報より)

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