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2015年11月15日日曜日

「人間ではなくなってしまう。それが戦争の真の恐ろしさです。」

まさか、そのレストランにエンゾくんがいたなんて、思ってもいませんでした。

恐ろしいテロのニュースに心震わせながら教区御講に向かいました。

勝子さんがお迎えに出ていてくださり、少しお話をしました。

きっと大丈夫だろうと思いながら、

「パリの美穂さんたちは大丈夫でしょうか?」

と尋ねました。すると、

「すぐに主人が連絡をしたんですが、エンゾくんが襲撃されたレストランの一つにいて、何とか逃げ出して、地下鉄に乗ったけれど地下鉄も止まって」

と。ビックリしました。柴山局長の姪御さんはパリに住んでおられます。ブラジルか、イタリアのご奉公の途中で、ご自宅にお助行に行かせていただいたこともあります。コレイア御導師にもお助行に行っていただいたこともありました。

教区御講でも、ご祈願をさせていただきました。

長い一日。

昨夜、エンゾくんが歩いて自宅まで帰ってきたと聞き、やっと安心しました。

しかし、この同時多発テロによって、120名を超す方々が亡くなられ、数百名の方々が負傷し、数え切れない方々の心が、深く傷ついたことは間違いありません。

ただただ、祈るばかりです。

1月の、出版社への襲撃事件を、はるかに上回るテロ攻撃は、本当に、もう戦争が始まっていることを、感じさせるものとなりました。

ISの出した7分間の声明文では、

「(イスラム教徒は)背教者と戦うよう命じられている。そこには利用できる武器も車もある。毒物でさえ使える」

と訴えていました。イスラム過激派が集うサイトには、テロを称賛する書き込みが相次ぎ、

「われわれがシリアで味わったのと同じ苦痛を味わうといい」

「この攻撃に続くのは私だ」

など、おぞましい憎悪が書き連ねられていると言います。

この夏、戦争と平和、敵と味方の境界を見つめながら、過ごしてきました。

過去の戦争の悲惨さから、現在の平和の大切さを学ぼうと努力してきたつもりですが、すでに、私たちは、現在進行形の、戦争の真っ只中にいるのかもしれません。

いや、きっと、そうなのですね。

敵と味方の境界を見つめるなんて甘い、敵は敵、味方は味方、優柔不断な、甘えたことを言っている時ではない、敵を殲滅し、勝利せよ。

同胞が攻撃され、自分の家族が殺害され、傷つけられたら、そうなる。

しかし、やはり、仏陀の教えをいただけば、敵と味方の境界線に、立ち戻されます。

人類普遍の価値感とは、自由と平等と友愛である以上に、「命は地球よりも重い」ということではなかったかな、と思います。

時に、神も、仏も、素敵な言葉も、異なる文化を持つ人びとを攻撃する材料として乱用されてきたことを、僕たちは知っているはずです。

価値感や信仰を広めるという名目で、恐ろしい破壊と虐殺を繰り広げてきた人間の歴史。

70年前の戦争も、実際はその後も絶え間なく続いてきた戦争も、人間の生命を軽視して行う攻撃の連続であり、味方の命と敵の命に圧倒的な軽重の差を置けるから行えるものです。

家族の死と、他人の死は違う。

同胞の死と、他国の人の死は違う。

その「違う」ということが、感情的にはそのとおりだけれど、憎悪の連鎖、不幸の連鎖、戦火、戦乱の原点であることを、知っていても、何ともすることが出来ないのが、人間の業の正体なのでしょうか。

同じ人間だ、同じように、愛する人のいる人間だ。

この言葉こそ、普遍的な価値感の原点であるはずですが、戦争となれば、この言葉を「敵」に向ける人はいなくなります。

数々の悍ましい蛮行を見ても、IS(イスラム国)などのテロリストたちは、敵の命など何とも思っていないのだと思います。

私たちとて、恐ろしいテロを目の当たりにして、彼らの中に一分の人間性も見出せなくなります。

これが、戦争なのだと思うのです。

テロリストたちは「十字軍」に対抗するという意味で「聖戦」という言葉でイスラムの人びとを鼓舞しようとしますが、米国同時多発テロの直後、アフガニスタンを攻撃する直前、その後を考えれば最も慎重になるべき時に、ブッシュ元大統領は軽率な言葉を用いました。

”This crusade, this war on terrorism.”

凶悪なテロに「Crusade(十字軍)」という言葉で対抗したのは、軽率としか思えません。

決して、この構図で捉え、そうした言葉で鼓舞してはならないと思います。

今後、どんどん麻痺してゆくことに、恐れを感じます。

13日の新聞で、85才になられた歴史家の半藤一利さんの「悪夢の夜を生き延びて」という記事が掲載されていました。

70年前の3月10日、東京大空襲の夜の記憶。

父と寝ていた向島の自宅に焼夷弾が直撃し、消火を試みたが逃げ遅れたとのこと。

当時14才。

炎と煙が渦巻く下町を右往左往し、川べりで猛火に囲まれた。

「かんなくずにように人が燃え、川に逃げた群衆も死にものぐるい。どちらも修羅場でした。」

助けの船に何とか乗れたものの、水面でもがく人々にしがみつかれ、船から転落。水中でもみくちゃにされ、水を飲み、意識も混濁。

すがりつく人々を夢中で突き放し、蹴り飛ばして水面に浮かび、船に助けられた。

岸は地獄だった。

乳児を抱き、幼児を連れた女性が進退窮まり、次々に火だるまになっていった。

夜明けに船から上がると、黒こげの死体が折り重なっていた。

そして、半藤さんは言いました。

「でも、むごいとも無残とも感じないんです。殺す側も、殺される側も、生き残りも、人間ではなくなってしまう。それが戦争の真の恐ろしさです。」

記事の中にあった、この言葉を、深く受け止めなければならないと思います。

きっと、そのとおりなのです。

「むごい」とも「無残」とも感じなくなってしまうということは、一体どういうことでしょうか。

このことは、頭で理解できても、心のことだから分かり得ないと思います。

だから、戦争の中にいた人から、戦争を学ばなければ戦争の正体、人間の正体が分からない。

人の命を、人の命として思えない。

むごいとも、かわいそうだとも、思わない。

世界中に、そんな恐ろしい心の闇が広がっています。

敵の心の中にも。

もしかすると、僕たちの心の中にも。

IS(イスラム国)の声明にある「毒物でさえ使える。」という言葉。

一部の狂信者が、核兵器や生物化学兵器を手にした時の恐ろしさは言語を絶します。

フランスには原子力発電所も多く、本当に、逼迫した緊急事態が起きているに違いありません。

人の心を何とかしないと、何ともならない。

そのために、仏教という希望があるのだと思います。

今日、晴天の下、盛大に、長野 本晨寺のお会式を奉修させていただきました。

86名のお参詣をいただき、安藤事務局長の決意表明もあり、涙が出ました。

先日、妙深寺のお会式でもご紹介しましたが、小学館の百科事典で「お会式」を調べてみると、「宗祖日蓮の説いた一天四海 皆帰妙法の理想を確かめ合う」のがお会式であると出てきます。

教務も、ご信者の皆さまも、お会式にお参詣して、お祖師さまの理想を確かめ合えたらいいですね。

なぜ、理想なのかも、身に当てて考え、実践として説き、体現しながら伝えなければならないと思います。

そうでないと、お祖師さまの理想は非現実的な空論と受け止められて、伝わり得ません。

いま、新幹線の中です。

横浜に着くのは夕方。

急いで荷づくりをして、ネパールに向かいます。

1 件のコメント:

  1. ありがとうございます。

    お気づきかとおもいますが、いまツイッターで下記のメッセージ(原文アラビア語)が世界に広がっています。

    「敬愛するパリよ、貴女が目にした犯罪を悲しく思います。でもこのようなことは、私たちのアラブ諸国では毎日起こっていることなのです。全世界が貴女の味方になってくれるのを、ただ羨ましく思います。」 シリア出身UAE在住の女性アナウンサー

    テロリスト集団の殲滅を正義とかかげ、アメリカ軍とその有志連合(フランスも日本も含まれる)が行っている無差別爆撃が、どれだけ多くの一般市民を殺戮しているか。わたしたちはその事実にも思いを馳せるべきでしょう。

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