ネパールから帰国して4日。
昨日の朝は朝参詣、ご供養当番、午前中はお助行、ご面会、午後13時から教務会議、夜19時半から局長室会議。
いろいろなご奉公がありますが、「班長さん、ありがとうございます」にも書かせていただいたとおり、その時、人生の、過酷な壁を、共に見上げてゆくことが、私たちのご奉公の最たるものと思います。
運命を、一人きりで乗り越えるのは容易ではなく。
「其の心、恋慕するによりてー」
恋慕渇仰の心を奮い起こして、生きて、臨むー。
帰国して、心の奥に残留している思いを忘れないように、大切にしています。
自他彼此、自分と他人、あいつとこいつ、生きると死ぬ。
ネパールでは、あまりにも、その境界が近く、低く、そのことが人生の厳しさを教え、だからこそ人間の謙虚さを育み、自然との近さを、否応なく感じられるということ。
私たちは清潔だけれど、どこか孤立していないか、浮いていないか、分断されてはいないかと、また深く考えていました。
巨大な自然界の中の一部であること、様々な生命の中のはかない一つであることを、実感する。
これは、とてつもなく大切なことだと思います。
千や万の説法を聞いて分からなかったことが、目の前で人が焼かれてゆくのを見たり、私たちが食する動物たちの、最期の叫びを聞いたりすることで、腑に落ちること、心に届くことがある。
何十回、何百回、御法門を聴聞しても、全く分からない、届かないのは、その素地に強烈な「境界」があるからです。
分からないことが、分からない。
古い仏道修行では、森の中の墓所(そこは埋葬せずただ遺体を置いてゆくだけの場所ですが)に行き、朽ちてゆく人の姿を何ヶ月も眺めるだけという修行もあったと伝えられています。
「臨終の事を習ふて後に他事を習ふべし」
とはいえ、如説修行抄にお示しのとおり、お祖師さまほどのお師匠さまから、朝に夕に直接教えていただいていても分からず、何かあった時に「いまはじめて驚き、肝を消して」というのですから、そのハードルは恐ろしく高いです。
正しく見て、正しく行う。
人生、ご信心。
パシュパティナートでは、本門佛立宗の僧侶だからと、荼毘に付される人の数メートル手前まで案内され、そこで御題目をお唱えしていました。
首を落とされる山羊や鶏たち。
さっきまで元気に動いていたものが、一瞬で動きを止める。
生と死。
その境界の絶対なることと、その境界の密接なること。
これが無常なのかと、分かっているつもりでしたが、あらためて感じました。
他にも驚いたことがありました。
土間、つまり土が固まっただけの家の中で、あぐらをかき、食器を下に置いて、そのまま食事をします。
自家製のヨーグルト、バッファローのミルクから作った乳製品や、どぶろく、干したもの、発酵させたもの、いろいろなものを出してくださり、それをそのままいただきます。
一つ一つが尊いご供養ですから、国や文化が違ってもすべて有難くいただきます。
本当に、すべて美味しいですし、ネパールに限らずお腹を壊したことは一度もありません。
来客者、そして家長から食べ、次に息子が食べ、お嫁さんや子どもたちは夜が遅くなってもその後に食事をします。
ミルキーババの息子さんは、ミルキーババが残したお皿のご飯を食べ始めました。
聞くと、それが当たり前のことだと言っていました。
なにか、「差別」ではなく、尊い「順序」がある。
簡単に、男尊女卑などと言えない、圧倒的な歴史と文化の力があります。
この食事の後が驚きます。
働き者のネパールの女性たちは、一生懸命に客をもてなしてくれます。
私たちのアルミ製の食器を片付けてくれるのですが、その食器をすぐ家の外に出します。
当然ながら犬がやってきて、残飯を残らず食べる。
驚きましたー。
日本人からすると、考えられないことです。
僕たちからすると、お父さんのお茶碗、お母さんのお茶碗、子どもたちのお茶碗すら、決まっているというか、あるもので。
お箸も、なんでも。
人間と、動物。
でも、このことからも、またたくさんのことを感じて、学べたように思います。
ネパールでは、一番年長の女性が最も朝早く起きることになっているそうです。
僕がビカスの家に泊まった時も、お母さんは5時前に起きて何かをなさっていました。
続いて15才の女の子も起き出して、外に出てみると牛や山羊に水や食事を与え、昨日の食器も洗ってくれていました。
犬が舐めて汚いな、と思う方がほとんどだと思いますが、よく考えてみるとそうでもない、と思いました。
日本でこうしたことをするつもりはありませんが、ネパールから何かを学ぶことがあるとすれば、この自分たちが引いている「境界」の大切さ、同時に曖昧さや愚かさだと思いました。
自分、他人、あいつ、こいつ、生と死。
無常が無常でなくなるのは、この境界を乗り越えることだから。
信仰の原点だと思います。
上行所伝の御題目によって、現証の御利益を顕し、無常と生死の大海を渡る。
虚しからず。
今日は、京都佛立ミュージアムの運営委員会です。
御教歌
「此ゆふべ 死すともよしと思ふ身に あしたもあらば法(のり)につかへむ」
「あすしらぬ 我身と思へくれぬまの けふハ人こそ悲しかりけれ」
「あすしらぬ 人の上とはきゝながら ゆくりなくしぬけふやある覧」
高祖日蓮大菩薩 御妙判
「夫以れば日蓮幼少の時より佛法を学び候しが、念願すらく人の寿命は無常也。出る気は入る気を待事なし、風の前の露尚譬にあらず。かしこき(賢)もはかなき(愚)も、老たるも若きも定め無き習(ならひ)也。されば先臨終の事を習ふて後に他事を習ふべしと思ひて」妙法尼御前御返事・昭定一五三五
「倩(つらつら)世間を観ずるに生死無常の理(ことわり)なれば生ずる者は必ず死す。されんば憂世の中のあだはかなき事、譬へば電光の如く朝露の日に向て消るに似たり。風の前の灯の消やすく、芭蕉の葉の破やすきに異ならず。人皆此無常を遁れず、終に一度は黄泉の旅に趣くべし。然れば冥途の旅を思に、闇闇としてくらければ日月星宿の光もなく、せめて灯燭とてともす火だにもなし。」松野殿ご返事・昭定一二六七
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