湿度の高い京都の夏。
麩屋町の庭を美しい苔が覆います。
本山の開導会に出座させていただき、今日は早めに新幹線に乗せていただきました。
明日は妙深寺の教区御講が2席、その前に今夕は富士山まで登らねばなりませぬ。
開導聖人の祥月ご命日が7月17日であったこと。
祇園祭の前祭(さきのまつり)、山鉾巡行で京都市内が最も賑わう17日。
偶然ではないと思います。
京都で生まれ、京都で育った、幕末維新の仏教改革者 佛立開導長松清風日扇聖人です。
仏教を再生させ、生きた仏教として民衆のもとへ帰した長松清風というお名前が「京都検定」に出てないのはおかしいー(笑)。
126年前のこの日、夜明けから麩屋町の法宅(現・長松寺)の前をご信者さまがお見送りに集まっておられました。
もう、四条通りには山鉾が立ち並んでいたであろう7月17日の朝のことです。
開導聖人のお身体が弱られていることを心配されたご信者方は、「今生のお別れになるかもしれない」と思って集まっておられたのですね。
そして、実際にそのようになったのでした。
7月17日は京都が混雑するから大変だと言う人もいますが、この日でいいんです。歴史的な意味があるんです。そんなことで開導聖人への報恩の気持ちが萎えるなら、弟子や佛立信徒ではないということなのだと思います。
「麩屋町のご法宅」と呼ばれた現在の長松寺は、四条通麩屋町から少し下がったところにあります。
7月17日の朝、祇園祭の山鉾巡行は長刀鉾の稚児が「注連縄」を切ることから始まるのですが、この結界、境界は、四条通と麩屋町通の交差点に引かれています。
この麩屋町通というのは京都の市中でも特別な意味を持っています。
だからこそ、開導聖人はお求めになられ、そこに住まわれたのだと思います。
1年365日ある中の、7月17日の京都。
山鉾巡行の当日、7月17日の早朝、四条通と麩屋町通の南北に「斎竹(いみたけ)」と
称される榊(さかき)が立てられ、その斎竹が置かれたアーケードの上から四条通を横切りるように注連縄が張られ、長刀鉾に乗った稚児が後ろに控えた大人に介添えをしてもらいながら大きな太刀を取り上げて、この注連縄を切るのですね。
明治維新後の廃仏棄釈の影響によって、いろいろなことが解釈の変更を余儀なくされていますが、そもそも「祇園祭」の「祇園」という名前はブッダのご奉公されていたインドのお寺の名前です。
須達長者がお釈迦さまとその弟子に寄進したお寺で、私も二度ほど訪れたことのあるシュラーヴァースティーという町にあります。
もともとは「祇陀太子」という名の王子の林園で、「須達長者」のことを「給孤独(ぎっこどく)」とも呼んだことから、「祇樹給孤独園(ぎじゅぎっこどくえん)」、これを略して「祇園」という名前になったのでした。
仏事が神事になり、いろいろな出来事が重なり、歴史を紡いで今に至ります。
何度も弾圧を受けるほど、京都の町衆は強固な法華信徒でした。その法華信徒の町衆が山鉾を守り運行した史実もあります。
長刀鉾と日像聖人、長刀鉾に一遍首題の御題目が掲げられていることなど、語られていない逸話がたくさんあります。
陸前高田で山車に御本尊さまをご奉安する時、そうした700年前のご奉公を思い返しながらさせていただきました。
KBS京都では祇園祭も五山の送り火も特別番組を設けてライブ中継します。
いつか、そうしたお話もしていただきたいですが、ちょっと難しいかな。
いずれにしても、この「麩屋町」という通は特別ですね。
未来、稚児さんが長松寺のご宝前にご挨拶してから巡行が始まるようになるかも知れません(笑)。
そんな夢も見れますねー。
さて、今日は新幹線のひかりに乗って、三島駅で降りまする。
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