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2017年1月26日木曜日

鈴江日原上人 歎徳


僧正 本照院日原上人


南無久遠実成大恩教主釈迦牟尼如来、南無証明法華多宝善逝、一仏ニ名従果向因上行大士、九界総在上行体具人界示同之尊形。


南無末法有縁之大導師、高祖日蓮大菩薩大慈大悲大恩報謝。


南無蓮師後身本因下種再興正導、門祖日隆大聖人大慈大悲大恩報謝。代々之先師聖人等、御報恩謝徳。


南無本門佛立宗開発教導日扇聖人大慈大悲大恩報謝。


第二世講有日聞上人、第三世講有日随上人、第四世講有日教上人、第八世講有日歓上人、第十五世講有当山開基日晨上人等、歴代講有先師上人等、御威光倍増報恩謝徳。


別しては当山初代住職日演上人、第二代住職僧正日博上人、自受法楽佛果荘厳。


代々の如法弘通の先師先聖に曰して言さく。


今茲に、妙現寺御宝前を荘厳し、恭しく壇を設け、謹んで葬儀執行し奉る処は、


去る平成二十八年十二月九日、午前六時三十三分。


妙現寺第三代住職、

僧名 鈴江正了

本照院日原上人 覚位

法寿八十七歳を以て、今番化導の一期を了え、化を寂光の本宮に遷し畢んぬ。


自受法楽にして佛果荘厳なさしめ給え。


熟々上人一代の行化の跡を案ずるに、建築業を営む父 鈴江猪之助、母すゑとの間に、六男四女の長男として、昭和五年三月一日、旧東京府荏原郡玉川村、現在の東京世田谷区に出生せり。「正明」はその幼名たり。


母すゑは、生まれつき「子が出来ぬ体」「かりに出来ても、生めば死ぬ」という病を持ちながら成長するも、ある日、上人をお腹に授かれり。この時、母子ともに生死をさまよいしが、傘屋を営む隣人より「かならず助かる信心がある」と強折され入信。その信心こそ、本門佛立講なり。


すゑは熱心に口唱にはげむも、父猪之助は生来信心が嫌いにて拒絶せしが、ついに医者より「母と子、いづれか選べ」と迫られ、終に観念し、初めて御題目を唱える。


すると時おかず回復、無事出産にいたれり。猪之助は此の現証の御利益を契機としてまさに強信者となり、後に九州博多光薫寺伽藍建設の功徳を積むまでとなれり。上人は幼少時代、その信心強盛な両親と温かき弟妹に囲まれ、御法の内に薫育さる。


幼き頃、家族と共に満州にわたり、伝え聞くところによれば、戦前同地にて後の博多光薫寺先々住、小林日進上人のもとで得度するも、引き揚げ時の混乱の中で還俗し、館山に住すと聞く。この時、弘通発展を遂げる縁深き館山廣全寺 柏 乗湧師、のちの日葉上人の手引きによりて日博上人のもとへ。


昭和二十三年四月、日博上人を師僧、日葉上人を得度親として妙深寺にて得度。僧名を「正了」といただく。


得度まもなく肺病を発症せしも、日博上人の強折により見事に快癒。自ら一大現証の御利益を感得せり。これ生涯「口唱・折伏・経力・現証」を旨とする弘通家・上人の原点とも言うべき一事なり。


以後、妙深寺若手教務の中心となり、青年会、薫化会、ボーイスカウト等にて積極的に活動し、これらを大いに発展せしめたる。


又、上人は妙深寺社会福祉部として敗戦後の混乱が残る横浜の街頭にて十六ミリの映写機を用いて街頭映写会を開催。娯楽の少なかった子供達に大いに喜ばれ、又、これが下種結縁・教化・弘通の一助となる。


妙深寺の弘通も大躍進を重ね、数年毎に分連合、分部がなされ、教線も市内全域に拡大。こうした中で上人は日博上人の片腕として、昭和二十五年には「一実」発刊、同年発園の小田原児童擁護施設「ゆりかご園」での活動、二十六年に開始された、戦争傷痍者施設「箱根国立療養所」への御講や慰問園遊会等々に挺身せられたり。


昭和三十五年頃、師命によりて会津信遠寺に出向ご奉公。日博上人がその基盤充実に貢献せる信遠寺のご弘通を担当し、特に地方のご弘通に尽力して、「信歓寺」、現 信遠寺喜多方別院の一寺建立を果して帰山せる。


同三十七年には妙深寺青年会の冨士子女と華燭の式典を挙げ、一男一女を授かりたり。この上なき伴侶を得て、以降上人は弥々御弘通に邁進せられたり。


昭和三十八年、師命により妙現寺の常在教務に着任。昭和四十年九月、住職に就任す。


上人は病中にありながらも、国内のみならず遠くブラジルへ渡伯し、ご弘通に身を捧げる師匠の恩に報わんと、東奔西走のご奉公にはげみ、昭和四十年に八級寺院へ昇格。


「師厳にして道尊し」。何処までもお厳しかったお師匠に「正了、よくご奉公したな」と、初めてお褒めを頂く。


然れども、昭和四十二年五月四日、恩師日博上人が御遷化。師孝第一の上人の胸中、察するに余りあり。


亡き師へのご恩返しを果たすべく、上人はさらに捨身決定の御奉公に邁進されたり。


妙現寺は昭和四十六年に七級寺院、同五十年には五級寺院へ二階級の躍進。


さらに、昭和五十五年 四級寺院へ昇格。


昭和五十七年 宗制改正により布教区制となり、初代神奈川布教区長に就任。


昭和五十八年には念願であった新本堂が完成。


平成三年に僧正叙任、同年、宗徒八00戸を達成、三級寺院昇格を果たし、教講一同歓喜の中、新本堂開筵式を挙行す。


平成六年 第七支庁弘通顧問、同 九年 第四支庁長に就任。


平成十四年には、法宅ならびに新納骨堂を建立。等々、日博上人より住職位を拝しより約五十年間、上人はまさに弘通家として九級寺院から三級寺院へと教線を拡げる大御奉公を成し遂げ、また現在有する境内施設すべての完成を果たし、平成二十一年住職を退任、法子 昭薫へその法灯を継承す。


その後は、閑士として教講を指導されしも、無常草露の風には抗うこと能わず、星霜を経るごとに法体は衰弱の相を示す。


されど、上人の御奉公に対する熱意は衰えることなし。門祖会にて妙現寺一門に教化折伏の大事を切々と説諭し、一同感涙にむせび泣きしと聞く。


本年九月胆嚢炎をわずらい急遽入院手術す。家族の愛情に見守られ、信者一同の祈願により、病気は平癒せらるゝも、しだいに体力は衰え、平成二十八年十二月九日六時三十三分、現董の見守る中、今番一期此土化導の本因妙行を了え、泊然として化を寂光の本宮へ遷されたり。法寿八十七歳なり。


地に伏し天を仰ぎて哭すれども、有漏の凡情いかでか之に耐うべき。惜しみても余りある遷化なり。


今、有縁の教講その遺影を拝し異口同音に唱え奉る御題目、但だ上人の自受法楽佛果荘厳を飾らん。


請い願わくは「在在諸佛土 常與師倶生」のご契約に委せて、浄佛国土の大願成就なさしめ給はんことを。


経曰く

若親近法師 速得菩薩道

随順是師学 得見恒沙佛の文


本門八品所顕上行所伝本因下種の南無妙法蓮華経

 

惟時 平成二十八年十二月十五日

本門佛立宗大本寺乗泉寺住職 日盡 敬白

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