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2017年4月17日月曜日

師に仕ふるには過ぎず

東京から長野、長野から東京、東京から京都へ、昨日はスーッと移動して、無事にご奉公させていただくことが出来ましたー。


長野本晨寺は久しぶりに100名を超えるお参詣で、有難く思いました。


まだまだこれからですが、ゆっくりと皆さまの笑顔の中に喜びが感じられます。


開導聖人ご生誕200年の正当法要と、正宗徒の認定証授与式もさせていただきました。


本当に、果報を使うことはたやすく、功徳を積む道は果てしないものです。


人も、ご信者さまも、教務も、お寺も、宗門でも、同じです。


果報を使うことはたやすく、功徳を積む道は果てしない。


日曜日の夜のお総講、長松寺までお参詣いただきまして、ありがとうございます。


簡単なことではありません。


京都市内はもちろん、大阪、遠く神戸からもお参りくださった方もおられました。


「正常性バイアス」とは、災害に関する心理だけを示すものではなく、あらゆる人間の心理に潜むものです。


先日、松下幸之助氏の門下の方から直接お聞きしたお話は、とても示唆に富んでいました。


松下幸之助氏は田原総一郎氏に塾生の選定条件を問われて、次のように答えたと言います。


条件はたった2つ。


何だと思いますか?


1つ目は「愛嬌」でした。


そして、何と2つ目は「運のいい人」ということです。


1つ目は分かりやすいですが、2つ目はどのように判断したらいいか、とても難しいですね。


どうやって判断するのか。


ヒントがあるとすれば運のいい人は自分で「俺は運がいい」と思っているということでした。


人生には誰彼となく浮き沈みがあり、いいこともあれば悪いこともある中で、ずっと「運が悪い」と嘆いたり、一喜一憂して愚痴を言ったりする人もいれば、何があっても「有難い」「恵まれている」「ラッキーだった」と思う人もいます。


どちらが「運のいい人」かと言えば、間違いなく後者になります。


松下幸之助氏はまずこうした基準で人を見たといいます。


しかし、話は続きます。


自分で「俺は運がいい」と思い込むだけなら、その人は単なる自惚れ屋になるかもしれませんし、客観性を失って、困った人、面倒な人になるかもしれません。


そして、奇妙な楽観、珍妙なポジティブは、ただ自己を肯定してしまうもので、ついに孤立し、破滅することもあります。


やはり「レベル」というものがあります。


ある時、松下幸之助氏は若い塾生に「お前は夜ぐっすり眠れるか?」と聞いたそうです。


「はい、眠れます!」と答えると、「ワシはよう眠れん。昨日も会社が潰れるやないかと思って考えていたら眠れんかった。」と言っておられたといいます。


現在の状況に感謝しつつも、あくなき探究心、責任感、謙虚さをもって事業に臨み、人生を歩む。


ここがなかなか難しいです。


「正常性バイアス」とは「自分にとって都合の悪い情報を無視したり、過小評価したりしてしまう人の特性のこと。」です。


「自分は正しい」というのも大概にしないと恥ずかしいです。恐ろしくレベルが低いかもしれません。


「実に佛になる道は師に仕ふるには過ぎず。」(日蓮聖人・『身延山御書』)


師のいないことこそ最も憐れなことです。


お参りをさせていただこうということ、御法門を聴聞して、現在の指針としようということがご信心の基本であることが分かります。


言葉の上、形の上の「師」は多くあるようですが、なかなか「師」を持つ人はいません。


私たちにとって、お祖師さま、門祖日隆聖人、佛立開導日扇聖人は何よりの「師」ですが、本当に「師」として教えを仰いでいる人は少なく、一部分を取り上げて知ったようになっている人も多くいます。


御教歌「慢心の起こりはじめは師を捨てて おのれ師匠にならんとぞいふ」


お祖師さまほど、み仏の教えを学び、身に読み、客観性を持ち、探究心を持ち、人びとへの慈悲をもっておられた方はおりません。


いま、迷信やジンクス、占いやエセ科学のようなことに迷って、それらをかぎり、また吹聴して悦に入ってしまっている人が多くいます。


まさに末法悪世の様相そのものですが、そのままでは愛嬌があっても軽薄なだけで、運がいいと思っていてもレベルが低く、自分も、周りも破滅させてしまいます。


まっすぐな仏教、生きた仏教は、師を求め、師に仕え、師に学び、夜も昼もお守りがある自身を喜び、功徳を積み重ねてゆくものです。


罪障を自覚しているからこそ、慢心することなく、コツコツと信行に励むことが出来ます。


ご信心をしていても、師を失ったままの人がいます。


いろいろな、末法ならではの経緯の中で、師を失わざるを得なかった人もいます。


そんな人は、一人でご宝前と結びつくしかない、もうご宝前だけを見て信心しよう、と思ってしまうものです。


自己の中だけ、一人だけ、そんな佛立信心はありません。


憐れですし、申し訳なくも思います。


しかし、それはやはり間違っています。


面従腹背というご信心とは真反対の道を選ばざるを得なかった方々もいます。


難しいですね。


「ある時は頭にいただき、ある時は尻にしき、ある時は褒め敬い~」は「師」に対するものではありません。


一方、師弟ともに三毒強盛の凡夫ですから、師弟関係が崩れることも往往にしてあるものだから、本当に難しい。


「又億億万劫不可思議劫をば過ぐるとも、如来の聖教に値ひ奉る事難し。而るに受け難き人間に生をうけ値ひ難き聖教に値ひ奉る。設ひ聖教に値ふと云えども、悪知識に値ふならば、三悪道に堕ちん事疑ひあるべからず。師堕つれば弟子堕つ、弟子堕つれば檀那堕つと云ふ文あるが故に、今幸に一乗の行者に値ひ奉れり。皮をはぎ肉を切り千歳仕へざれども、恣に一念三千、十界十如、一実中道、皆成佛道の妙法を学ぶ。実に過去の宿善拙くして末法流布の世に生れ値はざれば、未来永永を過ぐとも解脱の道難かるべし。又世間の人の有様を見るに口には信心深き事を云ふといえども、実に神にそむる人は千万人に一人もなし。」(日蓮聖人・『身延山御書』)


頭を抱えたくなりますが、正常性バイアスも乗り越え、末法の険しさ、自分自身の癖も乗り越えて、価値ある人生を歩みたいものです。

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