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2018年2月13日火曜日

嶋田弥三郎さん








今朝は毎月13日のお祖師さま・日蓮聖人のお総講。


この日は嶋田弥三郎さんの命日でもあり、ご回向させていただいております。


本当に、この方には想いが募ります。


というのは、この方は開導聖人のご実家、大路家の本家にあたる嶋田家の同世代の方で、幕末維新の仏教改革者・長松清風を支えた偉大なご信者さまであったと拝察されるからです。


扇全14巻330頁にあるとおり、嶋田弥三郎さんは長松清風の教化、後には師弟として得度された、あるいは得度したのと同様に認められました。


嶋田弥三郎さんは大津で「法門輪番」ということで御法門をなさっていたそうですが、ちょっと難しくて苦情があったとか(扇全6巻67頁)。


それでも、開導聖人にとって嶋田弥三郎さんは特別な存在であり続けました。


この苦情に対する開導聖人の反応も、特別あたたかい気持ちが添えられているのを感じます。


子どもの頃からもそうだったでしょうし、特に27歳の時からその想いを強く持っておられたと思います。


「秀典老、深澤哲太郎、嶋田弥三郎と三人をかたらひ、弘通広宣の為、本寺方丈にて本門八品講を開く。この時、浅沼與兵衛も随身して予が志願をたすく。かくて四人に講を預け、筆歌両道の業を破りて法を淡洲隆宣寺に求め....」扇全4巻80頁


本当に、開導聖人の生涯、ご奉公を追体験することは不可能なのですが、その草創期のご奉公のご苦労を思うと、言葉もありません。


涅槃経には「内に智恵の弟子ありて甚深の義を解し、外に清浄の檀越ありて仏法を久住ならしむ」とあります。


まさに、嶋田弥三郎さんはそういう存在だったのではないかと拝察できます。


ご帰寂は開導聖人より数年早い明治19年7月13日でした。


きっと開導聖人がお撰びになられたと思われる法号は下記。


「護法院義忠日臣法師(大徳)」


ありがたいです。


毎月13日は思い返します。


嶋田弥三郎さんは宥清寺の本寺にあたる本門法華宗の本山・妙蓮寺のホームページなどでも紹介されています。


というのは、嶋田弥三郎さんが「松尾社一切経」を妙蓮寺に寄与していたからです。


この「松尾社一切経」は平安時代後期のもので、大変貴重なものです。


立正大学名誉教授の中尾尭先生を先頭に調査・研究が行われています。


下記、卯木山妙蓮寺について書かれたホームページにある情報です。


http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/n_16_myorenji.htm


「★妙蓮寺蔵「松尾社一切経」


平成5年、松尾社一切経を土蔵から発見。

松尾社一切経は平安後期(12世紀初頭・永久年中?)作成とされる。

江戸末期以降不明であったが、立正大学文学部史学科の妙蓮寺に於ける調査合宿で発見される。

約3500巻と云われ、1997年重文に指定される。

この一切経は(どういう経緯かは不詳であるが)、近世終末の廃仏毀釈の折、本能寺八品講から寄進されたものという。

2006/09/18確認:

一切経は永久3年(1115)頃から、松尾社神主2代が願主となり、康治2年(1143)に完成という。

安政4年(1857)妙蓮寺檀徒嶋田弥三郎義忠により寄進される。

平成9年重文指定。全部で5000余巻のうち3600余巻が残存する。


2007/10/11追加:

「妙蓮寺蔵『松尾社一切経』の発見と調査」中尾尭(「立正大学文学部論叢 1031996 所収) より

一切経は昭和42年に妙蓮寺宝蔵から土蔵に移されたもので、土蔵の中で35ケの経櫃に入り、一部は長持に入れられていた。

経櫃は、文安4年(1447)に作成との箱書きがある。

一切経はおよそ5000巻から成るとされる。

その内、これまに、京都東山法然院に45巻、京都国立博物館に1巻が知られていたが、今般約4000巻に及ぶ「松尾社一切経」が発見される。

開巻できた巻数はおよそ3500点、水損・虫食などで開巻不能なもの約300点、軸のみ存在するもの(長持ちに入っていたものが大部)約50巻、所属不明なもの数十巻を数えると云う。


松尾神社絵図(江戸期)では本殿左に十禅寺という神宮寺があった。

松尾社一切経は天台宗系の寺院で作成された「大般若経」を冒頭に置き、次いで天台系寺院に所蔵されている一切経を原典とし、南都仏教に影響を受けながら写経と校正が行なわれたものと推測される。

願主は松尾社の神主を務めた秦宿祢親任をはじめとする秦氏一族である。

おそらく永久3年(1115)から写経が始まり、長寛元年(1163)頃に完成したと思われる。

 ※松尾社絵図については「京洛平安期の塔婆」「松 尾 社」の項を参照。


嘉吉3年(1442)に大規模な虫干しが行われ、その4年後の文安4年に経櫃の新調が行われる。

次いで江戸初期に大幅な修理が加えられた形跡があり、東山法然院所蔵の「松尾社一切経」45巻が流出したのはこの時と推測される。

法然院には寛永8年(1631)の「松尾社神宮寺一切経目録」が伝わり、この時点で「松尾社一切経」の4712巻が現存し、330巻の経巻が既に失われていることが知られる。

嘉永7年(1854)2月3日「松尾社一切経」を納めてあったと思われる「読経所」が「畳まれ」る事態になる。(先代日次記」)

おそらくは神仏分離の「はしり」であろうが、つまり、大量の一切経はどこかに運び出され、読経所の建物が取壊される事態となる。

されに、この間の事情は不明ということであるが、安政4年(1857)妙蓮寺の有力な檀家で、かつ「仏立講」の中心メンバーである嶋田某氏が「松尾社一切経」を妙蓮寺に寄進する。

かくして、この一切経は庫裏の裏手の頑丈(二重の防火壁に砂が封入)な宝形造の宝蔵に納入される。

おそらくこの宝蔵はこの一切経を納入するために建立された土蔵ではないかと推測される。

昭和42年この宝蔵も取壊され、書院裏手の宝蔵に移される。」


この文末にある「嶋田某(なにがし)」とあるのが「嶋田弥三郎」さんです。


本当に、大切な方だと思います。

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