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2019年7月27日土曜日

朝鮮学校で練習試合














東京駅もまだ晴れています。これから北陸新幹線はくたかに乗って長野へ向かいます。


昨日、少しだけ時間が出来たので、次男を練習試合の会場まで送っていきました。


次男は横浜市立の中学校に通っています。昨日の試合は神奈川朝鮮中高級学校。横浜では歴史のある有名な学校で、僕も久しぶりに門をくぐりました。


高校2年生の時、この学校の2人組と大喧嘩になり大敗を喫した苦い思い出があります(笑)。1対2だったとはいえ3分ももたずボロボロになりました。本当に強い奴ばかりでした。


赤いユニフォームの朝鮮学校の生徒たちに挨拶しながら次男を送ってゆきました。みんな礼儀正しく丁寧で偉い子ばかりです。


最近、どんどん近隣諸国との関係や雰囲気が悪くなっているのを感じます。安全保障が重要であるのは当然ですが、かといって昨今の外交手法がいいとは思えません。明治初期も政府内部でそうしたボタンの掛け違いがありました。


『仏教徒 坂本龍馬』では勝海舟のこんな言葉を紹介しています。


「日清戦争はおれは大反対だったよ。なぜかって、兄弟喧嘩だもの犬も食わないじゃないか。たとへ日本が勝ってもどーなる。支那はやはりスフィンクスとして外国の奴らが分らぬに限る。支那の実力がわかったら最後、欧米からドシドシ押しかけてくる。つまり欧米人が分らないうちに、日本は支那と組んで商業なり工業なり鉄道なりやるに限るよ。

いったい支那五億の民衆は日本にとって最大の顧客さ。また支那は昔時から日本の師ではないか。それで東洋の事は東洋だけでやるに限るよ。

おれは維新前から日清韓三国合従の策を主張して、支那朝鮮の海軍は日本で引受くる事を計画したものさ。」


本当に、透徹した見解だなぁと思います。日清戦争の起こる前の論争です。日本とアジアには違う道があったことを知っていただきたくて、この本を書きました。


面倒な文章ですが、その前後を載せてみます。


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明治二十七年(一八九四)の日清戦争から明治三十七年(一九〇四)の日露戦争にかけての十年間、『時事新報』は国威発揚、戦意高揚のために重要な役割を果たしていた。


この新聞を創刊した福沢諭吉が日清戦争を奨励していたことは有名な話だった。福沢は「吾輩」や「五九樓仙萬(ごくろうせんばん)」というペンネームを使って自説を展開していた。現在、福沢のアジア蔑視や戦争推進と見て取れる文章は、主筆の石河幹明によるものという論争もあるが、いずれにしても福沢の影響力を一助として日清戦争は「文明と野蛮の戦い」と規定され、賑やかに戦意が鼓舞されたのである。その思想は、「脱亜論」「脱亜入欧」という言葉と共に広く受け入れられていた。


一方、龍馬の師である勝海舟は日清戦争について反対の立場で一貫していた。万延元年(一八六〇年)、勝と福沢は共に咸臨丸で渡米した間柄だったが、維新後の福沢は執拗に勝を批判した。


海軍の生みの親とも呼ばれる勝は、日本海軍が最初に活躍した日清戦争には反対の立場を貫いた。


『氷川清話』には日清戦争に対する勝の見解が所収されている。


「日清戦争はおれは大反対だったよ。なぜかって、兄弟喧嘩だもの犬も食わないじゃないか。たとへ日本が勝ってもどーなる。支那はやはりスフィンクスとして外国の奴らが分らぬに限る。支那の実力がわかったら最後、欧米からドシドシ押しかけてくる。つまり欧米人が分らないうちに、日本は支那と組んで商業なり工業なり鉄道なりやるに限るよ。

いったい支那五億の民衆は日本にとって最大の顧客さ。また支那は昔時から日本の師ではないか。それで東洋の事は東洋だけでやるに限るよ。

おれは維新前から日清韓三国合従の策を主張して、支那朝鮮の海軍は日本で引受くる事を計画したものさ。」(『氷川清話』勝海舟 江藤淳 松浦玲・講談社学術文庫・二〇〇〇)


当時の政界の立場や福沢諭吉の論旨、新聞各社の論調とは異なる見解だった。日清戦争の海戦は、神戸海軍操練所で龍馬らと共に航海術を学んだ伊東祐亨が連合艦隊司令長官となって戦い、同時に清国の北洋艦隊司令長官・丁汝昌は勝と旧知の間柄だった。日清戦争で戦うことになった両国海軍のトップは、勝海舟の弟子ともいえる二人だったのである。彼は心痛極まりなく戦況を見ていたのだった。


欧米諸国の文明を猛追する余り、ついに文明国を自認するまでになったのはいいが、帝国主義まで真似をして植民地政策を進めようとする福沢ら明治政府の権力者たちに対して、勝は疑問を呈していたのである。隣国の権益に目を輝かせ、その脅威を煽るよりも、世界戦略の中のアジア諸国の協調、特に三国での共闘を模索すべきではないか、安易に手を出せば抜け出せない災禍が訪れるのではないか、と主張していた。


文中の「最大の顧客」という段を読むと、その眼は未来まで透徹していたことを思い知る。勝は、首相の伊藤博文に対して、「日清戦争は大義のない戦争でロシアとイギリスを利するだけだ」という内容の批判の漢詩を送りつけ、「一回勝ったぐらいでうぬぼれるな」「日本が逆運に会うのもそう遠くはない」とまで警告したことも『氷川清話』に出てくる逸話であるが、それは単なる逸話ではなく龍馬の思想につながる勝らしい思想の一端なのである。


いずれにしても、日清戦争は勃発し、日本は勝利した。ただし、勝の予言通り、フランス、ドイツ、ロシアの干渉によって追い詰められたのも事実であった。そして、日本は、勝の願う方向とは別の経路を辿ってゆくことになる。


そんな勝は明治三十二年(一八九九)一月二十一日に没し、福沢も明治三十四年(一九〇一)二月三日に没した。そして、明治三十七年(一九〇四)、『時事新報』は日露戦争を目前に控えて戦時新聞となっていた。そこに、龍馬は登場したのである。」


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練習試合の結果は残念ながら松本中学校が負けてしまったようです。次は勝てるといいですね。


ずいぶんお行儀のいい台風で、昨夜は横浜も大雨でしたが、今日はカラッと晴れ上がっています。長野もお天気とのこと。これから雨が降るようですが、朝までに止んでいただきたいです。


ありがとうございます。


追伸。長くてすいません。


実は、昨日の朝鮮学校の門を入った階段の脇に、明らかに犬のフンではない汚物がありました。


人間のものだとしたら、どういう意図でこの場所にこんな卑怯なことをしたのでしょう。異常な悪意と異常な行動。歴史を軽視して、偏狭な言説に煽られた人がいるのでしょうか。


立て続けに起こる凶悪犯罪からではなく、昨日はもっと身近に狂った末法の世の中を痛感しました。

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