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2019年7月29日月曜日

本晨寺 住職継承式


























昨日、無事盛大に長野本晨寺の開導会併せて住職継承式を奉修させていただくことが出来ました。


清水日博上人の嫡男であられる清水日清御導師に御唱導の栄を賜りました。


御導師からいただいた御言葉のとおり、「覆水盆に返らずと言うが、覆水盆に返ったというご奉公」「お寺を一つ建立するよりも難しいご奉公」を、本晨寺のみんなでやり遂げてくださいました。


バラバラになったものが一つになる、一つにする、というご奉公を、まさに現証の御利益として本晨寺教講全員で歓喜して迎えた日。


不思議な台風は真っ直ぐに長野へ向かってくれていたのですが、完全に消滅して、見事な快晴のもと、まさに晴天、盛大奉修の、尊く、有難い開導会・住職継承式でした。


堤深恭師の宣誓は、本晨寺の未来を明るく切り拓く覚悟に溢れていました。


苦労を重ねてきた本晨寺信徒代表の宣誓にも、深い意義と覚悟を感じさせていただきました。


手作りで、教講みんなで精一杯お祝いしようと、祝賀会の会場は本晨寺本堂1階のホールにさせていただきました。


これはアタリ!素晴らしい一体感でした!


どこかのホテルの会場よりも、お寺でするのが一番!


みんなでカーペットを張り替えたホールは、12×5、16×5で、なんと140名が座れる大会場となっていました。


本晨寺、もう何でもできます!!


在家から発心、出家・得度された堤深恭師。誰よりもご信者方の気持ちが分かる御住職となられるでしょう。


そして、京都から嫁いできてくださった内室のエリ子さん。もともと本門佛立宗のご信者さんではなかったエリ子さんは、ゼロから佛立信心を育み、素晴らしい佛立教務夫人となられました。厳しく寿美江大奥さまに指導されてきたエリちゃんですから、必ずや本晨寺の土台を支えてくださると確信しています。


お二人とも十数年前に癌を患い、それを現証の御利益で完全に克服しておられます。本門佛立宗は現証御利益宗。そのことを誰よりも身をもって体験しておられる。


深恭師は優しいお顔ですが、絶対に引かない確信、信心をお持ちです。だから、お折伏も厳しいのです。長松清凉ご住職の御弟子さんですから。


長松清凉ご住職に惚れ込んで惚れ込んで、お給仕第一でご奉公なさってきた深恭師です。さぞ先住もお喜びになっておられると思います。


本当に、いろいろなことがありました。


私も、昨夜は少しだけ固まっている肩が柔らかくなったように感じました。


宗門未曾有の問題の、一つの終着点であり、新たな出発点でもあります。


清潤ウイルス。デビル清潤。感無量です。


「すえのよのわれら如きの悪人は、御題目より持つ法なし。折伏をして万人ににくまるゝとも、教主釈尊おひとりにほめられたらばそれでたんのう。誰が何といふともままよ。助けたまふは唯御一人。其師を尋ぬれば凡師也と。弟子は申すに及ばざる也。」(百座法門 第五・扇全12250頁)


坂本龍馬の「世の人は われをなにともゆはばいへ わがなすことは われのみぞしる」と相通じる開導聖人の御指南です。


「日蓮門下は嫌い。業の自覚が仏教なのにあいつらは御題目に出会ったとたん偉くなったつもりで人を見下し、独善の悦に入る。」


そんなことを司馬遼太郎が書いていました。それも一理あるでしょう。


師匠を捨て、師匠がいなくなって慢心すれば、簡単にそこに行ってしまいます。こんな人ほど面倒で、やっかいな存在はありません。


罪障の自覚、謙虚さは、師匠あってのことです。


末法の病理の根源は、師匠を敬わなくなること。


簡単に情報が手に入る、調べれば、いつでも、どこでも、何度でも、情報は手に入る。


師弟の崩壊。この時代に加速する病理です。


一言一句の教えを師匠に求めなくても、簡単に手に入る。


教義、法門、修行法。


出来る限り人に会わず、人に頭を下げず、独自の方法でコッソリ勉強して、身につけたい、身につけられる、と思い込んでしまう。


教えを請い、教えを求め、その瞬間、一回きりだと思ってメモを取り、耳目を開いて学び取る、そんな心が失われてゆく。


バラバラになり、小賢しくなり、遠回りをして、自分勝手な理屈に止まり、評論家になり、フワフワと孤独に浮かんでゆく。


それでいいとは思えません。


第一、信心とは、そうではないから。


お祖師さまは『身延山御書』ではっきりとお示しになっておられます。


「実に佛になる道は師に仕ふるには過ぎず。」


もちろん、師弟ともに凡夫の末法ですから、これほど深い教えはなく、実践の難しいことはない。しかし、それもこれも『身延山御書』の中に説かれています。


みんなに分かるように説明すること。


一つひとつ筋を立てて行ってゆく。


ただ、末法のご奉公はそうしていても誤解されることの方が多いものです。


「世の人は われをなにともゆはばいへ わがなすことは われのみぞしる」


だから、あらためて、誰が何を思い、何を言おうとも、ご宝前を見据えて、断固としてやらなければならないことがある。


「薄情の道、忘るべからず」


坂本龍馬の言葉といわれています。


とにかく、覆水盆に返らずのところ、現証の御利益をいただいて、覆水が盆に返ったのを感じた、一つになった本晨寺の尊い一日でした。


僕は、石田さんの写真を見ながら、何度も泣いてしまいました。


ありがとうございます。


是非、長野へお立ち寄りの際には、キラキラと明るく、笑顔の絶えない、希望でいっぱいの本晨寺にお参詣いただきたいと思います。

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