このご奉公の期間、京都に戻っていた。「戻っていた」というのは、長松家のしきたりのようなもので、麩屋町の長松寺を出る時には「行ってきます」、入ったときには「ただいま」と言わねばならない。「言わねばならない」というほど大層なことではないと思っているが、それでも古くからのことなので私のような者でも守らなければならないと思っている。また、もっと言えば、「守る」ということの意味を噛みしめている。
実は、私は京都が嫌いだった。自分自身京都生まれだし、父は京都を心から愛していたし、多くの人が京都を愛してくれていると思うのだが、長い間、京都は嫌いだった。色々な理由があるが、今日は書かない。
しかし、先月末から今月の初旬にかけて、京都でご奉公させていただきながら、自分も父のように京都を愛せるかもしれないと思うようになった。
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