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2007年10月11日木曜日

ご弘通に奇策はない

 スリランカからのお客さま、アベイ氏とガマゲ氏は本日無事に帰国の途についた。わずか10日間だったが、内容の濃い旅になったと思う。彼らにとっても、そして私たちにとっても。
 今日も10時30分から御講が奉修されたのだが、ご供養の席での話題はスリランカから来てくださった二人のことに終始した。それほど何らかの強烈なインパクトを与えてくれたということである。またご弘通のエネルギーをいただいた。有難いことだ。
 先生のブログにもスリランカのお客さまから感じたことについて書かれていた。まさに「傑作」の記事で感心して読ませていただいた。さすが先生、要所要所を捉えてくださっている。是非、先生のスリランカ信徒の来日記事、「普通さに感動/ODAよりもお題目」を読んでいただきたいと思う。下記に、一応ここでも紹介させていただこう。
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『普通さに感動/ODAよりもお題目』
 ガマゲさんとアベイさんから得た刺激については、またあとで時間があれば、ブログに書きたいと思ってますが、とにかく、正攻法というか、王道というか、奇妙な手一切なしですよねえ。本当に、普通に、お題目をすすめるというまっすぐな方法で、しかも途上国の悪条件と、上座部(テラワダ)仏教が 強いという悪条件の中で、地道に1000戸にのぼるお教化とその後のフォローをされているのだとわかりました。
 1000戸というから、なんかウルトラCでもあるんやろかと思ったところが、私の情けない凡愚のところ。ウルトラCはなかった。ひとりひとり、困っている人に親身に相談にのってあげて、お題目をすすめる。ひたすら、それをされているんですね。
 ふたりのうちのお一人は、スリランカ政府の要職、権力の中枢部におられるといってもよい。いわば高級官僚だ。個人情報だし詳細は控えるが。その方が、山をこえ、谷をこえ、寒村のお金のない人の家へいって、相談にのってあげて、御題目でエンパワーメントをされている。国際開発賞(そんなのないか)とか、ノーベル平和賞とかに値すると思う。日本の高級官僚は、むろん、なかには謙虚でまじめで他人思いの人もいるが、全体はどうか。ちょっと、彼のツメの垢を飲んだほうがいいかもしれないと思いつつ、まずは自分から、みならわないかんなあと思った。
 とにかく、パッションは強いが、とはいえ伝達してくれた秘訣は、ごくごく普通のことだった。「困っている人が、何に困っているのか、よく理解してあげること。親身になってあげること。そして御題目口唱をすすめること」。
 日本は、「巨額のお布施をせよ」「この不思議パワーの○○を買いましょう」とか、奇妙な宗団によるやばい勧誘が多い。なにも下劣なグループと比較することはないか。とにかく、スリランカ佛立宗の信徒さんのご弘通の秘訣の、その普通さに、感動した。
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 先生は、この他にも本当に素晴らしい記事を書いてくださっている。私は、「仏教ルネサンス」という発想や「社会行動仏教」について先生から学ばせていただいてきた。先生もブログで書いている本を求めて、読ませていただきながら、それらについて深く知るようになった。
 同時に、スリランカでご奉公させていただいて以来、上座部仏教と近代に於ける仏教の展開、そしてアヌラダープラ(英語:Anuradhapura)やアヤバギリ・ダゴバ(Abhayagiri Dagoba)について勉強する機会にも恵まれた。スリランカが大乗仏教の国であったことなど、誰が想像できようか。
 また、ミャンマーの不幸な政治情勢と、それに関する彼の地の上座部仏教界についても学ぶ機会に恵まれた。スリランカでも上座部の僧侶は政治的な役割を担っている。公務員と言っても過言ではない。宗教と政治が結合した国の在り方について考えねばならぬ。僧侶が社会で重用されるということは、どのような意味を持ち、どのようなプラスとマイナスをもたらすか。立正安国論の行き着く先が、政教一致か、そうではないのか。上座部仏教国から多くの示唆を得ることが出来る。
 何度か書いてきたが、私は、ブッダとお祖師さまがされていない以上、僧伽たる宗教団体が政治団体を持つことに否定的だ。僧侶等が公務員化して政治的な活動に終始するのは如何か。もちろん、一般的には高祖が為されたような御仏の教えに基づく「折伏(立正安国論上奏)」と僧侶の政治的な活動の線引きは難しいだろう。しかし、この点について深く洞察し、答えを求めていくことも必要だと思う。恐ろしい事態がもたらされる前に、今一度私たちからお祖師さまの見解を世に表したい。
 最近までミャンマーの仏教界が軍事政権と友好関係を持っていたことも書いておかなければならないだろう。政治と宗教、貧困とテロ、環境保護と経済援助など、課題は多いが先生の見解や指導は、私にとって欠かせない示唆であり、私たちのご信心を見事に映し出してくださっていると感じる。
 次の記事には、一つの「エンパワーメント」として私たちのご信心の在り方、常日頃から実践させていただいていることの「意義」を教えてくださっている。「福岡日雙御導師の本から」と題された記事を是非読んでいただきたい。また、ここにも載せさせていただく。
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「福岡日雙御導師の本から」
 福岡日雙御導師(神戸の香風寺の御住職、現在、佛立専門学校校長)のご本を拝見していて、うっとくる一節があった。あまりに感動したので、両親に送ってしまい、詳細を確認できなくなってしまった。うらおぼえの内容で恐縮ですが、書きます。
 むかし、むかし、東京のほうのあるえらい御住職=御教務(僧侶のこと)で、のちに佛立宗のご講有(佛立宗の宗門のトップ)になられた方のお弟子二人が、東京都内の貧民窟にご助行(困っている人を助けるためにお祈りつまりお題目の口唱をすること)におでかけになった。ある最貧の家で、ご供養(現物のお布施)を出されたが、蝿(はえ)がたかったまんじゅうかおにぎりのようなものだった。汚いので、辞退した。次の家では、ご供養はでなかった。結局何も食べず、空腹でお寺にもどると、下痢になった。ひどい下痢のようすに、おかしいと感じた御住職は子細を知られた。そして二人の弟子をおしかりになり(佛立宗とか日蓮宗一般では御折伏、おしゃくふく、という)、二人の弟子はご宝前(いわゆるお寺の本堂)で懺悔された。そしたら、下痢は治癒した。
 別の日に、御住職ご本人が貧民窟にでかけられた。ある家は、またまた貧しくて、お布施もご供養もなかった。そこで、何でもいいから、お布施しなさいと、御住職はおっしゃった。 家人は、しかしなにもないと、辞退した。それでも御住職は、なんでもいいから、お布施しなさいとおっしゃったので、家人は前の晩の食べ残しを出された。汚いものだったろう。御住職はそれを喜んで受け取り、食された。
 どういう気持ちで、残飯をお食べになったのだろうか?わたしのような凡人信徒と、同じ尺度ではかってはいけないだろうが、貧民窟で残飯食うなんて、よっぽど決定(けつじょう)してないとできないよなあ。腹がすわってないと。すごい深い愛情がないと。おそらく、この家の人は、自分のような貧しい人間でもお寺にお布施ができたことが、喜びとなり、勇気づけられたことと思う。これこそ、エンパワーメントだと思った。-------- 逆転の発想だ。否定の哲学ともいえるでしょうか。
 普通、最貧の人に対しては、お金でも、モノでも、「なにか差し上げよう」「支援しよう」「施そう」という発想になる。ODAだって、そうだ。基本的に、あげましょう、という発想だ。その最貧の人にたいして、「何でもいいから、出しなさい」とは、すごい発想!残飯でもいいから、出しなさいとは!しかもそれを、いやがらず、ありがたく食されるとは。エンパワーメントとはそういうことかと思った。
 開発経済学が最近ようやく気づきはじめたエンパワーメントを、ずっと昔に、佛立宗は実行しているのである。佛立宗の坊さんはえらい!やっぱ。負けるー。「人間学」をきわめつくしてるなあ。口唱行にしても、お布施にしても、ご供養にしても、二千数百年、考え抜いて開発されて歴史にためされて残った、究極のエンパワーメント手法だ。宗教という概念で、くくる必要すらない。人間開発の究極の手法が、佛立宗のご信心じゃないでしょうか。かつ、思想とか東洋哲学じゃなくて、実践しているところが、一番すごい。
 補足:これに近い話に、ブラジルの土地無し農民の運動がある。ブラジルの最貧層が飢餓とたたかうために団結していて、200万人が加盟している。各地域支部は、さらに最小単位として班にわかれる。班長を決めるさいに、かならず順番で決めて、かならずまわってくる。すると、すごい頼りない、能力が劣る人も、班長になることがある。それがいいらしい。「え、おれでも班長できるの?自信ない。でもやってみよう」と、これがエンパワーメントになる。まわりも、「あいつは、頼りないから、班長無理だ」とは、しない。頼りない人にこそ、班長をさせるのである。
 これは非宗教的な方法だが、宗教的であれ、非宗教的であれ、正しい方法には普遍性がある。佛立宗の御信心には、普遍性のたかい人間開発の方法論が凝縮されているのではないだろうか。これを広めることは、何も佛立宗をのばそうとういことではなくて、人類の救済のために、良いことなのだ。
 むろん、他派にも、「俺たちは正しい。俺たちが広まることは、人類の救済だ」といって、布教活動を熱心にしているところもある。佛立宗と、他派の違いは、他派は、政治パワーや暴力(ブッシュさん)やマスメディアや自前の出版社をがんがんつかって、広めている。佛立宗は、ひたすら、人から人へ、困った人の相談にのってあげて口唱行をすすめるという、まあいえば、チンタラチンタラ(ちょっと下品?)、コツコツと、口コミで弘通活動(布教のこと)をやってるわけだ。ジェット機の時代に馬車を使ってるみたいな、そのまじめさが、ほんものの宗教の証左である。
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 以上、転載させていただいて申し訳ないが、余りにも素晴らしいので掲載させていただいた。何より、先生が感じたことと同じことを私も感じ、京都でのインターナショナル・ミーティングでも参加者にお話しした。それは、「ご弘通に奇策はない」ということである。本当にそのとおりである。
 このような方々に囲まれている私は、世界一幸せな住職であるということを書きたかっただけであった(笑)。

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