彼らが帰国してから、すぐにマータラでテロがあった。いわば戦時下の国にご奉公に行かれたわけで、それだけでも現代の平穏な環境から飛び出してご奉公されたということ。そして、初代信徒ばかりのスリランカで佛立の原風景、初代信徒ばかりだった開講当初の本門佛立講と同じ空気を味わえたはずだ。きっと、彼らの経験は自坊に帰ってから活かされるだろう。素晴らしい体験、ご奉公をされたと思う。
また、今日書き足そうと思っていたのは、バイデラットゥナ家へのお助行。前回まで書いたとおり、私は御講を奉修した後、スリランカの南部をお助行に廻った。1日目の、最後から二番目のお宅が彼の家だった。すでに外は暗くなっていた。
そこでお看経をさせていただいたのだが、御戒壇を拝見していて胸が熱くなった。この御戒壇を見ていただきたい。そう、完全なる「手作り」である。なんとも有難いではないか。
私は、このブログで何度か海外の御戒壇を紹介してきた。それは、御法さま、御本尊さま、生きてまします御仏のお住まいになる家。私たちの信仰にとって、何より大切なものである。
開導聖人は、佛立最初の「御戒壇」を麩屋町の長松寺で護持された。従来の「仏壇(ブツダン)」とは大きく一線を画す、開導聖人ご自身がデザインされたもの。世間の仏壇は、何より大切な御本尊も奥の奥に格納されているようで、薄暗く、よく見えない。よく見えないことが奥ゆかしいとか、厳かであるという考えもあるのだと思う。尊いお方はお御簾の後ろに隠れているというわけだ。
しかし、開導聖人はそれを本来仏教的ではない、佛立的ではないとされた。何より尊い御本尊、祈る対象が見えずにいてどうするのか。佛立講に対する改良以後、開導聖人は、最も佛立信心のしやすい形で御戒壇を「三方開き」にデザイン・製作されて自ら護持し、正面からでも拝見しにくかった御本尊や御尊像を、三方から見えるように横の壁を奥に引いて開けるようにしたのである。この佛立最初の御戒壇は、麩屋町の長松寺にお参詣すれば、いつでも拝見していただける。
このように、佛立の御戒壇は、信仰の対象である御本尊さまを御奉安させていただく尊い御館であるが、それは佛立的にいえば極めてシンプル。御本尊を尊く護持して、「誰もがお看経させていただけるように」するものなのである。
もちろん、スリランカにも立派な御戒壇はある。しかし、このまごころのこもった、シンプル極まりない御戒壇と、ご家族のとても素直なご信心を見ていて、心から感激したのだ。
日本の、特に今の世代は忘れている。御戒壇を建立するということを。その意味、その志を。お金で「買う」というだけではない何かを、思い出して欲しいと思う。もちろん、今の日本の皆さんに、「自分で御戒壇を作りなさい」と言いたいわけではない。しかし、日本も、このスリランカのジャガッドゥさんと同じような時代があったのだ。
戦後、妙深寺の執事長・坂本正教師のお母さま、後に尼僧となられた妙正師の御戒壇は、永らくミカン箱を改造して作られたものだったと聞いている。満州から引き揚げてきて、過酷な生活を強いられていた妙正師。それでも、何があろうとご信心を捨てずに、それを貫いた。その本物のご信心の一つの表れが、ミカン箱の御戒壇だと思う。綺麗とか、もっと大きな御戒壇を買いなさいとか、そういうことではないのだ。いま、坂本家の御戒壇はとても立派だ。でも、そういう時代が日本の佛立にあったということも忘れてはならないと思うのだ。
そんなことを思いつつジャガッドゥの家で過ごしていたら、本当に感激した。さらに、家を出る際、ご家族からズシッと重い箱を渡された。「重たいと思いますが、家族全員で毎日貯めてきたお金を御有志させてください」と言って、彼は貯金箱のようなものを私に手渡した。本当に重たかった。日本でいえば御初灯明料のように、毎日毎日、彼らは功徳箱に小銭を貯め、御法さまへの御有志にされていたのである。本当に有難く、尊く思った。
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