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2010年2月18日木曜日

『ファイヤー・ファイター』 妙深寺報 2月号

 彼らのことを現代では「消防士」と呼んでいる。今でこそ官僚的なイメージもあるが、厳しい訓練と情熱がなければ続く職業ではない。

 江戸時代は、消防組織や構成員のことを「火消し」と呼んでいた。「武家火消」「町火消」などと分別されるが、彼らはそれぞれ独特の気風と気骨をもって知られていた。危険を顧みず、炎が渦巻く現場に急行する彼らを、人々は畏敬の念で見つめていた。

 この時代、「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉が生まれた。「当時の江戸は火事と喧嘩が多かった」と考えるのは早計らしい。ここでいう喧嘩とは街中で起こる小競り合いや侍同士の斬り合いではなく、火事と喧嘩が別の場所で起こっているのでもない。これは、火事場で起こる喧嘩、命懸けの消火活動の中で起こる火消し同士の喧嘩、生命を張った喧嘩のことを謳っているのだという。

 江戸時代の火消しは、昔ながらの武家火消しと新興の町火消しが対抗意識を燃やしていた。火事場では、火事による被害を最小限に抑えるため、消火と延焼の阻止が目的となる。そこには封建社会の身分の違いなど関係ない。武士も町人も関係なく、ただひたすらに「消火」「人命救助」という目的のため、命懸けの働きをするのみ。それが出来なければ、「火消し」の使命は消え失せてしまう。

 大都市である江戸が大火に悩み、享保の改革からついに消防制度は町人に向けられた。組織化された町火消しは、命を張って消火することを誇りとして発展してゆく。反面、古くから存在していた武家火消しにはその気概も使命感もないと反発するようになっていった。

 こうして火事場での喧嘩は歌に謳(うた)われるようになった。それは、封建社会に反発する江戸庶民の声を代弁していたと言える。

 英語圏の人々は、消防士のことを「ファイヤー・ファイター」と呼ぶ。「炎の戦士」とでも訳したらいいだろうか。アメリカンフットボールの選手を彷彿とさせる屈強な巨漢が多く、その誇りの高さと使命感の強さに誰もが敬意を払う。「市民を守る勇敢な戦士たち」が憧れの「ファイヤー・ファイター」たちである。

 火事は何も残らない。残してはくれない。人間は火を扱うことによって他の動物よりも優れた存在になったとされるが、火によって苦しんでもきた。普段は何気なく過ごしているが、消防士、火消し、ファイヤー・ファイターの存在があればこそ安心して暮らせている。

 度重なる火災で全てを失う人々を救うため、すぐ側にいて準備を怠らない。全てを焼き尽くす炎の現場も厭(いと)わない。私たちは、その存在と仕事に敬意を払い、そこにある気骨から学ばせてもらいたい。

 ここに、御仏の言葉がある。

「世界はどこも止まっていない。どの方角も揺れ動いている。私は安住の地を求めたが、すでに死や苦しみにとりつかれていないところはなかった。殺そうと争う人々を見よ。武器をとって打とうと したことから恐怖が起こった」

「全てのものは燃えている。欲望と怒りと愚かさによって」

 御仏の御眼から世界を見れば、いたるところで火災が起きており、人々の身体も心も、炎に焼かれていると見えたに違いない。御仏は、その恐ろしい炎を消そうと、法を説き続けられたに違いない。

 世界が燃えている。人が燃えている。子どもが、若者が、家族が燃えている。争い合い、奪い合い、罵(ののし)り合い、傷つけ合って、燃えている。御仏がそうされたように、人々を焼き尽くす炎の消火活動に従事する者だけが、御仏の教えを受け継ぐ者と呼べるのではないか。

 お祖師さまや、門祖日隆聖人や佛立開導日扇聖人、偉大なる先師上人方は、この炎と戦い、人々を焦がす炎を消火するために、上行所伝の御題目を掲げて、命懸けでご奉公された方々ではなかったか。

 死者の弔いをするのが仏教ではない。生きている人々を火災から救い出すのが仏教であったはずだ。

 平成二十一年十二月三十一日、大阪良風寺の藤本御導師がご奉公の最中に命を落とされた。まさか。驚天動地の出来事に言葉を失った。

 藤本御導師は大晦日という最も忙しい時に、「助けてください」という緊急の電話に躊躇することなく、お助行に出掛けて行かれた。そのお助行先で凶行に遭い、絶命された。耐え難い出来事に、ただただ無念で仕方がなかった。

 藤本御導師は、本山の御宝前で何度も三日四晩の百本祈願をされ、日々これほどお看経される御導師を私は知らない。宗門のご弘通が低迷している昨今、藤本御導師の良風寺は活気に満ちあふれていた。本当に、この時代の中、学ばせていただきたいと、お慕いしていた御導師だった。

 その御導師のご遷化には必ずや深い意味がある。御宝前にお縋りする中で問い続け、それが命懸けのお折伏に違いないと確信するに至った。私たちを救ってくださるためのご遷化であり、地獄の蓋をするためのご遷化に違いない。

「如説院(にょせついん)日(にっ)修(しゅう)上人(しょうにん)」。藤本御導師の院号である。この院号が、全てを教えてくださっている。

「此(これ)等(ら)の人人を如説(にょせつ)修行(しゅぎょう)の人(にん)といはずば、何(いず)くにか如説修行の人を尋(たず)ねん」(如説修行抄)

 お祖師さまは如説修行抄の中でお諭しになられた。もし御導師が如説修行の人でなければ他に誰がいるというのか。誰もいはしない。そこまでのお看経、ご弘通ご奉公ができていると言えるか。そんな教務がいるか、と聞いてみたい。

 藤本御導師のご遷化の報に接し、長女の悦子さまは哀しみを堪えて、

「お父さんの本望だから。教務さんで、ご奉公で死ぬのが」

と言われたという。この言葉だけでも御導師の偉大さを痛感する。

 儀式が上手でも知識が豊富でも、声が良くても上品でも意味がない。火事で役に立たない者など、佛立教務たり得ないのだ。オプションばかりに気を取られて、本道から外れているからご弘通が衰退する。

 泥臭くてもいい。恐ろしい災(わざわい)に命懸けで挑む者、日夜厳しい訓練を怠らず、出動を待ち構えている。その気風や気骨、使命感を抱きながら生きるのが本物の佛立教務のはずだ。

 いま必要なのは教えを「説く人」ではなく「体現する人」であろう。仏教諸宗の僧侶とは、全く異なる真実の仏教の教えを、机上や紙上ではなく、まず教務の生き様から体現してゆかなければならない。

 末法の「ファイヤー・ファイター」。

 御導師のお折伏を決して忘れない。

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