彼は、お布施のご挨拶を受ける際、あまりにもぎこちない。学ぶは真似る、だ。師匠や兄弟子のなさり方を真似て、しっかりするように。
ただし、先住は、自分が修行したての頃の、京都でのエピソードを教えてくださった。本山の開導聖人時代からの筋金入りのご信者さんに、「清涼師、お布施のもらい方だけ、お上手どすなぁ」と言われたことがあり、参ったよ、とお話くださった。
教務とご信者さんの距離が、本当に今と違って近かったことを知るエピソードでもある。
さておき、ぎこちないのも問題だが、ご奉公が中途半端なのに、お布施だけしっかりいただく、上手にいただく、というのなら、それも恥ずかしい話。筋金入りの佛立信者からの失笑を買うと肝に銘じておいた方がいい。
また、先住は、自分が「いただいた」などと思うな、と厳しく教えてくださった。御講やご回向で、お布施のご挨拶をいただく時、「いただきます」とは決して仰らず、「お預かりいたします」と仰せになっておられた。自分がいただくのではなく、ご宝前、御法さまへの御志を代わってお預かりしたと思いなさい、と教えてくださった。
自分がいただくというように思うと、それが慢心や勘違いの原因になる。
一つ一つの、教務としての所作振舞が修行だ。
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