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2025年6月21日土曜日

生命とは何か、生きるとは何か@開導会 第一座























開導会の第一座、無事に奉修させていただくことが出来ました。


数週間、御法門を研鑽させていただきましたが、まだ時間が足りなかったように思います。この宇宙最大のテーマ、生命とは何なのか、生きるとは死ぬとはどういう意味があるのか。50ページくらい、原稿を書いては消し、書いては消し、を繰り返しました。少しでも心に届けばありがたいです。


本堂の中で、あの空間にいなければまた伝わりにくいと思いますが、渾身の御法門をさせていただきましたので、ご聴聞くださればありがたいです。


<令和7年 開導会 第一座 御法門>



御教歌

何ごとも 過去のむくひときくからに みのりにあひしわが身うれしも


甲本ヒロトさんの言葉、手塚治虫氏の代表作『火の鳥』、福岡伸一先生の「動的平衡」、また新刊『動的平衡は利他に通じる』などをご紹介しました。


「生命とは何か」

「生きることと死ぬことの意味は何か」

人類の歴史が始まって以来、私たちが求め続けたもっとも深遠な問い。


「いのちは、有限であるからこそ輝きます。

死は、怖いことでもむなしいことでもありません。

死があるからこそ新しい生があり、進化が生まれます。

死もまた、いのちをつなぐ利他なのです。」大阪万博 / いのち動的平衡館


御教歌

神ひの 宿がへするを死ぬるのと いはゞ今こそ大事なりけれ


本日、御法門の中では拝見しませんでしたが、ハラワタに入れていただきたい御指南、御妙判を掲載させていただきます。


「無始とははじめなしと読む。巳来とはこのかたとよむ。迷ひの凡夫、生を隔つれば即ち忘るるものなれど、過去ありし故に現在あり。されば過去に又過去あり。そのむかしを思ふに人にてもありしや畜生にてもありしや。只佛性は具せる身と承はれどもその迷ひのはじめをしらざれば無始といふなり」「法門合」32・377


下記は日蓮聖人・お祖師さまの御妙判です。


「悲しい哉、痛ましい哉。我等無始より已来、無明の酒に酔ひて、六道四生に輪回して、或時は焦熱、大焦熱の炎にむせび、或時は紅蓮、大紅蓮の氷にとぢられ、或時は餓鬼飢渇の悲みに値ひて、五百生の間飲食の名をも聞かず、或時は畜生残害の苦みをうけて、小さきは大きなるにのまれ短きは長きにまかる。是れを残害の苦と云ふ。或時は修羅闘諍の苦をうけ、或時は人間に生れて八苦をうく。生老病死、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦等なり。或時は天上に生れて五衰をうく。此の如く三界の間を車輪の如く回り、父子の中にも親の親たる子の子たる事をさとらず。夫婦の会遇へるも会遇ふたる事をしらず。迷へる事は羊目に等く暗き事は狼眼に同じ。我を生たる母の由来をもしらず、生を受たる我身も死の終りをしらず。嗚呼、受難き人界の生をうけ値ひ難き如来の聖業に値奉れり。一眼の亀の浮木の穴にあへるがごとし。今度若し生死のきづな(絆)をきらず、三界の篭樊を出でざらん事かなしかるべしかなしかるべし。」聖愚問答鈔・昭定351


現代語訳

「ああ、なんと悲しく、痛ましいことだろう。

私たちは太古の昔から、無明という酒に酔わされて六道四生をあてもなくさまよい、

ときには焦熱・大焦熱地獄で焼ける炎にむせび、

ときには紅蓮・大紅蓮地獄で身を裂く氷に閉ざされ、

ときには餓鬼道で飢え渇きにさいなまれ、五百生ものあいだ「食」という言葉すら耳にしない。

また畜生道では弱肉強食の苦しみを受け、小は大に呑まれ、短命は長命に従う――これを残害の苦という。

修羅道では絶えまない闘争に身を投じ、

人間界に生まれては八つの苦(生・老・病・死、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦)に襲われ、

たとえ天上界に生まれても、やがては五衰の衰えを免れない。

このように三界を車輪のように回り続けながら、

父と子でありながら互いにその縁を悟らず、

夫婦として再びめぐり逢っても、その因果を知ることがない。

迷いは羊の目のように曇り、暗さは狼の目にも等しい。

自分を産んでくれた母の由来も知らず、この身の終わりさえわからない。

それでも今、得難い人間として生を受け、さらに稀有なる如来の聖なる教えに巡り会えた。

これは、一つ目の亀が大海に浮かぶ流木の小さな穴に首を通すほどの奇跡にたとえられる。

もし今生で生死の絆を断ち切らず、三界という鳥籠から抜け出せなかったとしたら――

それこそ、どれほど嘆かわしいことだろう。」


明日22日は開導会第二座が11時より奉修されます。

ぜひ開導会にお参詣ください。

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