園美さんの投稿で田口ランディさんを知り、エッセイを読むようになりましたが、今回の考察には深く考えさせられました。
最近、ずっと「恥」について考えてました。恥や慚愧の座標が、世の中と共に圧倒的に変化したのですが、なかなか言語化できず、ランディさんの視点は一つの窓に感じました。
仏陀は「世界を護る二つの明るい番人」は「慚(hiri)」と「愧(ottappa)」であると説きました。「hiri」は「自分の良心・自尊に照らして悪を恥じる心」、「ottappa」は「悪い行いをした結果を恐れる心」。この二つの性質が人びとの心にある限り、世界の秩序は保たれると仏陀は説いたのです。逆に、もしこの心が失われれば人間社会は獣の世界と変わらない無秩序な状態に陥る。
世界は知らず知らずのうちに変わってゆきました。そして、知らず知らず、僕たちの心も変わってしまった。もしかしたら、その正体が「恥」や「慚(hiri)」「愧(ottappa)」ではないかと思うのです。
日蓮聖人は最重要御書の一つ『開目抄』の結びで以下のように述べられました。
「愚人にほめられたるは第一のはぢ(恥)なり」
日蓮聖人は「いいね!」の数や登録者数、再生回数ではなく、拍手の「質」が恥の座標を決める、と逆転の価値観を力強くお示しです。「法」を軸とした「いいね!」でなければ逆に「恥」となる。アルゴリズム時代に日蓮聖人の御妙判は大変鋭い処方箋だと思います。
今こそ、じっくり、世界を護る二つの明るい番人、「慚(hiri)」や「愧(ottappa)」の根っこにある「恥」について考えなくてはならないと思います。
大変な人気の政治家の方々を批判する内容ではなく、あくまで時代と人間の考察です。下記、田口ランディさんの考察の骨子をピックアップしてみました。
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・今や「X」が特殊な場所に変貌して、「公共倫理」が逆転した。
・正しさを演じることが正しさの否定になる。
・腐臭を放つ正しさの横行。
・みんなが匿名で正義のコスプレをしてる。
・倫理が倫理を食いちぎって空洞化した「X」
・それを最大限利用する政治家の登場。
・トランプ大統領は「恥じない」ということを政治的なスキルに変換した。全く新しいネット時代の政治家。
・彼らによって「恥の感覚」は再定義された。強い正義は恥じる必要なし。恥じなければ正義!そうやって「倫理が倫理を食いちぎって空洞化」した「X」を最大限に利用している。
・トランプ大統領は「恥を失った世界」で「恥の不在」そのものを権力の源泉にしていった、めちゃくちゃ時代感覚が鋭い人。
・だから彼を批判しても通じない。恥を感じる言葉の体系の外側に出てしまい、超越している。
・インターネット上の「X」のネオ倫理観を、とうとう実社会まで拡張させてしまった。
・昔の恥は、共同体が与えてくれる座標だった。今は、その座標が消えてきてしまって、昨日恥だったことが、今日は称賛されたりする。
・「恥」がとろけちゃって、「それは倫理に反して恥ずかしい」なんて言っているうちに、後ろからボカされる……そんな時代になった。
・「私が恥ずかしいと思うことと、他者が恥ずかしいと思うことの落差はどれくらいなんだろう?」その問いかけは、すごく、すごく、すごく大事だよね。きっと。
・きっと、アメリカの人たちも国レベルで問うているんじゃないかなあ。
・どういう恥の感覚を持っている人をリーダーとして選ぶのかも問われてる。
・そういう「恥のスクラップ&ビルド」の時代なのかもしれない
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田口ランディさん、すごいです。深く、考えさせられました。
あらためて、古い仏典では「hiri(内なる慚:自らの非を恥じる)」と「ottappa(外への畏:他者や法を畏れて慎む)」を「世界を護る二つの明るい番人」(sukka lokapāla)と呼んでいます。良心としての「恥」と「畏れ」や「慎み」が健全な社会に欠かせないという設計図。
日蓮聖人は主要御書『開目抄』で次のようにお諭しです。
「愚人にほめられたるは第一のはぢなり」
そう、「恥」を知らない者は愚かだが、恥の基準は「誰に褒められているか」でなければならないと宣言されています。
鎌倉期の武家社会には厳格な「名誉」「羞恥」のコードがありました。日蓮聖人はそれを「法」に対する「慚(hiri)」と「畏(ottappa)」の座標に据え直した。共同体や他者の評価より、御法さまの前で「恥ずかしい行為」か否か、「誇り得る生き様」なのかという座標です。
シンギュラリティ (singularity) を前にして、今や人類は史上最も巨大な分岐点に立っています。
「世界を護る二つの明るい番人」、「慚(hiri)」と「畏(ottappa)」は絶滅の危機に瀕していて、すでにその定義や座標が変わっています。日蓮聖人は「世界の番人」の本質を見抜き、「御法」に照らして「褒められる」ことこそ大事で、他者や匿名の「いいね!」はむしろ「恥」ではないかという大切な座標を示しておられました。
田口ランディさんの文章から、たくさんのことを学び、考えさせていただきました。考えすぎて、エネルギーを使い果たしてしまった感じです。
どちらにしても、みなさまも本件について考えていただければ幸いです。
ありがとうございます。
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