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2010年8月3日火曜日

慰問演奏

 書きたいことがあるのに書けないのは歯がゆいです。
 まず、書きたいことというのは、妙深寺の近くにある特別養護施設・羽沢の家に妙深寺のコーラス部と長野教区の篠原さんが慰問演奏に行ってくださったこと。なかなか、今の妙深寺は、お寺としての福祉活動が出来ていません。しかし、こうして、各教養部が協力して、自発的な活動をしてくださっています。ありがたいことです。
 篠原さんは、マウスオルガンの演奏をしてくださいました。篠原さんは、これまでもお年を召した方や身体に障害を抱えておられる方への演奏活動をしてこられました。特に、篠原さんは「何かをしてあげる」ということではなく、こちらから「学ばせていただく」という姿勢で一貫しておられます。いつも、こちらが勉強させていただいています。
 介護を受けなければならない人に演奏を聴いていただくのと同時に、介護をしているご家族への心と心の交流をしておられる。なかなか、佛立教務でも、佛立信徒でも、できることではありません。

 私たちは、一人ご病気の人が家にいたら、家族全員が同じ病気だと思ってご奉公しなさい、と教えられるのです。自他彼此の心なく、自分や他人という境界線を低くしてするのがご奉公だと教えていただきますが、それが実践できている人は少ないものです。でも、これは難しいことです。
 ほとんどの人が、境界線を引いて壁を高くしておかないと自分が守れないと思っている人ばかりです。
 自他彼此の心をなくして、向き合うこと。本当に、難しいことなのです。それを、篠原さんはしてこられたし、こういう慰問を通じて学ばせていただくことが出来ます。
 先日来、100才を越える方がどこにいるか分からないなどと報道されています。情けない話です。年金を不正受給していた問題は明らかな犯罪ですから司法にお任せしますが、親の消息が分からないと堂々と公言する子どもやコメントを避ける報道番組に違和感を感じます。親子です。「知らない」で済むことではありません。言語道断の事態。たとえば篠原さんのご両親を想う気持ちに比してこの当事者を考えると、その気持ちに天地雲泥の差があり、胸が締め付けられるような気持ちになります。「恩」や「愛」について。
 ご高齢の方の人権にも関係しますから不用意な発言は出来ませんが、110才前後の方が自分で引っ越しをしていくなどとは、明らかに考えにくいです。芸能人の事件や「長野サリン」事件などは、いらぬ詮索を繰り返してきたのに、これほど重要な事件に対してなぜか「のんびり」しているように感じます。

 年金受給者への管理を担当する方々が記者会見をしておられましたが、申し訳ない言い方を率直にすれば、その発言内容、態度、緊張感、危機感を含めて、いかにも無能そうに見えました。彼らは、社会を健全に保つことに情熱を感じているでしょうか。

 「一人信心でよしと思ふは、給銀メ当の実意なき臣下と云もの也。かやうの人々なれば不忠もの也。法に取りては大謗法となりて、仏祖の冥加にはずれたる人とならん事、疑ひなし。慎み給ふべし」隆師年譜(下)

 全国で同じ案件がないかチェックすると同時に、その背後にある一人ひとりの心の問題、社会問題を発見し、何とかしてゆかなければらないと思います。

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