2008年5月23日金曜日

心の中に住む鬼

 心は海の砂のように掴みづらく、フワフワ、サラサラ、「こうしよう」と思ってもなかなかどうなるというものではない。しかし、人間として生きているのだから、このどうしようもない「心」という奴を、どうにかしたいと奮闘してしまう。
 イヤな出来事があっても、あっさりと受け流す人もいれば、そこでクヨクヨ、そこからイライラしてしまう人もある。同じ出来事でも、その人の「受け止め方」、つまり「心」の持ちよう、過ごし方で、千差万別の変化、結果が伴う。とにかく、心とか人間性とかと言うけれど、これを何とかしないと幸せに生きていくことなど出来ないとつくづく思う。
 お祖師さまは御妙判に「心の師とはなるとも心を師とせざれ」とお諭しになられている。これは諸経の中から引用されているのだが、仏教徒にとって含蓄に富む教えだ。「心」の師匠になっても、「心」を師匠にするな、と。かくも「心」を客観的に見ておられる。「自分」?「心」?と、「?」マークが続いてしまう。
 このブログで難しいことを書こうとは思わない。御題目口唱の背景には宇宙の全ての「現象」を整理・吟味・整頓したほどの哲理があり、その上で本地甚深の奥蔵は明らかにされたわけだが、その「哲理」をブログという限られた中で書くことも難しく、理解することも難しい。故に、御題目口唱という「行」を立てて、「理」を後ろに置く。
「一念三千、十界互具、開会観心をしらねば、成仏せぬといはば、愚者悪人のたすかる大法にはあらず。ただ御本尊にむかひ、無始の罪障消滅を願ひてあれば、かの御本尊のたかにてよきやうにあそばされくださるなりと信ずべし。本尊問答抄、観心本尊抄、諸御抄の御意。門祖の御指南、みなこれなり。仰いで大切に口唱すべき也」
「開会観心、広学多聞は謗法起こす基也とて御誡めあり」
 ところで、こうしていても、日々に感じるのは、人々の心を何とか御仏の教えの下に近づけさせていただかないと、大変なことになるのではないか、という危惧だ。今の社会問題のすべてを、カルト的に「正しい仏教を信じないからこうなるのじゃ~」とは叫びたくない。しかし、考えてみれば明らかだが、人間の「心」が曲がれば「行動」も曲がる。「心」を導くのは宗教の役割であり、実際には「科学」や「学問」とは違う。一人の心の乱れは、隣の人にも移るし、心の乱れは社会に伝播する、仏教的に考えれば自然界にも伝播するだろう。一人の心はミクロの宇宙法界であり、この世界・宇宙はマクロの宇宙法界で同一と言えるのだから。
 何を書いているのか分からなくなってきたが、勿体ないので載せてしまおう。書きたいことは山のようにあるのだが、つまり、どうか考えすぎないで御題目をお唱えしよう、お唱えしなければならない、ということ。複雑怪奇な「心」に翻弄されず、「信」を根っこにして生きてゆければ、これほど幸せなことはないのだから。「信」がなくなった状態こそ恐ろしい。
「心の鬼が地獄へ連れ行き、心の菩薩が寂光へ導くと云う事、此の一句を口癖のように云いなれて、よくよく味わい、御法門聴聞に行く道々にも、心にたくわえ、お看経の時にも、心に忘れず、朝起きても、一番に思い出し、一日暮れて、夜臥す折にも、心の鬼が地獄につれ行き、心の菩薩が寂光へ導くと、一日、二日、三日、乃至、一年、十年、一生の間、忘れざれば、臨終の時には、心の菩薩が寂光へ導かせたまふものなり。御臨終の夕べには、日蓮必ず御迎えにらむかうべしとは是なり」
「家の出入り、常の時も、御本尊を生身の尊体也と、忘るる間なく仕へ思ひ奉りある人なれば、万事物事に恐るる事なし。舟に乗る時も、夜行く時も、夜臥してある其の間も、御守りを、慥に喜びある故に、されば生死に恐れ無き御題目の信者にてあるなり。忘れ、怠る間ある人を、持ち奉る人とは申しがたし」
「吾祖曰、心は如何様に起こらうとも口に南無妙法蓮華経と唱ふればと云々。されが起こる心は私にあり、此の私頼むに足らず、我が口唱の声を頼りにして心を声ばかりにせよ。其の時五字と信心と和合して行者の一心ご本尊と顕るものなり。唯、我と云うもの、私と云うもの消えはてて御題目ばかりになること肝要なり」

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