血液検査をしました。
横浜 山手駅入口にある床井先生を頼って参りました。
しっかり体調管理しなければ早々に退陣となりまする(汗)。
身体に気をつける。
健康に気をつける。
不養生は謗法。
いつも言われているので、とてもよく分かります。
ただ、いつも同じように思い返しますのは「不養生」よりも怖い謗法です。
ご弘通が明らかに低迷している時代に「不養生謗法」だけを取るのは通りません。
特に教務は「法中有食」「死身弘法」の金言の方に自身を重ねて、低調や衰退の流れを変えるべく、お看経、お助行、ご奉公に精進すべきです。
必ず現証の御利益が次々と顕れてきます。
先日、映画『おくりびと』で納棺師の演技指導をされた木村眞士さまからエンディング産業展2016にご招待いただきました。
私が京都でご奉公のため、財団の担当をしている兼子清顕師に行ってもらいました。
エンディング産業展2016。
大変な活況で、清顕師が大変勉強になったとレポートしてくれました。
葬儀の在り方はもちろん、墓地の在り方も、家庭の中の仏壇(本門佛立宗では「お戒壇」と呼びます)の形態も、その他にも様々な動きがあり、大変参考になったとのことでした。
葬式仏教でもなく、新興宗教でもなく。
過去だけに縛られず、現代に流されず。
生きた仏教、真実の、本来の仏教を伝えようとする私たちにとって、学ぶべきことがあります。
ご弘通のためにアンテナを立てて。
そして、最近つくづく思いますのは、信仰を持つ大切さです。
散骨、樹木葬、友人葬、いろいろとありますが、本当にそれでいいでしょうか。
確かに、何の思いもないなら、エンディング産業展に出展している「お坊さん便」のようなところに頼んでもいいと思います。
しかし、そもそも何ら信仰がないならば、そこにお坊さんが来て、分からないお経を黙って聞いているだけで、何の意味があるのでしょう。
「ナンデモアリ」は「ナンニモナイ」のと一緒です。
4年くらい前に言い続けていましたが、テーブルの上にいろいろなお袈裟を並べたお坊さんの派遣ビジネスもある世の中、本当にお金やビジネスだけ考えれば何でもありになってしまうでしょう。
信じるお寺があり、手を合わせる信仰があり、生きた仏教を説く、生きたお坊さんがいるのが、理想ではないのかな。あるべき姿ではないのかな。あるいは、あるべき姿が無いから、みんな違うもの、違うことに、頼らざるを得なくなっているのではないのかな。
理想を、あるべき姿を、考えてみるべきだと思います。
お家に、お仏壇(お戒壇)がある。
そして、身近にお寺がある。
信頼できる、親しい住職や僧侶がいる。
できることならお墓も、その信頼できるお寺や僧侶がいて、朝に夕に祈りを、御題目をお唱えくださる場所にあれば有難いのではないでしょうか。
エンディングを考えることは大切ですが、方向を間違えると虚しくなります。
自分が去った後も、残された者が幸せに、穏やかに暮らせるように、信頼できるお寺やお坊さんが求められていると思います。
ただ、この「信頼できる」という点が末法では問題だから自分も含めて自戒が必要です。
師匠も、弟子も、僧侶も、信徒も、みんながみんな、三毒強盛の凡夫だからです。
「坊主丸儲け」
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」
坊主、僧侶、住職は、生き仏なんかじゃなく、同じ修行者として、役割を全うしようと努力しています。
間違えず、みんなで歩んでゆきたいですね。
ありゃ、病院の待合室から、お薬をいただく所まで来てしまいました。
長いつぶやきにお付き合いいただき、申し訳ありません、ありがとうございます。