2015年5月30日土曜日

マグニチュード8.5

マグニチュード8.5。

巨大地震でした。

気をつけないとー。

噴火や地震を「関係ない」という専門家の方がいますが、あまりに仏教と違ってビックリします。

関係ない、は無い。

すべてはつながっていて、相互に影響を受け、影響を与えて、今がある。

気をつけましょうー。

今日、宥ちゃんが次男坊を撮ってくれました。

素晴らしい空の下で。

きれいー。

今夜はすぐり君がお泊りに来ていました。

地震、驚いたー。

皆さん、お気をつけくださいー。

震度5強

強い揺れ

気をつけて

2015年5月29日金曜日

横浜大空襲と児童虐待致死事件のご回向

70年前の今日、横浜大空襲がありました。


妙深寺の隣接する横浜市営三ツ沢墓地は、明治末期から徐々に造営されてきたそうです。


この三ツ沢墓地に、横浜大空襲で亡くなった方々、主に反町と黄金町方面で亡くなられた方々のご遺体が運ばれてきて、丘の向こう側に埋葬されたそうです。


そして、後に荼毘に付されて、横浜大空襲の慰霊塔が建立されました。


今朝、朝参詣に引き続いて、皆さまとご回向に行かせていただきました。


大事な節目を、大切に過ごさせていただきました。


そして、夕方、昨年に引き続いて、児童虐待によって亡くなった子どもたちのご回向をさせていただきました。


昨年ご回向できなかった子どもたち。


いま、問題となっている「居所不明」の子どもたちについて、ご回向させていただきました。


あいりちゃんや、りくくんの、ご回向でした。


これからも、しっかりとご回向させていただきます。


南無妙法蓮華経、


法華経常住一切三宝諸仏諸尊この室に来臨し、一切の障礙を払い、哀愍救護を垂れ即是道場に於いて、知見照覧なさしめ給え。


本日ここに、蓮師相伝秘要の対境、本地本法本門法華経の御宝前において、恭しく壇を設け、礼をもって営み奉るところの一座の法要は児童虐待致死事件回向法要一座なり。


ここに受持口唱し奉る本地本法の功力をもって謹んで回向し志して弔うところは、

 

横浜市にて発生の事件。

俗名 山口(やまぐち) あいり

母親は離婚後、住居を転々とし、小学校にも入学させてもらえず、母親や同居人より日常的に暴行を受け、平成二十四年七月二十二日、頭蓋内損傷にて六歳を以て命終るも、雑木林に遺棄され、翌年四月に親族の通報により捜査、発見された霊位。妙法経力追善菩提。

 

厚木市にて発生の事件。

俗名 斎藤(さいとう) 理玖(りく)、

両親より育児放棄され、食事を与えてもず、衰弱、「パパ」と呼び続けるも家に放置、平成十八年十月より十九年一月頃満六歳を以て命終るも、約八年間にわたり自宅アパートに放置、児童相談所の通報により捜査、平成二十六年に発見されたる霊位。妙法経力追善菩提。

 

大阪市にて発生の事件。

俗名 羽木(はぎ) 桜子(さくらこ)俗名 羽木 楓(かえで)

母親は離婚後、住居を転々とする中で、育児放棄され一ヵ以上自宅に放置、食事を与えてもらえず、去る平成二十二年六月下旬桜子 三歳、楓 一歳をもって命終の霊位。妙法経力追善菩提。

 

山形県にて発生の事件。

俗名不詳、男児。

経済的な困窮から、母親と共に車上生活を送、平成二十一年十月十三日~ 十五日頃に母子で心中を図り、十歳を以て命終の霊位。妙法経力追善菩提。

 

岡山県にて発生の事件。

俗名 飯島(いいじま) 陽子(ようこ)

母親は離婚後、女児を出産するが、小学校に入れてもらえず、家から出歩くこともなく、不衛生な状況で生活させられ、経済的困窮から食事を与えてもらえず、衰弱し、平成十四年九月十日頃、十一歳を以て命終の霊位。妙法経力追善菩提。

 

足立区にて発生の事件。

俗名 皆川(みながわ) 玲空斗(りくと)

平成二十四年十二月から約三ヶ月間、うさぎ用のかごにて監禁され、食事を与えてもらえず、翌、平成二十五年三月、口にタオルをまかれるなどの暴行を加えられ、三歳を以て命終せるも、遺体を段ボールに入れられ荒川もしくは山梨の山中に遺棄され、現在も行方不明た霊位。妙法経力追善菩提。

 

いずれも、児童相談所をはじめとした公的機関は、幾度にも及ぶ出頭要請や立ち入り調査を行い、事件防止に奮闘するも、所在不明として安否確認に至らず、今ここに悲し現実となるなり。

 

、児童虐待致死事件犠牲者の諸精霊、妙法経力 追福作善 証大菩提の為


仮使遍法界断善 諸衆生一聞法華経 決定成菩提


生死の長夜を照す大灯明、元品の無明を切る大利剣、妙法経力追善菩提。


経に曰く「若有聞法者 無一不成仏」「毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身」「於我滅度後 応受持此経 是人於仏道 決定無有疑」。


妙法蓮華経者、上は悲想の雲の上、下は奈落の炎の底までも、皆この光明に照らされて、一切の群生、諸々の苦患を逃るるものなり大慈大悲大恩報謝


納種在識 永劫不失 名字信行 即身成仏。

 

右、弔主、有志一同、関係各位、只今参詣の面々、各々謗罪消滅定業能転

信心増進身体壮健現世心中所願決定成就円満一切無障礙

願わくは、育児を行う全ての家庭の円満、子どもたちの無事養育成長、児童虐待のない社会の実現に向けて、児童相談所並びに関係各機関の職務、無事完遂なさしめたまえ。現証御利益感応道交哀愍納受。


南無妙法蓮華経

2015年5月28日木曜日

明日は

何だか勉強しなければならないのですが、次から次へと続くご奉公の中で、飛んでゆくように時間が過ぎてゆきます。

父の、古い古いカメラを、使いもしないのに、パソコンの前に置いています。

なぜだろう。

また、それにしても、死にゆく人に見る美しさと、生きている者たちの醜さの対比が、気になります。

そうであっては、ならないはずだから。

明日は、横浜大空襲から、70年目を迎えます。

朝から、妙深寺の教務全員で、三ツ沢墓地の慰霊塔にお参りさせていただこうと思っております。

是非、お参りください。

2015年5月27日水曜日

清潤から幸子さんへ

昨夜、幸子さんのお通夜、そして本日、無事に告別式を奉修させていただきました。

これまで、どれだけお見送りしてきたか分かりませんが、まさに「今生人界の思い出」となる、忘れがたい、いや、本当に素晴らしい佛立信徒の旅立ちでした。

出棺の際、喪主の健太さんからご挨拶がありましたが、長男として、家長として、家業の代表取締役社長として、そして、本門佛立宗の信徒として、本当に立派なご挨拶がありました。

これまで、お聞きしてきた、喪主のご挨拶の中で、最も素晴らしいご挨拶でした。

お母さんは、さぞ誇らしく、うれしく、有難く、思っておられると思います。

本当に、5月5日、御講を奉修できたことは、今生人界の思い出となりました。

「今生人界の思い出」
http://hbs-seijun.blogspot.jp/2015/05/blog-post_5.html

でも、その一生、出会い、闘病、ご家族の姿、そして臨終の姿、この告別式、それら全てが、特別に強く、太く、胸に、心に、刻まれるものだったのです。

家族。

命。

「一度の死は一定なり。」

お祖師さまの、『兄弟鈔』のお言葉です。

死なない者はいない。

では、どう生きて、どう死を迎えるか、です。

先住は常々「生き恥かいても死に恥かくな」と仰せでした。

「なにとなくとも一度の死は一定なり。いろ(色)ばしあしくて人にわらはれさせ給なよ。」(『兄弟鈔』・昭定九二六)

痩せて、少し疲れているようではありましたが、穏やかな、美しい、眠っているような、笑っているかのような、真っ白な姿でした。

自分が死んだら、住職に届けるようにと、手紙を預かっていた長女の香さん。

また心臓に針を刺すような気持ちで、そのお手紙を読みました。

その幸子さんの、命がけの想い、生々世々の想い、その御一生を受け止めて、このご縁の、師弟の、法縁の、今生の出値いの、意味を噛みしめながら、ご奉公させていただきました。

昨夜と、今日と。

心臓に、針を刺すように。

幸子さんが書いてくれた最後の手紙を、読んでいただきたいです。

何よりの、ご回向になると確信します。

「御住職へ

今生人界の思い出

御住職の今生人界の思い出の一つに、西木家での教区御講が加わったことは、私にとってこそ今生人界の思い出です。

この世の人として生まれて、御法様にお出会いできた喜びを自分だけにとどめず、世の為に、人の為に伝え、その喜びを実感していただかなければなりませんね。
私は、やっとこのことに気付きました。

今度、もし人として生まれてきたら、もっともっと早く御住職や妙深寺のお教務様、御信者の皆様とお出会いし、菩薩の心をもった御奉公をさせていただきたいです。

私がこの世を終えることで、家族がより一層一つになることを願います。
御住職、本当にいろいろとありがとうございました。
ありがとうございました。

今生人界の唯一の、最高の思い出です。

ありがとうございました。

西木幸子」

人間の命は、あたり前のことですが、尊いものです。

ずっとあるように思うけれど、時間は限られていて、そんな僅かの間に、いろいろな人と出会って。

本当に、人間に生まれることは難しい、仏法に出会うことは難しい、何もかも、難しい。

だから、あなたに会えてよかった、御法さまに会えてよかった、生まれてきてくれてありがとう、生きていてくれてありがとう、生んでくれてありがとう、ありがとう、ありがとう、と。

生々世々、菩薩の道を行じ。

生きている間、このお手紙を、このお手紙の中にある幸子さんの命を、心を、受け止めて、これからも、全身全霊で、精一杯、ご奉公させていただきます。

幸子さんが亡くなる5日前、枕元に伺い、手を握って、お話をしました。

頼りない住職で申し訳ない。

そう言うと、そんなことを言うなと叱られました。

健太さんは、ご挨拶の中で、5月5日の教区御講でいただいた御教歌を家族の指針にしますと仰せになり、結びには願文をお唱えくださいました。

「いきかはり死にかはりつゝ法華経に 仕へん人を菩薩とぞいふ」

御題には「世々恒聞法華経恒修不退菩薩行」と添えられています。

「願くは我生々として諸仏に見(まみ)え、世々恒(つね)に法華経を聞き、恒(つね)に退せず菩薩の行を修め、自他法界(一切の衆生)菩提(ぼだい)を証せんことを。」

この願文は、数千年来、法華経を信じる者たちが唱えてきた願いの文です。

大正4年12月24日、鳥取県の伯耆一ノ宮で、高さ1.5メートル、直径15メートルの経塚が発見され、その中から「経筒」と呼ばれる、お経を中に入れた筒が発見されました。

調べてみると、堀河天皇・康和5(1103)年10月3日に収められたものであることが分かり、その中には「妙法蓮華経」一部八巻が収められていました。

今から912年前、お祖師さまがお生まれになる実に119年も前です。

法華経を信じる人びとの純粋な願い、誓い。

発見された願文の結びに、開導聖人がこの御教歌で御題としてお付けになられた、この御文が書かれていました。

「世々恒聞法華経恒修不退菩薩行」

生々世々、菩薩の道を歩むという願い、誓い。

経塚とは、その功徳を、タイムカプセルのように、未来の人にまで届けようとしたものです。

そして、その功徳をもって、自分自身の、家族、一族の、しあわせを、願ったのです。

宮沢賢治さんも、「雨ニモマケズ」の手帳の中で、「経筒」のデッサンを描いています。

彼も、自分の死後にまで思いを馳せて、永遠に此の功徳を、普く一切に、未来にまで届けようとしていたのでした。

イーハトーブには、今でも賢治さんの経筒が埋められているはずです。

臨終の時の、賢治さんの遺言については、ご存じのとおりです。

命の、その際に立って、どのようなことを思うでしょう。

幸子さんのお手紙こそ、まさに、今生人界の思い出です。

高祖日蓮大菩薩曰く。

「日蓮は日本第一の法華経の行者なり。

日蓮が弟子旦那等の中に、日蓮より後に来たり給ひ候らはゞ、梵天、帝釈、四大天王、閻魔法皇の御前にても、日本第一の法華経の行者、日蓮坊が弟子旦那なりと名乗って通り給ふべし。

此の法華経は三途の河にては船となり、死出の山にては大白牛車となり、冥土にては燈となり、霊山へ参る橋なり。

霊山へましまして艮艮の廊にて尋させ給へ。

必ず待ち奉るべく候」

ほんの、わずかな年月でした。

しかし、如説修行抄にあるとおりの、ご信心を見せていただいたと思います。

今でも、頼りない住職で、本当に申し訳ないと思っていますが、さらに本当のご奉公を目指して、精進してゆきたいと、覚悟しています。

ひとまず、しばし、お別れします。

すぐに戻って来ていただいて、大切な、これからのご奉公に加わってくださると、確信しています。

ありがとうございました。

ありがとうございました。

ありがとうございました。

幸子さんも、3回書いていたから、僕も3回書くよ。

長松清潤拝、

2015年5月26日火曜日

野は春ごとに必ず花咲けども

野は春ごとに必ず花咲けども、草は朝として露を遺すこと無し。

人もまた花の如く生じても消えゆくことは草の上の露に似たり。

古句に曰く、樹、静かならんと欲すれども風止まず、子、孝ならんと欲すれども親待たず。

願わくは、生々世々行菩薩道の誓願に任せて、師檀世世生を共に相まみえ、浄仏国土の大願成就、再び共に菩薩行に精進せんことを請い願うのみ。

2015年5月25日月曜日

長渕剛さん

昨日、長渕剛さんと握手してしまいました。

横浜に、どんなご用事があったのか知りませんが、お会いできて、握手までしてくださり、感激しました。

先ほど、大きな地震がありました。

茨城県が震源とのことですが、被害が無いことを祈るばかりです。

すべてが、つながっているから、信じて、畏れて、謙虚に、精一杯、生きなければなりませんね。

自然は、大きいし、美しい。

人間も、本当に、素晴らしい。

限りある時間の中で、すてきな種まきを続けてゆくこと。

怖いこともあるけれど、ここにフォーカスすると、うれしいことばかりです。

2015年5月24日日曜日

15年前の文章です。暗くてすいません。

御参詣御礼
清潤
 
 本日、当山御住職松風院日爽上人御本葬義に、御出座賜りました奉修御導師、並びに御導師様御講師様方又ご参列いただきました有縁のご信者様方、御法務ご多忙の中御参集いただき、誠にありがとうございました。

 御住職日爽上人は、平成十二年六月十四日、横浜市大付嘱病院にて、今般娑婆での化導を終えられ、寂光へと向かわれました。

 法寿六十二歳という年齢を凡慮で推し量りますと、まだまだこれからと云う若さで、その一期の化導を終えられてしまわれました。

 恐れながらその御一生を振り返りますと、当に正法弘通の使命と佛立教務道の実践を我々に示し、短いとはいえ太く偉大な人生を送られたと拝察致しております。

 思いますれば、ご住職は昨年先住日博上人御三十三回忌法要を終えられた五月頃より体調不良を訴えられ、家族の申し出で、一度詳しく検査をしていただく運びとなったのであります。

 その結果は進行性の最悪の癌と云う宣告でありました。

 我々ならば到底受入難い状態を御住職はそれら一切を受け入れ、緊急手術に向かわれたのであります。

 そして一日一日と我々家族への指導と御法の御利益を示され、退院後もご信者に心配は掛けられぬと即御奉公に復帰して励まれました。

 本年四月まで妙深寺、法深寺の教区御講、長松寺の御総講を奉修され、最後の最後まで御法御弘通一筋で過ごされたのであります。

 そんな中、去る六月十四日、午前四時、病室の母から電話があり、急遽病室に向かうことになりました。

 六月に入ってからと云うもの、日増しに病状が悪くなっており、一抹の不安がよぎる中、病院に駆けつけたのであります。

 病室に着くと、呼吸が苦しいのか酸素マスクをつけられておりました。

 病室に入って「御住職、清潤です」と云うと「ウン、ウン」と頷かれ、枕元に行くといつものように「寺報は?」と聞かれましたので、「大丈夫です」と申し上げました。

 自分の臨終間際までお寺のこと、ご信者のこと、御弘通のことを気に掛けておられることに、今更ながら驚愕せずにいられませんでした。

 しかも、御住職が最も気に掛けておられた先住日博上人の孫「康仁」の名を呼ばれました。
 康仁は御住職のお怪我、病気のお姿を見て、御弟子に加えていただくべく、得度の御願いをし、妙深寺に見習いとして入寺しておりました。

 最後を覚悟したかの如くに、康仁を呼ぶように言われたのです。
 ご自身の状態などは、一向に無視し、唯々弟子となる康仁の得度を気にしておられたのであります。

 電話で連絡を取り、康仁に大至急病院に向かうよう伝え、御住職の耳元で「康仁が高速に乗りました」「ウン」「高速を降りました」「ウン」「下に着きました」といいながら到着を待ったのであります。

 朝の四時から病室で御題目をお唱えしていても、病院の主治医の先生、看護婦さんも、御住職に「長松さん。皆さんが一生懸命お祈りしてくれていますよ。大丈夫ですよ。頑張って下さい」と言ってくれました。

 康仁は、到着すると入るなり泣き叫びながら御住職の枕元に走り「御住職!康仁です」とすがりつき、看護婦さんが貸してくれた剃刀に手を添え、剃髪の儀が行われました。午前六時十五分、御遷化の一時間三十五分前のことであります。

 その場にいた一同はもう涙、涙の中で唱題しながらの出来事でした。

 御住職は常々「生き恥かいても死に恥かくな。生きている間は口でいくらでも繕うことが出来るが、死んだ時には顔は隠せない。教務として、人間として、真っ直ぐ生きなければ、死んだときに後悔する」と言っておられたことが頭を過ぎました。

 それから私は、御住職の頭を左腕で抱きかかえながら御題目をお唱えしていました。

 ふっ、といざ臨終を迎えられる時、私は御住職に申し上げました。

 「御住職、さあいよいよ寂光参拝でございます。御住職は長松寺を守り抜かれました。そして先住を讃え尽くして、妙深寺を四五〇戸から宗徒一二〇〇戸まで御弘通されました。法深寺…大和別院を一から建立し寺号公称されました。そして、いま康仁を得度させたんです。堂々と開導聖人、日峰上人、日博上人にご報告して下さい」と語りかけました。

 いま考えても、何故このような事が言えたのか分かりません。そして、七時五十分、御遷化なされたのであります。

 実は、これらすべてはビデオと写真に納めてあります。

 ご信者さんであり日本看護婦協会の部長、瓜生ご夫妻や深恭師、妹のカッチおばちゃんが傍についてのことであり、家族だけでしたら、作り話とも思われるでしょうが、これらは実際に我々の目の前で起きた御住職の最後のお姿であり、最後の最後まで私たちに「佛立魂」を示して下さったと確信しております。

 そして、八時三十分まで私は病院にいたのですが、そのほんの三十分の間に御住職の顔はみるみる真っ白くなり、高祖大士が示された臨終の姿を目の当たりに感得させていただいたのであります。日焼けで出来た顔のシミまでが、みるみるうちに不思議と消えていきました。

 御遷化後は自坊の妙深寺へご遺体をお移し申し上げるべく、白衣、改良服にお召し替えいただきました。清康(康仁)師は、最初で最後のお給仕が病室でのお召し替えで、泣いておりました。
 いざ病室を出発と云うときには、主治医、看護婦の方々は、その世人とあまりに違う臨終の姿に一同が驚き、御住職が病院を出られるときには廊下に整列し、掃除のおばさんまでが手を合わせて泣いて送って下さったのであります。

 まさに、御住職が言っておられたとおり、見事な臨終、佛立教務の最期の姿でありました。

 誰もが、真っ白で、寝ているかのように穏やかで美しいお顔であると、言って下されたのです。

 御法門で「化導を終え、寂光へ向かわれる」と教えていただきますが、御住職の一生を振り返りますと当に精一杯、頑ななまでに本門佛立宗を愛し、ご信者を愛し、御弘通第一で歩まれたなぁ、と感得しています。

 最後の最後まで、我々に佛立教務道を貫くこと、末法の御弘通の大変さを教えて行かれたように思われてなりませんでした。

 六十二歳という若さではありますが、その臨終から拝察致しますと、御住職は大変な果報の中で過ごされたように思えるのであります。

 長松寺を護り通した日峰上人、ゼロからの御弘通を教えてくだされた日博上人、師僧であられる日颯上人、近代弘通を常に考えておられた日晨上人、日地上人といろんな方々の出会いを見てもうらやましい限りであります。

 本日、この本葬儀にも大勢の方のご参集を賜り、本当に有り難い限りであります。

 御住職は最後まで、不肖の愚息である私に、常に自分の身体を使って、正法護持と法城護持の大切さ、御弘通ご奉公の困難なること、大変さを教えて下さいました。

 正法弘通の佛立を愛し、本山を愛し、長松寺を愛し、妙深寺を愛し、法深寺を愛して、一生を送られたご住職、そんなご住職のお徳を汚すことなく精進させていただくことが大事であると思っております。

 どうか今までにも増して皆様方のご厚情にすがり、叱咤激励下されますように、またご指導ご鞭撻下さいますように御願い申し上げます。

 甚だ略儀でありますが、本日の御礼の挨拶とさせて頂きます。

(平成12年8月妙深寺報より)

ネパール大地震災害復興支援チームから

ネパール支援一本化を受けて

 ありがとうございます。

 すでに当山住職のブログに掲載の通り、妙深寺のネパール支援と、本門佛立宗全体の支援活動が、一体となって進められることになりました。

 遅ればせながら、関係各位には伏して御礼を申し上げます。向後の一層重い責任に身がふるえるばかりですが、ご法さまにすがりながら、力の限りを尽くす所存です。

 現地では自国ネパールはもちろんのこと、隣国のインド・中国、アメリカ、日本などさまざまな政府系機関や有力なNPOが力を合わせて支援を進めておられる一方で、地震によって日常を失い、強い恐怖と喪失感のもと、不便な生活を強いられている方々、子どもたちがおられ、それらの方々は5月12日に再び起きたM7.4の大地震以降、絶え間ない不安とストレスにさらされていると、現地で活動中の「プラン」というNPOのマティアス・ブラインソン現地事務所長は報告を出されています。
 
 苦しんでいる人たちがいる。何とかもとの日常に近い状況に戻りつつある人々もいる一方で、その苦しみにあらがうすべを持たない人たちがいる。そこに私たちは何を届けられるか。最大限の心遣いのもと、出会える方一人一人に寄り添って、苦しみを拾っていく。私たちの力はむろん、限られたものですが、せめてそんな支援をおこなわせていただきたい、そのように想っております。

 どうか、私たちの無事ご奉公成就を、共に祈っていただけないでしょうか。皆様のご支援がむだにならないよう、必ず、精一杯努めてまいります。どうぞ、宜しくお願い申し上げます。
 
 また、引き続き、支援金の勧募を行わせていただきます。振り込みの方は、以下の口座をご利用ください(宗門としては5月末までの勧募と相成ります。妙深寺といたしましてはようやく活動が本格化する6月も続けて勧募をお願いいたします)。
 
滋賀銀行 西陣支店 普通
口座名義 本門佛立宗宗務本庁
口座番号 099116
 
郵便振替 口座番号 00250-6-131490
加入者名 妙深寺
 ※郵便局で【郵便振替払込用紙】に「ネパール支援金」と明記し、
  ご依頼者名・住所をご記入の上、お手続きください。
 
 被災地では時間の経過、支援の進捗とともに、必要なものが目まぐるしく変わっていきます関係上、皆様のお志しは金銭にてお添えいただきますよう、何卒お願い申し上げます。

妙深寺ネパール大地震災害復興支援チーム 拝

2015年5月23日土曜日

「土器を捨てて宝器に替るが如くなるべし」

心臓に針を刺すような気持ちで、御講を勤めさせていただいたこと。

永遠に、忘れません。

彼女とはじめて会ったのは、2年前のことでした。

すい臓がんのステージ4。

手術が出来ない部位で、お医者さまからその年いっぱいの命と宣告されたとのこと。

自ら抗がん剤治療をしないと決断し、そんな時に、お会いしました。

あれから約2年。

本当にお元気に過ごしておられて、食欲もあり、またお会いすることが楽しみで。

2年間、濃厚な、濃密な時間でした。

今年の門祖会にお参りくださった時、病気が進行していることをお聞きし、腹水の溜まったお腹をさすり、いつものように抱き合って励まし合いながら、お別れしました。

5月5日、住職を迎えて教区御講の席主としてご奉公する。

病状の進行を考えると、それまで体力がもつのか、誰もが心配していました。

お助行にお伺いした時も、

「教区御講まで、生きていたい」

とお聞きしました。

そのような、想いを持たれた、教区御講です。

彼女の想いを受け止め、心臓に針を刺すように、その日を迎えました。

3時間ちかく、彼女は見事に席主としてのご奉公を果たし、家族全員の協力も得て、導師座の脇に座っていてくれました。

御法門終了後、30名を超えるお参詣の方々の前で、お礼とも、お懺悔とも、お別れのご挨拶とも受け止められる、涙なしではお聞きすることのできないお話をなさいました。

特に、それはご家族への、メッセージでもありました。

「世世恒聞法華経 恒修不退菩薩行」

「願わくば生々世々菩薩の道を行じ、無辺の衆生を度して永く退転なからんことをおもふものなり」

いきかはり死にかはりつゝ法華経に 仕へん人を菩薩とぞいふ」

数日前、お助行にお伺いしました。

手を握り、今生のお別れをいたしました。

寂光参拝について、お話をしました。

私が、祖父や祖母から教えていただいてきたこと、先住や、妙清師に、見せていただいたこと。

それらの現証を。

「近き現証を引て遠き信を取べし」法蓮抄

今朝、結びの言上の最中、本堂の導師座にて、彼女が寂光へと帰られたことを、聞きました。

ご宝前に、言上させていただきました。

同じく生命を得て、同じく死を迎える中で、彼女は、あるべきお手本を示されたと確信します。

「諸行無常 是生滅法」

「生滅滅已 寂滅為楽」

「土器を捨てて宝器に替るが如くなるべし」法蓮抄

これから、久しぶりに妙深寺へお参詣くださるのを、待ちます。

境内には、様々な色の紫陽花が咲いています。

今日は飛行機、明日は電車

今日は飛行機を使わせていただいて、明日は小倉駅から新幹線、京都駅でサンダーバードに乗り換えて敦賀、敦賀で北陸新幹線に乗り換えて長野へ向かう予定です。 小倉から京都は591キロで148分、京都から敦賀は94キロで52分、敦賀から長野は353キロで110分だそうです(乗換案内さんが教...