2015年11月29日日曜日

佛立教務の男泣き

力を振り絞って、書きます。

嬉しい男子信徒御講。

113名ー。

男子だけで、参詣目標を110%も上回るお参詣で、何と言葉を言っていいか、とにかく有難いの一言です。

気持ちが、詰まりまくっています。

なぜか、この数十年、男性はずっと女性の陰に隠れていたような気がしますが、妙深寺の男性信徒は「一途に生きる男の背中」と題して、すごい意気込みで、意気に応えて、頑張ってくれていました。

すごい勢いを感じて、未来が楽しみになりました。

ありがとうございます。

そして、先ほど、コレイア清行がネパールから帰国しました。

さらに、言葉になりません。

キスしました。

本当に、無事に帰国してくれて、ありがとう。

最前線に立つご弘通の戦士たちの帰還。

ありがとうございます。

彼は、旭の死を真近に受け止めて、苦しかっただろうに、頑張ってご弘通のミッションをやり遂げてきた。

まだまだ、続きます。

妙深寺の本堂で、旭の霊前に手を合わせ、清行はようやく男泣きしていました。

「男泣き」

まさに、「一途に生きる男の背中」です。

佛立教務の男泣き。

これからも、ご奉公に生きるということがどういうことなのか、まず教務から率先して、実行してゆきたいと思います。

ありがとうございます。

音楽のチカラ

100万人のクラッシックライブ@妙深寺。

たくさんの方々にお越しいただき、大盛況で終了いたしました。

本当に、ありがとうございました。

素晴らしい演奏をしてくださった望月さまと宮園さまには心から感謝です。

先住が思いをこめて建設された第二本堂は、その当初から演奏会も出来るように設計されたものでした。

ですから、完成直後から本堂の中にピアノが置かれていました。

建設から約25年、なかなか先住の思いを受け継いで、演奏会を開催することは出来ませんでしたが、今日ついに実現したということになります。

プロフェッショナルなヴァイオリニスト、ピアニストの方々から、やはり素晴らしい音響施設であると言っていただき、先住もお喜びになっておられると思います。

長野から駆け足で戻り、何とか間に合いました。

つくづく、音楽のチカラを感じました。

胸の内に、いろいろな思いがあったのだと思いますが、演奏していただいた一曲目で、自然と涙がこみ上げて、流れました。

本当に、すごいです。

クラッシックなんて、私のような者には縁遠いと思っていたのに、こんなに身近にしていただいて、その素晴らしさを体験させていただいて、本当に100万人のクラッシックライブに感謝です。

そして、アンコール。

なんと、アンコールの曲は、『見上げてごらん夜の星を』でした。

何も、何も、お伝えしていないのに、この曲を演奏いただけるなんて。

演奏前に曲名を聞いた時、思わず叫んでしまいました。

財団代表の蓑田さま、そして片岡さまが、ブログを読んでくださって、演奏者の望月さま、宮園さまにお願いしてくださったそうです。

止めどなく涙が溢れました。

会場中から、すすり泣く声が聞こえました。

その、あたたかいお心、お気持ちに、感謝しかありません。

旭くんも、きっと喜んでくれているに違いない。

みんなが、彼を思ってる。

昨日、宗会議場で、議員のみなさまにネパールで発生した事故についてご報告させていただきました。

議事終了後、お礼のお看経の際、ご講有が自ら旭くんのご回向をさせていただきたいと仰せくださり、急きょ本山のご宝前で、宗会議員全員で、旭くんのご回向をしていただくことができました。

本当に、大変なことですし、ありがたいことだと思っております。

今日、日曜日は、旭くんの二・七日忌にあたります。

本堂にお焼香の台を用意させていただきます。お参りの際には、お焼香、ご回向くださいますようお願いいたします。

感謝と、涙の、一日でした。

それにしても、一曲目で、自然に流れ落ちた涙。不思議。アンコールの『見上げてごらん夜の星を』には参りました。

音楽の力はすごいです。

蓑田さまをはじめ、みなさまに感謝(涙)。

本当に、ありがとうございます。

2015年11月28日土曜日

哀しみを乗り越えて


哀しみを乗り越えて、ヌワコット郡のサムンドラデヴィ村での支援活動を終えて、清行をはじめ、各国のボランティアのメンバーがカトマンズのホテルまで無事に戻ってきたと連絡がありました。

学校の校舎の完成には、あと一歩ということですが、これからも継続します。

無事の帰国を心から願い、待っています。

今夜は妙深寺で100万人のクラッシックライブ


いま、長野に向かっていますが、今夜はいよいよ横浜・妙深寺で初めて開催する100万人のクラッシックライブです。

近隣の音楽教室などにもチラシをお配りしましたが、何よりもクラッシックにあまり馴染みのない方々にお越しいただきたいと思っています。

クラッシックライブの後は恒例のボーズバーも開店いたします。

一人でも多くのご参加をお待ちしております。

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明日、28日(土)は、妙深寺オープンデーです。

今回は『100万人のクラシックライブ』を開催!

普段着で気軽にクラシック音楽に親しんで欲しい!と、一流の若手音楽家の方々が、企画運営されているイベントが妙深寺にやって来ます!

16時30分、開場、
17時00分、開演!
音響の良い、妙深寺第二本堂にて、行われます!

参加費、¥1000.

お気軽にご来場ください!

横浜市神奈川区三ツ沢上町22-1
☎︎045(321)7682

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また、
18時からは、恒例の【ボーズバーLotus】がオープン!

こちらは、別棟の教養会館ガラスの間にて。
ワンプレート&3ドリンクまで、会費¥1000.です。

どなた様もお気軽にお越しください!
お坊さんがホストとなって、お待ちいたしております!

在籍お坊さんは、
1、長松清潤(ご住職)
2、阿部信仰(しんごう)
3、岩沢清従(せいじゅう)
4、清水清康(せいこう)
5、兼子清顕(せいけん)
6、有馬清朋(せいほう)
7、橋本恒潤(こうじゅん)
8、清水法光(ほうこう)
9、北崎立耕(りゅうこう)
10、コレイア清行(せいぎょう)

(在籍なんて、初めて公開ですね!よろしくお願いいたします!)

2015年11月26日木曜日

この扉を押し続けなければ


今夜、英介さんのお通夜が執り行われます。

京都佛立ミュージアムの理事会、明日は宗会があり、参列できないことを心から申し訳なく思います。

伊藤忠商事の二階、ジャパン・スポーツチャンネル、SPORTS-I ESPN、スポーツアイネットワーク。

英介さんの訃報に接し、言葉を失いました。

悲しいことが続きます。

誰からも愛される、かっこいい、すてきな方でした。

透きとおるような、無邪気な笑顔が浮かびます。

ずいぶん前に、電話でお話したのが最後になってしまいました。

残された者として、またみんなで再会して、語りあっておきたいと思いました。

宮沢賢治さんの『農民芸術概論綱要』を、読み返していました。

「まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう。
(中略)
巨きな人生劇場は時間の軸を移動して不滅の四次の芸術をなす。
おお朋だちよ 君は行くべく やがてはすべて行くであらう。
(中略)
われらに要るものは銀河を包む透明な意志 巨きな力と熱である。
われらの前途は輝きながら嶮峻である。
嶮峻のその度ごとに四次芸術は巨大と深さとを加へる。
詩人は苦痛をも享楽する。
永久の未完成これ完成である。 」

ネパールは、マチュピチュが数百個あるような国なのですね。

飛行機から下を見ると分かります。

ヒマラヤは、本当に、頭が下がるほど、威厳がある。

ネパールでは、4000メートル以下の山を「ヒル(丘)」と呼び、4000メートル以上の山を「マウンテン(山)」と呼ぶのだそうです。

そうなると、富士山は「ヒル(丘)」になってしまいます(汗)。

遠くに、雲のように見えるヒマラヤ。

あの山を望む頂で、旭が亡くなったことを、思い返して、思い返して、思い返しています。

もちろん、前を向かなければならないけれど。

前を向くけれど。

この扉を、押し続けなければならない。

その扉は、人類の、意識的次元上昇へと続く扉です。

少なくとも、その扉を押し続けることが、私たち佛立仏教徒の使命であるのだから。

今日も、きっと明日も、押し続けます。

2015年11月25日水曜日

小原旭 告別式 歎読

小原旭 告別式 歎読

 法華経常住一切三宝諸仏諸尊、茲に来臨し給い、一切の障礙を払い、哀愍救護を垂れ、即是道場にして知見照覧なさしめ給え。

謹んで蓮師相伝秘要の対境、本地本法本門法華経の御本尊の御前にて、恭しく壇を設け、礼をもって謹んで営み奉る処の告別式、法要の一座。

去る平成二十七年十一月十六日、仏陀 釈迦牟尼世尊御生誕の地、ネパール国の大地震支援活動、ご弘通ご奉公の最中(さなか)、此の娑婆を忍土の一期と定め、二十有六才の若きを以て寂光の本宮に赴(おもむ)く一霊。

本門佛立宗 清光山 妙深寺 所属信徒、通称、小原(おばら) 旭(あきら)。

霊や無始已来謗法罪障消滅 出離生死証大菩提。

 此処に故人生前の行軌を回顧せん。

 通称、小原 旭。父に青森青松寺 小原信(しん)盛(じょう)御住職、母に旭川寺(あさひかわでら)の強信の家庭にて薫育を受けたる智美女をいただき、また祖父には仙台妙法寺をはじめ三か寺の御住職たる小原日諭御導師と、まさに御法の為に身を捧ぐ佛立の一家、小原家の長男として、平成二年一月三日、その生を受く。 

当時、小原信盛師は盛岡広宣寺の八戸(はちのへ)別院の担当としてご奉公され、奇(く)しくも一月三日、広宣寺初総講の日に、母の実家、旭川にて誕生す。以来、一家が一月三日に広宣寺の初総講に参詣するや、決まって御総講の後、夜には誕生日会を開いていただきたりと聞く。

旭川の「旭(あさひ)」と、高祖立教開宗の地、旭ヶ森の「旭(あさひ)」よりいただき「旭(あきら)」と命名されたる。

 元来、体が弱く病弱なれども、年子で一つ違いの妹、芳(かおり)女と兄妹仲良く支え合い、八戸別院にてご信者方の愛情を一身に受けて養育せられたる。やがて誕生せし次女の富(さかえ)女、二人の兄として常に優しく温かく接し、一家は佛立信心を柱として、楽しく、和やかなる時を過ごしたる。

 八才の時、父、信盛師の文能昇進・叙任式あり。団参と共に一家は本山宥清寺へ参詣し、京都や大原に足を運び、夜は親戚、従兄弟と共に歌を歌い、楽しき思い出、最上の時を過ごせしと聞く。

 小学校ではサッカーや野球の部活に入り、また書道を習い、この頃より英語を学び始めたる。

お寺の中でお仏飯のお下がりを頂き、また祖父や父の姿を見て育ち、小学校の卒業アルバムには「十年後の自分は、得度して、立正大学に通っている」と、妙法弘通の使命感を既に帯び、中学一年の幼きより親元を離れ、祖父 日諭導師の元、青森青松寺に寄宿し、新しい環境で一人、勉強や部活をしながらご奉公。

懸命に学生生活を送る中、平成十五年の夏、まだ中学二年生の少年は、同じく青松寺に寄宿せし野本信生師と共に、佛立教務の道を志し得度されたる。

さりとて、未だあどけなさの残る少年の身の上に、教務としての重責は想像し難く、心身の疲労の末、身に病を覚えし故に、親元の八戸に戻り、高校三年間は一家と共に過ごしたる。

幼少期より英語を得意とされし故人は、更にその才能に磨きをかけんと、高校卒業後は親元を再び離れ、日本外語専門学校に学び、英検二級を取得。さらに準一級を目指して勉学に勤(いそ)しみ、やがてイギリス、ロンドンに半年間留学。ホームステイ先で親切なる家族に恵まれ、異国の文化にも触れ、人として学ぶこと多く、人生観が変わり、大いなる成長を遂げられたる。

留学前、故人はインターネットを通じ、妙深寺の「ボーズバー」に心惹かれ、「どうしても横浜のお寺に行ってみたい」と両親に告げ、すぐさま行動に移す。月に一度開催のこのボーズバーにて、私と貴方が初めて出会いたることも、昨日の如くにおぼおゆる。

この時よりの短き間なれども、貴方は誰にも語れぬ自らの心の内に秘めし悩みを私に打ち明け、我が顔を見るや、ポロポロと涙を落とす。その姿、真に忘れがたし。

二年前、我が勧めにより、教務としてのご奉公を離れ、病(やまい)克服の為、一人妙深寺の近くに転居す。共に交換日記を付け、共に病院へ通い、一進一退の中、様々に語らい、御題目を唱え重ね、業と闘い、必死で苦しみの山を乗り越えんともがきたる。

妙深寺での新たな出会い、信者方との縁も深めゆき、中でも第二の母とも覚えし黒崎とし子女を慕い、何でも心を開きて相談し、参詣やご奉公は言うに及ばず、妙深寺農園での作業や、塔婆の浄書のご奉公などを通して、人間学を教わる。

かくて、故人の病は、御宝前よりお計らいをいただき、速やかに回復の兆しを見せ、医師より「これ以上の治療も薬も不要」との言葉に、私と手を取り、抱き合いながら喜びしこと、生涯忘れがたし。

やがて故人は、人の為に生きる志を旨に、介護の仕事に従事せる。

一昨年の十一月には、フィリピンの巨大台風災害の支援活動に参加。あらゆるしがらみや葛藤、病気を乗り越え、かつて夢に描きたる海外弘通の最前線についに立ちなん。

またこれまでに幾たびか、東日本大震災被災地、陸前高田、大船渡の支援活動に加わり、昨年二月はインドに赴き、デリーに於ける教化ミーティングをはじめ、釈尊成道の地・ブッダガヤ、法華経説法の地・ラージギル・霊鷲山にてご奉公。妙深寺インド親会場建設の地、霊鷲山にほど近きバライニ村にて、貧しき子どもらに文房具などのプレゼントを手渡したる。

そしてこの度のネパール大地震支援活動。人を寄せ付けぬかの如き山地険しき環境にたたずむサムンドラデヴィ村。地震により崩壊せし学校の校舎建設がため、過酷なご奉公に身を投ず。星空の元、同行の教講や現地のスタッフと火を囲み、それぞれに自らの紹介と、この活動にかける意気込みを語られる中、故人は自ら英語で、「自分は生まれ変わる為にここに来た」と口にせる。

明くる十一月十六日の朝、八時からのお看経を前に、「自分は先にお看経をしてもいいですか?」と、皆より三十分早く、トタン屋根の仮設校舎に懐中御本尊をお掛けして口唱を始むるや、それを見ていた学校の子供らが、周りを囲むように座り、共に御題目を唱題せん。その美しき姿、言葉すら通じぬ如何なる地に於いても、上行所伝の御題目を人に勧め、唱えさせんとす、菩薩ならん。

午前の作業に取りかかり、昼を前にする頃、資材を積んだトラックが坂道を上(のぼ)ること能(あた)わざりしに、学校の完成を待てる子ども等の為に、皆で懸命に引き上げ、押し上げんと力を入れた刹那。俄(にわか)に前に進みし車に、故人が挟まれたる。骨折の疑いありと、悪路を急ぎ車で病院に向かう。痛みの中にありても、その叫びを「南無妙法蓮華経」の声へと換え、命のかよわん際(きわ)まで、唱えて唱え尽くせり。

故人はこの支援活動前に百本祈願を志し、出国前に八十三本を数えたる。今思えば最期の最期、その人生の際(きわ)に満願を果たせるかな。

車中で容態が急変し、人工呼吸、心臓マッサージを受くるも虚しく、再び目覚めること能わず。かの村より悪路三時間の道のりを乗り越え、ようやく病院に着きし時、その同時同刻に、向かいの方(かた)より、図らずも清潤も日本より到着したり。この広き世界で、一分も違えず、共に海外弘通を夢見、約束した清潤と、かようなる形にて相まみえる。それは恰(あたか)も故人を引き取りに、迎えに行かんが為に遣わされし如くなり。

不思議なるかな、誰にも迷惑を掛けぬようにと、自らの死期(しき)を知るかのように、自らの部屋の掃除を済ませてネパールへ旅立つ。

故人が記せし最期の手帳には、
「御宝前様よ。本当にこの世にいて、俺に道を下さるなら、なるべく、いや早く俺を死なせて下さい。そして、来世は“今世の張良”と言われるくらいの英傑、東郷重位(ちゅうい)にも負けないくらいの武人、強さを持つ、織田信長公や初代ウェリントン公、ナポレオン、児玉・大山大将、西郷隆盛、ランヌ・シャープくらい、知略、人徳、武威、人格、優れていて、上に立つ、素晴らしい人間に生まれ変わらせてください。」
と残したる。

 故人、帰寂の日より数えて四十九日目が一月三日の誕生日とは、この定業能転の筋道、御法さまより他に誰にか描けたる。御宝前のご采配、凡慮の及ばぬ現証。かくも早く、自らの望みを叶えし、小原 旭(あきら)、その名、その人間の記憶は、未来永劫、ご弘通の歴史に刻まれたり。

故人は辺境の地で貧しく苦しむ人を助け、自らを顧みず、不惜身命、御弘通の為に命を捧げたる、これ「法華経を身に読む者」「真実の出家」「佛立教務」なり。

高祖日蓮大菩薩、龍ノ口御法難を振り返りお認めの御妙判に、

「今夜頸切れへまかるなり。この数年が間願ひつる事これなり。此娑婆世界にしてきじ(雉)となりし時は、たか(鷹)につかまれ、ねずみ(鼠)となりし時は、ねこにくらわれき。或はめ(妻)に、こ(子)に、かたきに身を失ひし事、大地微塵より多し。法華経の御ためには一度だも失ふことなし。されば日蓮貧道の身と生れて父母の孝養心にたらず、国の恩を報ずべき力なし。今度頸を法華経に奉りて其功徳を父母に回向せん。其あまりは弟子檀那等にはぶく(配当)べしと申せし事これなり 云々」

帰寂の後、祖父と母、妹二人がネパールに到着し、唱題の中、対面を果たすや大地が大きく振動す。家族がかの村に行けば、それまで曇りし周囲が一変に晴れ渡り、仏陀釈尊誕生の地、遥か向こうの天空に、真っ白な雪を湛えたヒマラヤが、見事な威容を表したる。かくて帰国直後の二十二日早朝八時二十分には空港近くを震源にして同じく大地が鳴動す。果たしてこれらは現証より他になにかあらん。

我ら妙深寺教講一同、その短くも尊き一生、命に謝し奉り、一層の異体同心、御弘通御奉公、常精進、一天四海皆帰妙法の祖願達成に向け邁進(まいしん)する事を誓うものなり。

今その功徳を鑑み、後信の範たらんことを顕彰せしめんが為、法号を授与して、
本地院信昇日旭信士
と号す。

願わくはこの哀愍の歎徳を受け、寂光の本宮に安からしめんことを。かつ生々世々、生まれ変わり、死に変わり、行菩薩道の誓願に任せて、師と、弟子と、生を共に相まみえ浄佛国土の大願成就に精進せんことを請い願うのみ。

妙法蓮華経とは、上は悲想の雲の上、下は奈落の炎の底までも、皆この光明に照らされて、一切の群生、諸々の苦患を逃るるものなり。

経に曰く「毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身」「於我滅度後 応受持此経 是人於仏道 決定無有疑」。

高祖曰く「日蓮は日本第一の法華経の行者なり。日蓮が弟子旦那等の中に、日蓮より後に来たり給ひ候らはゞ、梵天、帝釈、四大天王、閻魔法皇の御前にても、日本第一の法華経の行者、日蓮坊が弟子旦那なりと名乗って通り給ふべし。此の法華経は三途の河にては船となり、死出の山にては大白牛車となり、冥土にては燈となり、霊山へ参る橋なり。霊山へましまして艮の廊にて尋させ給へ。必ず待ち奉るべく候」と大慈大悲大恩報謝。

納種在識 永劫不失 名字信行 即身成仏。

右、喪主、妙深寺 今般寺葬に準じて執行す。

仰ぎ願わくは、妙深寺ご弘通隆昌発展、宗門興隆、ネパール大地震支援活動  完遂、当山所属教講、小原家並びに家内、一門の面々、只今参詣、参列の面々、謗法・罪障消滅、定業能転、信行増進、ご奉公成就、現世心中諸願決定成就円満一切無障礙。

惟時 平成二十七年十一月二十四日
本門佛立宗 妙深寺 第四世住職 清潤、旭、棺中の霊位を敬って曰す。

小原旭 通夜 歎読

小原旭 通夜 歎読

平成二十七年十一月十六日、仏陀釈尊生誕の地、ネパール大地震の支援活動中、不慮の事故によりて此の娑婆を忍土の一期と定め二十有六才の若きを以て寂光の本宮に還帰せる一霊。

通称、小原 旭(あきら)

ここに謹んで言上いたします。

この数ヶ月、死の予感がしていました。

「死ぬなよ、殺すなよ」と自分にも、ご奉公している者にも言い聞かせていましたが、自分ではなく、自分を慕ってついてきてくれた青年を、先に、死なせてしまいました。

お懺悔いたします。本当に、申し訳ありません。

僕たちは最前線に立つ弘通の戦士だと話をしてきました。広宣流布、一天四海皆帰妙法を心底願い、その最前線に立とうと語り合ってきました。ここにこそ、命を賭ける価値があると、皆に話をしてきました。

小原旭くんは、仙台妙法寺 気仙沼清護寺の小原日諭御導師の孫、青森青松寺の小原信盛御住職のご子息。これまで特別の親交はありませんでしたが、彼は妙深寺の寺報やブログに感激してくれて、突然私を訪ねてきてくれました。

高祖立教開宗七五〇年の時、十三才だった旭くんは現在大本寺乗泉寺で活躍している野本信生師と共に、まるで神童として得度をしました。彼らのことは当時佛立新聞などで大々的に伝えられ、私もうっすらと記憶していました。しかし、旭くんは小学生や中学生の頃の嫌な思い出や、プライド、劣等感などに苦しみ、統合失調症と診断され、強い抗精神薬を飲み、この時はすでに教務の道をあきらめていました。いや、むしろ、いろいろなことから逃れたいと、周囲を憎み、恨んでいました。

たぶん、2度目、妙深寺の本堂の奥にあるお控えの間で彼に会いました。

長い間、病気で苦しんできたこと。強い薬を飲まなければならない生活を続けているということ。しかし、得意な英語を学ぶために、ロンドンに行って勉強したいと話してくれました。そして、いつか、僕と一緒に、海外でご奉公をさせていただきたいと、言ってくれていました。

あの時、「あなたの目を見ると、何故だか泣けてくる。涙が出て仕方ないんです。」といって、あの部屋で、ポロポロ、ポロポロと、涙を流して、泣いていました。その姿が今でも忘れられません。

病のこともあり、ロンドンでの留学生活をとても心配していましたが、それはホームステイ先にも話してあるとのことでした。そして、彼は半年間のイギリス留学を終えて、帰国しました。

帰国してすぐお土産を持って報告に来てくれました。ロンドンでも、とても苦しかったと言っていました。しかし、彼は頑張り屋でもありますから、やり遂げてきたのだと思います。

その後も、一進一退の病と闘いながら、彼は彼として、自分が背負っている運命を乗り越えようと、もがいていました。

「けれども、けれども」は、旭の口癖でした。たくさん、たくさん、話をしました。

旭くんは、まるで早い別れを知っていたかのように、いつもどこか憂いを抱えていて、ため息をつくのが癖でした。何度も何度も、ため息をつかないように言っても、「はい。はぁ〜」とため息をつく。しっかり生きようとする気持ちと、それを躊躇させる何かが、心の中にありました。そして、それと戦っているのが分かりました。その姿、そんな旭くんとのやりとりが、いま瞼の奥に浮かんで仕方がありません。

絡まっていた糸を解くために、小原御導師や小原御住職、お母さま、ご家族にもお力をいただきました。教務として籍を置いていることが、現実教務としてのご奉公が出来ていない彼にとって耐え難いものとなっていました。心身が健康になり、再び自分の意志で佛立教務道に入りたいと思えるその日まで、還俗させていただきたいとお願いしました。本当に、ご宝前にも、皆さまにも、申し訳ないことでしたが、旭くんがもう一度人生のスタートラインに立つために欠かせない、大切なことだったと思っています。

遠くにいるよりも、いつも目の届く場所で、親切な病院もあり、ご信者さんも近くにいる環境に来れば、少しでも病気が良くなると、引っ越しを勧めました。

妙深寺の近くにアパートを借りて、新しい生活が始まりました。

旭くんと僕の交換日記は、その頃に始めました。旭くんの心の中にわき起こる気持ちを紙に書いて、一緒に確認していこう、整理してゆこう、と始めたのでした。彼が亡くなってから分かりましたが、彼は気持ちを書き綴るということを、死の直前まで続けていました。

妙深寺に来て、黒崎とし子さんと出会い、第二の母のように心を開き、何から何まで相談し、教えていただいていました。お参詣やご奉公はもとより、共に農園で作業したり、お塔婆の浄書係をしたり、とし子さんの存在は、彼にとってかけがえの無いものとなってゆきました。

あれだけ強い薬を飲んでいた病気も、みるみる良くなってゆきました。妙深寺の、たくさんの方々に囲まれて、見守られ、触れあいながら、旭くんの新しい人生が始まろうとしていました。

お医者さまから「もう治療はいらない。終診にしましょう。薬も必要ないでしょう」と言われた時、手を取り、抱き合って喜んだことが忘れられません。

出会った時の状態からすれば考えられないことでしたが、その後介護施設に就職し、仕事も出来るようになりました。無理をしてはいけないと、会う度に声を掛けていましたが、仕事にも、お参詣にも、ご奉公にも、精一杯頑張っていました。

そして、旭くんは彼が最初に望んだとおり、語学力を活かして、海外弘通の現場に立ってゆきました。

2012年9月。イギリスに半年間留学し、帰国しました。

2013年11月、フィリピンの巨大台風災害にあたり、妙深寺の兼子清顕師、堤清信師とともに、この支援活動に参加しました。彼は、様々な葛藤、自分が抱えてきた病気を乗り越えて、ついに海外弘通の最前線に立ったのでした。

2014年2月、旭くんは有馬清朋師とともにインドを訪れました。デリーでの教化ミーティング、釈尊成道の地・ブッダガヤ、法華経説法の地・ラージギルでも、霊鷲山でも、ご奉公をしてくれました。妙深寺が親会場を建設しているバライニ村で、貧しい子どもたちにプレゼントを手渡す旭くんの姿が忘れられないと、泣きながらインド人信徒のシェーカーが話してくれました。

そして、今回。3回目となるネパール大地震の支援活動に、彼は参加してくれました。実はこの夏前から体調を崩し、また苦しんでいました。一進一退の病は、彼を簡単に闇の中に戻してしまいました。このまま仕事が続けられるか、次にどのような道を歩めばいいか、旭くんは悩んでいました。

8月、宗門の支援金をお預かりしたネパールへの支援活動が始まり、帰国後、チーフの清水清康師が涙ながらに活動報告をしました。旭くんはこれを聞いて感激し、まさに、彼は、生まれ変わるために、自ら志願してネパールへ向かうことを決意しました。この支援活動には、同じく報告を聞いて感激してくださった方々が自費で参加を願い出てくださいました。旭くんの第二の母・黒崎とし子さん、シェーカーをお教化に導いた野崎隆雄さん、年の近い法深寺の石田哲也くん。みなさんと共に、彼はネパールに向かいました。

たくさんの時間を過ごしてきましたが、今回が、旭くんと僕の、一緒に出る、最初の海外弘通の現場でした。彼も特別に思っていただろうし、僕も特別に思っていました。しかし、僕がネパールに着いて、最初にしたご奉公は、旭くんの死を看取ることでした。

当初、空港に到着すると現地でお教化になったディペッシュくんが「小原くんがトラックに挟まれて、足を骨折しました。その関係で迎えの車を変更しています。」と言っていました。聞いてみると、「骨が折れているか、クラック(ひび)が入ったかもしれません」と言っていたので、大事に至らなければと、少し安心していました。

当初の予定を変更し、空港から村に向かわず、そのままカトマンズで旭くんが向かう病院で合流しようと待っていました。すると唐突に連絡が入り、シリアスな状況であると言われました。

電波の状況が悪く、なかなかつながらない中で、そのようなことでした。

慌ててディペッシュくんのお父さんが車を出してくれることになり、病院に向かいました。ネパールの、雑然とする道を走り抜け、遠くに病院のような建物が見えて、その入り口まで来ると、反対の側から大きなランドクルーザーが門に入るところでした。黒煙を吐いて、とても慌てて運転しているのが分かりました。

そして、その車の中で、心臓マッサージをしているような様子が見えました。驚いて、「おい!心臓マッサージをしてんるじゃないか?なぜだ!」と叫び、救急の入り口の前に止まった車まで走り、ぐったりした旭くんを抱きかかえて、タンカの上に下ろしました。この時、もう体に力無く、呼吸がありませんでした。

支援物資を積んだトラックが村の手前の坂で止まり、そのトラックを引き上げようとしていたそうです。それまでは土嚢を詰める安全な作業だったのですが、そこに駆けつけて、ロープを持ちました。トラックを上げるために、引く者と、押す者とで、頑張っていたそうです。そうしていると、トラックが勢いよく坂を上がり、二番目にいた小原くんが倒れて、左の後ろのタイヤの下に巻き込まれてしまったとのことでした。

事故の直後は意識もはっきりしていて、受け答え出来ていたそうですが、車の中で容態が急変してゆきました。

国も、国連も立ち入らない僻地、サムンドラデヴィからカトマンズの病院までは、長く、険しい道のりです。清顕師、とし子さん、イギリス人信徒のジェシー、インド人信徒のシェーカーが、旭くんに同乗してくれていました。

とし子さんに抱きかかえられながら、「痛い!」という言葉を御題目に変えて、旭くんは死の瞬間まで、「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と、唱え続けていたそうです。息が途絶え始めたのを見て、ジェシーが必死に人工呼吸をしてくれていました。体が浮くほどの悪路。ジェシーの口の中は彼の歯に当たり、傷ついていました。

とし子さんとシェーカーが両手を握りしめ、ジェシーが必死に人工呼吸や心臓マッサージをし、全員で御題目を唱える中、旭くんは息を引き取りました。その場所は、ヒマラヤの見える美しい頂の上でした。

小原旭くんは、とても美しい顔で、眠っているようでした。警察が遺体の写真を撮りたいということで、私も立ち会い、彼の全身を見ましたが、身体の傷も、右側の腰に、赤くなったすり傷、左のももにすり傷があるだけで、事故で亡くなったとは思えない、あまりにもきれいな体でした。

何時間遅れても不思議ではないネパールで、僻地から搬送されてきた旭くんの車と、カトマンズ市内から向かった私の車が、病院の門前で出会うなど想像もつかない確率です。しかし、そうなりました。本当に、この出来事は凡慮の及ばぬことなのだと、痛感しています。

東日本大震災の支援活動、陸前高田、大船渡、フィリピンへの支援活動、インド、デリー、ラージギル、ネパール大地震の支援活動など、振り返ると、彼が夢見ていたとおり、旭くんは国内外のご弘通の最前線で、ご奉公してくれました。

彼は、私の大切な戦友でした。かけがえのない戦友でした。

Buddhists sans frontiers.

物好き、目立ちたがり屋、スタンドプレーと言われても、純粋に全世界への広宣流布、一天四海皆帰妙法を願い、機会を得てその最前線に立ち、その使命を果たしたいと生きてきました。その尊い使命の前には、平穏で豊かな暮らしも霞み、色褪せてしまうのです。

法華経本門の菩薩行、国内外の被災地におけるひたむきなボランティア、下種結縁のご奉公は、私たちに何度もご弘通の真の意味を教え、たとえどんな苦難が待っていようとも、その先頭に立ち続ける覚悟でした。

しかし、そうしたご奉公の中で、私を慕ってくれていた青年を死なせてしまったことは、痛恨の極みです。すべて私の責任であると思っています。私は死を覚悟していたけれど、旭くんを先に逝かせてしまいました。本当に、申し訳なく思っています。

ネパールに来てからも、旭くんは一人ボーッとすることがあったそうです。しかし、事故の前夜、作業が終わり火を囲んで話をしていた時、海外のボランティアから「誰か日本の曲を歌ってくれ」と言われ、みんなが躊躇していたのに、旭くんが手を上げて、ギターを手にしました。彼は弾けないギターを手にしながら、どこで覚えたのか分かりませんが、名曲「見上げてごらん夜の星を」と「島唄」を、大きな声で歌ってくれたのだと聞きました。ネパールで走り廻っていた時から、頭の中で彼が歌っていたという「見上げてごらん夜の星を」のメロディが、静かに流れています。

翌朝、8時からのお看経となっていましたが、7時半に清顕師のところに来て、「先にお看経をしていいでしょうか」と言ったので「もちろん、そうしてください」と言うと、小さな教室に入り、一人でお看経を始めたそうです。すると、校庭にいた子どもたちが集まってきて、小原くんと一緒に御題目を唱え始めました。その模様があまりにも美しかったので、スタッフがビデオに撮って遺してくれました。

そして、お昼前、事故が起きてしまいました。

彼は、生まれ変わるために、ネパールに来たのだと言っていました。苦しく、つらかった過去を振り返り、このご奉公で、それを乗り越え、生まれ変わりたいと言っていたのです。その思いは、溢れるほどノートに刻まれています。

百本祈願をし、83本目でネパールに入り、きっと車の中の最後のお看経が、百本目ではないかと思います。本当に、教えのとおりです。

小原御導師、お母さま、二人の妹さんがネパールまで迎えに来てくださり、最初に旭くんのご遺体と面会し御題目をお唱えしている時、地震が起こりました。私たちは感じませんでしたが、マグニチュード5.3、ネパールと中国の国境付近はかなり揺れたそうです。枕経に同席してくださっていた日本大使館の方に何度も連絡が入っていました。六種震動、これらも、彼からのメッセージの一つと感得しています。

彼は、11月16日に帰寂しました。数えてみると、49日目は1月3日、彼の誕生日です。一年365日ある中で、この日を選び、彼は旅立ちました。全く、凡夫の考えの及ばぬところです。本当に、彼は今生の生を全うし、生まれ変わるのだと確信いたします。

この数日間、ヒマラヤは深い霞に隠れて見えなかったと聞きました。しかし、私たちが事故のあった村を訪れた日、遥か向こうの天空に、真っ白な雪を湛えたヒマラヤが、見事な威容を見せていました。村の人たちは口々に旭くんの死を悼み、長老の一人であるミルキーババは泣き続けていました。

サムンドラデヴィの教師が、代表して旭くんに追悼の詩を読んでくれました。

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「小原旭氏へ捧げる詩」

この世界を旅立った友よ 

予期せぬ 早すぎる死による痛みは 時だけが解決するだろう 

言葉にできない 我々の心境を 言葉にはできない 

しかし 仏陀の下でのあなたの任務は 永遠に刻まれる 

そして その素晴らしき貢献は 我々の記憶の中に 留まり続ける

死はどうすることもできない

はかりしれないほどの悲しみを胸に あなたを悼み あなたに敬礼をして あなたを尊敬し続ける 永遠に

あなたはここにはいない しかし あなたの魂は我々とともにある 永遠に

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「心からの哀悼」

恐怖に満ちたネパール大地震の後、身体的に復興支援に力を注ぎ、私たちネパール人へ素晴らしき支援をしてくださった小原旭氏のヌワコットでの早すぎる死にお悔やみを申し上げます。

今、私たちは二度と起こるべきではない今回の事故に対して大変ショックを受けています。

私たちは小原氏が再び生まれかわるように仏様に祈り、小原氏の霊魂、遺族、友人、仲間たちが抱える心痛に力を与え、そして、小原氏の霊魂が寂光で安らかに眠りますように祈願致します。

サムンドラ・ハイヤー・セカンダリー・スクール・ヌワコット
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仏陀生誕の地、ネパール。

この支援活動に、佛立仏教徒としての使命を強く感じてきました。ネパールでの開教ご奉公は、最も早くネパールに入ったコレイア清行をはじめ、日本、スリランカ、インド、ブラジルなど、各国から参集した佛立教講によって進められてきました。

長松清潤、清水清康、兼子清顕、有馬清朋、ディリーパ良潤、橋本恒潤、北崎立耕、清水法光、コレイア清行、野崎隆雄、黒崎とし子、小原旭、石田哲也、シェーカー・クマール、アサンカ・プラディープ、ルーパス・ロドリゴ。総勢十六名、三度にわたる支援ご奉公。

海外弘通という海外旅行ではなく、海外弘通というならば海外弘通でなければならない。ご弘通の最前線には危険がつきもので、何が起こるか予想もつきません。語り尽くした覚悟の上の参加とはいえ、ご奉公の責任者として旭の死について責任を痛感し、旭の死の意味を、まっすぐに受け止めています。

ネパールは、私たちにとってさらなる特別の国、特別の場所となりました。この地で戦友が死にました。この地で、私たちの目の前で、彼を見送りました。

旭くんの訃報を聞き、コレイア御導師がメールをくださいました。

「いかなる形にせよ、いつかわれわれの順番が来る。この確信があることは一つの慰めです。先に旅立たれた青年に、先立たれたので、謝るとともに、ありがとうと伝えたいのです。あなたの死は決して無駄にいたりませんと。いくら死んでも、生まれ変わっても、そのようなご奉公を続けさせていただきますと、言いたいです。」

「しかし、それでも生き続けることこそが、勝負です。先立たれたその方のためにも、また立てた誓いを破らないためにも、譲りません。負けません。」

全く、そのとおりだと思います。涙が出て、止まらなくなりました。そして、これからも、前を向いて、この扉を押し続けなければ、旭に申し訳ないと、さらに強い確信と覚悟を抱いています。

すでに、世界中に同志がいることを、忘れるわけにはいきません。旭くんとの早すぎる別れに、哀しみは尽きませんが、そういう気持ちでいます。

もうすぐ藤本御導師の、七回忌です。決して譲りません。あの時のことは、決して忘れない。

旭の死に際を見て、痛感しました。本当に、御法さまは尊く、恐ろしいほど、ありがたい。旭は、英雄になりたかったのです。情緒不安定で、プライドが高く、屈辱感が離れない弱虫なのに、彼は歴史上の英雄が大好きで、そうなりたかったのです。

最期のノートに書いてありました。

「御宝前様よ。本当にこの世にいて、俺に道を下さるなら、なるべく、いや早く俺を死なせて下さい。そして、来世は“今世の張良”と言われるくらいの英傑、東郷重位(ちゅうい)にも負けないくらいの武人、強さを持つ、織田信長公や初代ウェリントン公、ナポレオン、児玉・大山大将、西郷隆盛、ランヌ・シャープくらい、知略、人徳、武威、人格、優れていて、上に立つ、素晴らしい人間に生まれ変わらせてください。」

仕方ない子だと思うけれど、彼はこんなに早く望みを叶えてしまいました。彼は、永遠のご弘通の歴史の中に刻まれたのです。屈折して、愚痴を言い、また苦しみ、悩み、羨んで、過ごすだけの人の世だったかもしれないけれど、けれども、けれども、そうではなくなった。最高の生き方、最高の逝き方を選んで、彼は生まれ変わりました。

あの村の人たちは、彼の写真を学校の教室に飾り、称え続けると言っていました。まさに、彼が望んだとおりです。教務としてのご奉公は出来ませんでしたが、彼はご弘通の最前線に立ち、純粋な菩薩行、ご奉公の途中で難に遭い、唱え死をなさった真実出家、本物の佛立教務です。本当に、羨ましいくらいの最期です。

御法さまは、本当におられて、私たちを見守り、導いてくださっていることを感じています。

まだ、清行をネパールに残しています。彼も、真摯にこの死を受け止め、頑張ってくれています。

旭くんのノートは十四冊目になっていました。

彼の死後、ネパールに持ってきていたノートを読みました。

どれだけ思ってくれていたか、あらためて思い知り、涙が止まりません。僕のような者のことはともかく、旭の透きとおっていく心を、書かせてください、言わせてください、伝えさせてください。

「無駄死にか。だけどよ、自分の死によって誰かの命がつながる事ってのは無駄死にか。」

「有難い。有難い。私は普通の人よりも何倍も何倍も恵まれている。長松御住職に出会えたことに感謝だ。感謝だ。」

「普通の人なら長松御住職のような方に会えずに自殺してしまう方だって世の中に沢山いるのに。俺は信心、御宝前、長松御住職、黒崎さんと出会えた。すごい恵まれているな。幸せだ。幸せだったんだ。今の今の今まで気付かなかった。愚かだ。」

「精神疾患になったのもお計らいや。御宝前様からのお計らいなんだ。この病気しなかったら、長松御住職とも黒崎さんにも会えへんかった。色々な深い業にも気付けなかった。自分自身にも。安彦さんにも会えなかった。御宝前様は本当に有難い。南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。」

これが、まるで宮沢賢治のノートのように、旭くん自身がノートに綴っていた言葉でした。

御法さま、どうか、旭くんを導き、お見守りください。

先に逝ってしまった戦友を悼み、そして彼の志を受け止めて、ご両親、ご家族のお言葉、お気持ちを受け止めて、これからもご弘通の手を緩めることなく、さらに情熱を傾けて、広宣流布のご奉公に精進させていただかなければならないと思っています。

若い戦士を死なせてしまった一軍の将として、心から血が出るほどの責任を痛感するとともに、さらなる決意を固めて、通夜、明日の告別式を勤めさせていただきます。

今その功徳を鑑み、後信の範たらんことを顕彰せしめんがため、法号を授与して、
 本地院信昇日旭信士
と号す。

願わくはこの哀愍の歎徳を受け、寂光の本宮に安からしめんことを。かつ生々世々、生まれ変わり、死に変わり、行菩薩道の誓願に任せて、師と、弟子と、生を共に相まみえ浄佛国土の大願成就に精進せんことを請い願うのみ。

妙法蓮華経とは、上は悲想の雲の上、下は奈落の炎の底までも、皆この光明に照らされて、一切の群生、諸々の苦患を逃るるものなり。

経に曰く「毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身」「於我滅度後 応受持此経 是人於仏道 決定無有疑」。

高祖曰く「日蓮は日本第一の法華経の行者なり。日蓮が弟子旦那等の中に、日蓮より後に来たり給ひ候らはゞ、梵天、帝釈、四大天王、閻魔法皇の御前にても、日本第一の法華経の行者、日蓮坊が弟子旦那なりと名乗って通り給ふべし。此の法華経は三途の河にては船となり、死出の山にては大白牛車となり、冥土にては燈となり、霊山へ参る橋なり。霊山へましまして艮の廊にて尋させ給へ。必ず待ち奉るべく候」と大慈大悲大恩報謝。

納種在識 永劫不失 名字信行 即身成仏。

右、喪主、妙深寺 今般寺葬に準じて執行す。

仰ぎ願わくは、妙深寺ご弘通隆昌発展、宗門興隆、ネパール支援活動完遂、当山所属教講、小原家並びに家内、一門の面々、只今参詣、参列の面々、謗法・罪障消滅、定業能転、信行増進、ご奉公成就、現世心中諸願決定成就円満一切無障礙。

惟時 平成二十七年十一月二十三日
本門佛立宗 妙深寺 第四世住職 清潤、旭、棺中の霊位を敬って曰す。

今日は飛行機、明日は電車

今日は飛行機を使わせていただいて、明日は小倉駅から新幹線、京都駅でサンダーバードに乗り換えて敦賀、敦賀で北陸新幹線に乗り換えて長野へ向かう予定です。 小倉から京都は591キロで148分、京都から敦賀は94キロで52分、敦賀から長野は353キロで110分だそうです(乗換案内さんが教...