小原旭 通夜 歎読
平成二十七年十一月十六日、仏陀釈尊生誕の地、ネパール大地震の支援活動中、不慮の事故によりて此の娑婆を忍土の一期と定め二十有六才の若きを以て寂光の本宮に還帰せる一霊。
通称、小原 旭(あきら)
ここに謹んで言上いたします。
この数ヶ月、死の予感がしていました。
「死ぬなよ、殺すなよ」と自分にも、ご奉公している者にも言い聞かせていましたが、自分ではなく、自分を慕ってついてきてくれた青年を、先に、死なせてしまいました。
お懺悔いたします。本当に、申し訳ありません。
僕たちは最前線に立つ弘通の戦士だと話をしてきました。広宣流布、一天四海皆帰妙法を心底願い、その最前線に立とうと語り合ってきました。ここにこそ、命を賭ける価値があると、皆に話をしてきました。
小原旭くんは、仙台妙法寺 気仙沼清護寺の小原日諭御導師の孫、青森青松寺の小原信盛御住職のご子息。これまで特別の親交はありませんでしたが、彼は妙深寺の寺報やブログに感激してくれて、突然私を訪ねてきてくれました。
高祖立教開宗七五〇年の時、十三才だった旭くんは現在大本寺乗泉寺で活躍している野本信生師と共に、まるで神童として得度をしました。彼らのことは当時佛立新聞などで大々的に伝えられ、私もうっすらと記憶していました。しかし、旭くんは小学生や中学生の頃の嫌な思い出や、プライド、劣等感などに苦しみ、統合失調症と診断され、強い抗精神薬を飲み、この時はすでに教務の道をあきらめていました。いや、むしろ、いろいろなことから逃れたいと、周囲を憎み、恨んでいました。
たぶん、2度目、妙深寺の本堂の奥にあるお控えの間で彼に会いました。
長い間、病気で苦しんできたこと。強い薬を飲まなければならない生活を続けているということ。しかし、得意な英語を学ぶために、ロンドンに行って勉強したいと話してくれました。そして、いつか、僕と一緒に、海外でご奉公をさせていただきたいと、言ってくれていました。
あの時、「あなたの目を見ると、何故だか泣けてくる。涙が出て仕方ないんです。」といって、あの部屋で、ポロポロ、ポロポロと、涙を流して、泣いていました。その姿が今でも忘れられません。
病のこともあり、ロンドンでの留学生活をとても心配していましたが、それはホームステイ先にも話してあるとのことでした。そして、彼は半年間のイギリス留学を終えて、帰国しました。
帰国してすぐお土産を持って報告に来てくれました。ロンドンでも、とても苦しかったと言っていました。しかし、彼は頑張り屋でもありますから、やり遂げてきたのだと思います。
その後も、一進一退の病と闘いながら、彼は彼として、自分が背負っている運命を乗り越えようと、もがいていました。
「けれども、けれども」は、旭の口癖でした。たくさん、たくさん、話をしました。
旭くんは、まるで早い別れを知っていたかのように、いつもどこか憂いを抱えていて、ため息をつくのが癖でした。何度も何度も、ため息をつかないように言っても、「はい。はぁ〜」とため息をつく。しっかり生きようとする気持ちと、それを躊躇させる何かが、心の中にありました。そして、それと戦っているのが分かりました。その姿、そんな旭くんとのやりとりが、いま瞼の奥に浮かんで仕方がありません。
絡まっていた糸を解くために、小原御導師や小原御住職、お母さま、ご家族にもお力をいただきました。教務として籍を置いていることが、現実教務としてのご奉公が出来ていない彼にとって耐え難いものとなっていました。心身が健康になり、再び自分の意志で佛立教務道に入りたいと思えるその日まで、還俗させていただきたいとお願いしました。本当に、ご宝前にも、皆さまにも、申し訳ないことでしたが、旭くんがもう一度人生のスタートラインに立つために欠かせない、大切なことだったと思っています。
遠くにいるよりも、いつも目の届く場所で、親切な病院もあり、ご信者さんも近くにいる環境に来れば、少しでも病気が良くなると、引っ越しを勧めました。
妙深寺の近くにアパートを借りて、新しい生活が始まりました。
旭くんと僕の交換日記は、その頃に始めました。旭くんの心の中にわき起こる気持ちを紙に書いて、一緒に確認していこう、整理してゆこう、と始めたのでした。彼が亡くなってから分かりましたが、彼は気持ちを書き綴るということを、死の直前まで続けていました。
妙深寺に来て、黒崎とし子さんと出会い、第二の母のように心を開き、何から何まで相談し、教えていただいていました。お参詣やご奉公はもとより、共に農園で作業したり、お塔婆の浄書係をしたり、とし子さんの存在は、彼にとってかけがえの無いものとなってゆきました。
あれだけ強い薬を飲んでいた病気も、みるみる良くなってゆきました。妙深寺の、たくさんの方々に囲まれて、見守られ、触れあいながら、旭くんの新しい人生が始まろうとしていました。
お医者さまから「もう治療はいらない。終診にしましょう。薬も必要ないでしょう」と言われた時、手を取り、抱き合って喜んだことが忘れられません。
出会った時の状態からすれば考えられないことでしたが、その後介護施設に就職し、仕事も出来るようになりました。無理をしてはいけないと、会う度に声を掛けていましたが、仕事にも、お参詣にも、ご奉公にも、精一杯頑張っていました。
そして、旭くんは彼が最初に望んだとおり、語学力を活かして、海外弘通の現場に立ってゆきました。
2012年9月。イギリスに半年間留学し、帰国しました。
2013年11月、フィリピンの巨大台風災害にあたり、妙深寺の兼子清顕師、堤清信師とともに、この支援活動に参加しました。彼は、様々な葛藤、自分が抱えてきた病気を乗り越えて、ついに海外弘通の最前線に立ったのでした。
2014年2月、旭くんは有馬清朋師とともにインドを訪れました。デリーでの教化ミーティング、釈尊成道の地・ブッダガヤ、法華経説法の地・ラージギルでも、霊鷲山でも、ご奉公をしてくれました。妙深寺が親会場を建設しているバライニ村で、貧しい子どもたちにプレゼントを手渡す旭くんの姿が忘れられないと、泣きながらインド人信徒のシェーカーが話してくれました。
そして、今回。3回目となるネパール大地震の支援活動に、彼は参加してくれました。実はこの夏前から体調を崩し、また苦しんでいました。一進一退の病は、彼を簡単に闇の中に戻してしまいました。このまま仕事が続けられるか、次にどのような道を歩めばいいか、旭くんは悩んでいました。
8月、宗門の支援金をお預かりしたネパールへの支援活動が始まり、帰国後、チーフの清水清康師が涙ながらに活動報告をしました。旭くんはこれを聞いて感激し、まさに、彼は、生まれ変わるために、自ら志願してネパールへ向かうことを決意しました。この支援活動には、同じく報告を聞いて感激してくださった方々が自費で参加を願い出てくださいました。旭くんの第二の母・黒崎とし子さん、シェーカーをお教化に導いた野崎隆雄さん、年の近い法深寺の石田哲也くん。みなさんと共に、彼はネパールに向かいました。
たくさんの時間を過ごしてきましたが、今回が、旭くんと僕の、一緒に出る、最初の海外弘通の現場でした。彼も特別に思っていただろうし、僕も特別に思っていました。しかし、僕がネパールに着いて、最初にしたご奉公は、旭くんの死を看取ることでした。
当初、空港に到着すると現地でお教化になったディペッシュくんが「小原くんがトラックに挟まれて、足を骨折しました。その関係で迎えの車を変更しています。」と言っていました。聞いてみると、「骨が折れているか、クラック(ひび)が入ったかもしれません」と言っていたので、大事に至らなければと、少し安心していました。
当初の予定を変更し、空港から村に向かわず、そのままカトマンズで旭くんが向かう病院で合流しようと待っていました。すると唐突に連絡が入り、シリアスな状況であると言われました。
電波の状況が悪く、なかなかつながらない中で、そのようなことでした。
慌ててディペッシュくんのお父さんが車を出してくれることになり、病院に向かいました。ネパールの、雑然とする道を走り抜け、遠くに病院のような建物が見えて、その入り口まで来ると、反対の側から大きなランドクルーザーが門に入るところでした。黒煙を吐いて、とても慌てて運転しているのが分かりました。
そして、その車の中で、心臓マッサージをしているような様子が見えました。驚いて、「おい!心臓マッサージをしてんるじゃないか?なぜだ!」と叫び、救急の入り口の前に止まった車まで走り、ぐったりした旭くんを抱きかかえて、タンカの上に下ろしました。この時、もう体に力無く、呼吸がありませんでした。
支援物資を積んだトラックが村の手前の坂で止まり、そのトラックを引き上げようとしていたそうです。それまでは土嚢を詰める安全な作業だったのですが、そこに駆けつけて、ロープを持ちました。トラックを上げるために、引く者と、押す者とで、頑張っていたそうです。そうしていると、トラックが勢いよく坂を上がり、二番目にいた小原くんが倒れて、左の後ろのタイヤの下に巻き込まれてしまったとのことでした。
事故の直後は意識もはっきりしていて、受け答え出来ていたそうですが、車の中で容態が急変してゆきました。
国も、国連も立ち入らない僻地、サムンドラデヴィからカトマンズの病院までは、長く、険しい道のりです。清顕師、とし子さん、イギリス人信徒のジェシー、インド人信徒のシェーカーが、旭くんに同乗してくれていました。
とし子さんに抱きかかえられながら、「痛い!」という言葉を御題目に変えて、旭くんは死の瞬間まで、「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と、唱え続けていたそうです。息が途絶え始めたのを見て、ジェシーが必死に人工呼吸をしてくれていました。体が浮くほどの悪路。ジェシーの口の中は彼の歯に当たり、傷ついていました。
とし子さんとシェーカーが両手を握りしめ、ジェシーが必死に人工呼吸や心臓マッサージをし、全員で御題目を唱える中、旭くんは息を引き取りました。その場所は、ヒマラヤの見える美しい頂の上でした。
小原旭くんは、とても美しい顔で、眠っているようでした。警察が遺体の写真を撮りたいということで、私も立ち会い、彼の全身を見ましたが、身体の傷も、右側の腰に、赤くなったすり傷、左のももにすり傷があるだけで、事故で亡くなったとは思えない、あまりにもきれいな体でした。
何時間遅れても不思議ではないネパールで、僻地から搬送されてきた旭くんの車と、カトマンズ市内から向かった私の車が、病院の門前で出会うなど想像もつかない確率です。しかし、そうなりました。本当に、この出来事は凡慮の及ばぬことなのだと、痛感しています。
東日本大震災の支援活動、陸前高田、大船渡、フィリピンへの支援活動、インド、デリー、ラージギル、ネパール大地震の支援活動など、振り返ると、彼が夢見ていたとおり、旭くんは国内外のご弘通の最前線で、ご奉公してくれました。
彼は、私の大切な戦友でした。かけがえのない戦友でした。
Buddhists sans frontiers.
物好き、目立ちたがり屋、スタンドプレーと言われても、純粋に全世界への広宣流布、一天四海皆帰妙法を願い、機会を得てその最前線に立ち、その使命を果たしたいと生きてきました。その尊い使命の前には、平穏で豊かな暮らしも霞み、色褪せてしまうのです。
法華経本門の菩薩行、国内外の被災地におけるひたむきなボランティア、下種結縁のご奉公は、私たちに何度もご弘通の真の意味を教え、たとえどんな苦難が待っていようとも、その先頭に立ち続ける覚悟でした。
しかし、そうしたご奉公の中で、私を慕ってくれていた青年を死なせてしまったことは、痛恨の極みです。すべて私の責任であると思っています。私は死を覚悟していたけれど、旭くんを先に逝かせてしまいました。本当に、申し訳なく思っています。
ネパールに来てからも、旭くんは一人ボーッとすることがあったそうです。しかし、事故の前夜、作業が終わり火を囲んで話をしていた時、海外のボランティアから「誰か日本の曲を歌ってくれ」と言われ、みんなが躊躇していたのに、旭くんが手を上げて、ギターを手にしました。彼は弾けないギターを手にしながら、どこで覚えたのか分かりませんが、名曲「見上げてごらん夜の星を」と「島唄」を、大きな声で歌ってくれたのだと聞きました。ネパールで走り廻っていた時から、頭の中で彼が歌っていたという「見上げてごらん夜の星を」のメロディが、静かに流れています。
翌朝、8時からのお看経となっていましたが、7時半に清顕師のところに来て、「先にお看経をしていいでしょうか」と言ったので「もちろん、そうしてください」と言うと、小さな教室に入り、一人でお看経を始めたそうです。すると、校庭にいた子どもたちが集まってきて、小原くんと一緒に御題目を唱え始めました。その模様があまりにも美しかったので、スタッフがビデオに撮って遺してくれました。
そして、お昼前、事故が起きてしまいました。
彼は、生まれ変わるために、ネパールに来たのだと言っていました。苦しく、つらかった過去を振り返り、このご奉公で、それを乗り越え、生まれ変わりたいと言っていたのです。その思いは、溢れるほどノートに刻まれています。
百本祈願をし、83本目でネパールに入り、きっと車の中の最後のお看経が、百本目ではないかと思います。本当に、教えのとおりです。
小原御導師、お母さま、二人の妹さんがネパールまで迎えに来てくださり、最初に旭くんのご遺体と面会し御題目をお唱えしている時、地震が起こりました。私たちは感じませんでしたが、マグニチュード5.3、ネパールと中国の国境付近はかなり揺れたそうです。枕経に同席してくださっていた日本大使館の方に何度も連絡が入っていました。六種震動、これらも、彼からのメッセージの一つと感得しています。
彼は、11月16日に帰寂しました。数えてみると、49日目は1月3日、彼の誕生日です。一年365日ある中で、この日を選び、彼は旅立ちました。全く、凡夫の考えの及ばぬところです。本当に、彼は今生の生を全うし、生まれ変わるのだと確信いたします。
この数日間、ヒマラヤは深い霞に隠れて見えなかったと聞きました。しかし、私たちが事故のあった村を訪れた日、遥か向こうの天空に、真っ白な雪を湛えたヒマラヤが、見事な威容を見せていました。村の人たちは口々に旭くんの死を悼み、長老の一人であるミルキーババは泣き続けていました。
サムンドラデヴィの教師が、代表して旭くんに追悼の詩を読んでくれました。
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「小原旭氏へ捧げる詩」
この世界を旅立った友よ
予期せぬ 早すぎる死による痛みは 時だけが解決するだろう
言葉にできない 我々の心境を 言葉にはできない
しかし 仏陀の下でのあなたの任務は 永遠に刻まれる
そして その素晴らしき貢献は 我々の記憶の中に 留まり続ける
死はどうすることもできない
はかりしれないほどの悲しみを胸に あなたを悼み あなたに敬礼をして あなたを尊敬し続ける 永遠に
あなたはここにはいない しかし あなたの魂は我々とともにある 永遠に
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「心からの哀悼」
恐怖に満ちたネパール大地震の後、身体的に復興支援に力を注ぎ、私たちネパール人へ素晴らしき支援をしてくださった小原旭氏のヌワコットでの早すぎる死にお悔やみを申し上げます。
今、私たちは二度と起こるべきではない今回の事故に対して大変ショックを受けています。
私たちは小原氏が再び生まれかわるように仏様に祈り、小原氏の霊魂、遺族、友人、仲間たちが抱える心痛に力を与え、そして、小原氏の霊魂が寂光で安らかに眠りますように祈願致します。
サムンドラ・ハイヤー・セカンダリー・スクール・ヌワコット
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仏陀生誕の地、ネパール。
この支援活動に、佛立仏教徒としての使命を強く感じてきました。ネパールでの開教ご奉公は、最も早くネパールに入ったコレイア清行をはじめ、日本、スリランカ、インド、ブラジルなど、各国から参集した佛立教講によって進められてきました。
長松清潤、清水清康、兼子清顕、有馬清朋、ディリーパ良潤、橋本恒潤、北崎立耕、清水法光、コレイア清行、野崎隆雄、黒崎とし子、小原旭、石田哲也、シェーカー・クマール、アサンカ・プラディープ、ルーパス・ロドリゴ。総勢十六名、三度にわたる支援ご奉公。
海外弘通という海外旅行ではなく、海外弘通というならば海外弘通でなければならない。ご弘通の最前線には危険がつきもので、何が起こるか予想もつきません。語り尽くした覚悟の上の参加とはいえ、ご奉公の責任者として旭の死について責任を痛感し、旭の死の意味を、まっすぐに受け止めています。
ネパールは、私たちにとってさらなる特別の国、特別の場所となりました。この地で戦友が死にました。この地で、私たちの目の前で、彼を見送りました。
旭くんの訃報を聞き、コレイア御導師がメールをくださいました。
「いかなる形にせよ、いつかわれわれの順番が来る。この確信があることは一つの慰めです。先に旅立たれた青年に、先立たれたので、謝るとともに、ありがとうと伝えたいのです。あなたの死は決して無駄にいたりませんと。いくら死んでも、生まれ変わっても、そのようなご奉公を続けさせていただきますと、言いたいです。」
「しかし、それでも生き続けることこそが、勝負です。先立たれたその方のためにも、また立てた誓いを破らないためにも、譲りません。負けません。」
全く、そのとおりだと思います。涙が出て、止まらなくなりました。そして、これからも、前を向いて、この扉を押し続けなければ、旭に申し訳ないと、さらに強い確信と覚悟を抱いています。
すでに、世界中に同志がいることを、忘れるわけにはいきません。旭くんとの早すぎる別れに、哀しみは尽きませんが、そういう気持ちでいます。
もうすぐ藤本御導師の、七回忌です。決して譲りません。あの時のことは、決して忘れない。
旭の死に際を見て、痛感しました。本当に、御法さまは尊く、恐ろしいほど、ありがたい。旭は、英雄になりたかったのです。情緒不安定で、プライドが高く、屈辱感が離れない弱虫なのに、彼は歴史上の英雄が大好きで、そうなりたかったのです。
最期のノートに書いてありました。
「御宝前様よ。本当にこの世にいて、俺に道を下さるなら、なるべく、いや早く俺を死なせて下さい。そして、来世は“今世の張良”と言われるくらいの英傑、東郷重位(ちゅうい)にも負けないくらいの武人、強さを持つ、織田信長公や初代ウェリントン公、ナポレオン、児玉・大山大将、西郷隆盛、ランヌ・シャープくらい、知略、人徳、武威、人格、優れていて、上に立つ、素晴らしい人間に生まれ変わらせてください。」
仕方ない子だと思うけれど、彼はこんなに早く望みを叶えてしまいました。彼は、永遠のご弘通の歴史の中に刻まれたのです。屈折して、愚痴を言い、また苦しみ、悩み、羨んで、過ごすだけの人の世だったかもしれないけれど、けれども、けれども、そうではなくなった。最高の生き方、最高の逝き方を選んで、彼は生まれ変わりました。
あの村の人たちは、彼の写真を学校の教室に飾り、称え続けると言っていました。まさに、彼が望んだとおりです。教務としてのご奉公は出来ませんでしたが、彼はご弘通の最前線に立ち、純粋な菩薩行、ご奉公の途中で難に遭い、唱え死をなさった真実出家、本物の佛立教務です。本当に、羨ましいくらいの最期です。
御法さまは、本当におられて、私たちを見守り、導いてくださっていることを感じています。
まだ、清行をネパールに残しています。彼も、真摯にこの死を受け止め、頑張ってくれています。
旭くんのノートは十四冊目になっていました。
彼の死後、ネパールに持ってきていたノートを読みました。
どれだけ思ってくれていたか、あらためて思い知り、涙が止まりません。僕のような者のことはともかく、旭の透きとおっていく心を、書かせてください、言わせてください、伝えさせてください。
「無駄死にか。だけどよ、自分の死によって誰かの命がつながる事ってのは無駄死にか。」
「有難い。有難い。私は普通の人よりも何倍も何倍も恵まれている。長松御住職に出会えたことに感謝だ。感謝だ。」
「普通の人なら長松御住職のような方に会えずに自殺してしまう方だって世の中に沢山いるのに。俺は信心、御宝前、長松御住職、黒崎さんと出会えた。すごい恵まれているな。幸せだ。幸せだったんだ。今の今の今まで気付かなかった。愚かだ。」
「精神疾患になったのもお計らいや。御宝前様からのお計らいなんだ。この病気しなかったら、長松御住職とも黒崎さんにも会えへんかった。色々な深い業にも気付けなかった。自分自身にも。安彦さんにも会えなかった。御宝前様は本当に有難い。南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。」
これが、まるで宮沢賢治のノートのように、旭くん自身がノートに綴っていた言葉でした。
御法さま、どうか、旭くんを導き、お見守りください。
先に逝ってしまった戦友を悼み、そして彼の志を受け止めて、ご両親、ご家族のお言葉、お気持ちを受け止めて、これからもご弘通の手を緩めることなく、さらに情熱を傾けて、広宣流布のご奉公に精進させていただかなければならないと思っています。
若い戦士を死なせてしまった一軍の将として、心から血が出るほどの責任を痛感するとともに、さらなる決意を固めて、通夜、明日の告別式を勤めさせていただきます。
今その功徳を鑑み、後信の範たらんことを顕彰せしめんがため、法号を授与して、
本地院信昇日旭信士
と号す。
願わくはこの哀愍の歎徳を受け、寂光の本宮に安からしめんことを。かつ生々世々、生まれ変わり、死に変わり、行菩薩道の誓願に任せて、師と、弟子と、生を共に相まみえ浄佛国土の大願成就に精進せんことを請い願うのみ。
妙法蓮華経とは、上は悲想の雲の上、下は奈落の炎の底までも、皆この光明に照らされて、一切の群生、諸々の苦患を逃るるものなり。
経に曰く「毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身」「於我滅度後 応受持此経 是人於仏道 決定無有疑」。
高祖曰く「日蓮は日本第一の法華経の行者なり。日蓮が弟子旦那等の中に、日蓮より後に来たり給ひ候らはゞ、梵天、帝釈、四大天王、閻魔法皇の御前にても、日本第一の法華経の行者、日蓮坊が弟子旦那なりと名乗って通り給ふべし。此の法華経は三途の河にては船となり、死出の山にては大白牛車となり、冥土にては燈となり、霊山へ参る橋なり。霊山へましまして艮の廊にて尋させ給へ。必ず待ち奉るべく候」と大慈大悲大恩報謝。
納種在識 永劫不失 名字信行 即身成仏。
右、喪主、妙深寺 今般寺葬に準じて執行す。
仰ぎ願わくは、妙深寺ご弘通隆昌発展、宗門興隆、ネパール支援活動完遂、当山所属教講、小原家並びに家内、一門の面々、只今参詣、参列の面々、謗法・罪障消滅、定業能転、信行増進、ご奉公成就、現世心中諸願決定成就円満一切無障礙。
惟時 平成二十七年十一月二十三日
本門佛立宗 妙深寺 第四世住職 清潤、旭、棺中の霊位を敬って曰す。